「自分は素晴らしい存在だ」から始まる自己肯定感の罠
自己肯定感という言葉がある。
この言葉は日本では価値がある。人間なら持たねばならぬ財産であると重宝されている。
・・・が、実際にはこの自己肯定感はかなり危うい片足立ちのバランスで成立している事に気をつけなければならない。
例えば「自分は素晴らしい存在だ」という自己肯定感があったとする。
「自分は素晴らしい存在だ」で止まるなら問題は無い。だが、人間は思考を次へ次へと派生する本能を持つ生き物で、ここでは止まらない。
「自分は素晴らしい存在だ」が「自分は評価されるべき存在だ」に変化していく。
ここでも止まらない。更に自分の事を評価しないヤツは馬鹿だ。と自分と同等の性質を持つ人間は落ちぶれるべきだ。に思考が派生していく。
こうなってくると最初にあった自己肯定感の目的は崩壊する。他人を見下す自我肥大思考が完成してしまう。
そしてこの「自分は素晴らしい!」という価値観から他人を見下す思考はシームレスに移行する。だから、当の本人はこれは自己肯定感だと信じて止まらない。
結果として心に魔が宿り、他人を見下す行為を実践してしまう。
自己肯定感はまるで神話のような取り扱いをされている。
でも、明らかに”こうなってしまう”落とし穴がある。それが全く指摘されていないのが気になる。
自己肯定感と自己中心史観の区別が付いていないまま、自己肯定感という単語だけがポジティブなイメージを持って前に進んでしまった。
言葉とフレーズだけが選考し、言葉の意味についての調査がなされないまま、前に進んでしまっている。
自己肯定感という言葉を使う前に、自己肯定感という単語の定義について考えたほうが良い気がする。
「自己肯定感」という単語は言葉の危うさについて考察する非常に良いモデルケースだと思う。
・・・っていう話を書いた。
なんでこういう話を書いたかっつーと、自分もこういう思考回路に入ったことがあるからだったりする。
あまりにもシームレスにスムーズに自己肯定感がダメな方向に流れた時「怖っ」と思った。この落とし穴ヤバすぎだろ。と思った。みんなも気をつけて欲しい。心優しい人間でもこの自己肯定感の悪転化は普通に起きる。
自己肯定感は悪転化する。
誰も言わないけど、これは本当に気をつけた方が良いと思う。
クリエイティブの落とし穴として、誰も言わないけれど、これはマジで気をつけた方が良い。っていう話でした。
じゃ。
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