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デブオタと追慕という名の歌姫 #21



第7話 衝撃と栄光と別離 ⑤


 第三次選考が終わると、一六人いた歌姫は更に半減し八人になった。
 オーディション開始時点で六四人いたはずの歌姫は三度のふるいに掛けられ、もう数えるほどしか残っていない。
 リアンゼルを慕って出場した三人の少女も、一人また一人と落ちてゆき、最後に残ったアンジェラも八人の中に残ることは出来なかった。彼女は「どうか、私たちの分も……」とリアンゼルの手を握って、ステージから去っていった。
 僅かなインターバルを置いて、新たな選考の開始が告げられる。
 第四次選考。
 新たな審査員達が司会者に紹介され、歓迎の拍手の中で席に着いた。
 人々が見守る中、四組の対戦が始まる。
 だが、八人の中で目立っている歌姫は、誰の眼にももう明らかだった。
 最初の対戦カードに登場したリアンゼルがギターの伴奏と共に歌ったのは、パドル・オブ・グラィムの「オパシティ」だった。

「Tell me whether the day when this pain is healed comes」
(この痛みが消え去る日は来るのだろうか。ああ、誰か教えてくれ)
「You had only these pains and have left somewhere...」
(お前はこの痛みだけを俺の心に残して、どこかへ去ってしまった……)

 リアンゼルは冬の雨に身を晒して歌ったあの日を思い出し、歌った。
 土砂降りに打たれてもっと強くなってやる、と心の中で叫んだあの日の想いは今も彼女の中に燃え盛っているのだ。
 嵐のような歌声と咆えるようなギターの伴奏に人々は沸き経ち、歌い終わると同時に拍手と大歓声が彼女を讃えてくれた。
 次に対戦相手の歌姫が登場し、こちらも懸命に歌ったが、最初の対戦相手だったレイシス同様、リアンゼルの歌にはついに及ばなかった。
 曲が終わって選考が始まったが、間もなくステージ背後に設けられた巨大なスクリーンモニターにリアンゼルの名前が表示された。
 リアンゼルはホッとして会釈すると拍手の中でステージ裏へ戻ろうとした。
 その時だった。

「リアンゼル! リアンゼルさん!」

 観客席の脇から懸命に呼びかける声がする。その必死な声色に彼女は思わず振り向いた。

「誰?」
「私、ディアンナ・フォバートって言います。頑張って下さい。応援してます!」

 眼にいっぱい涙を溜めて叫んでいるのは、まだ青梅の実のような少女だった。

「私もあなたみたいな歌手になりたい。来年はきっとそのステージに……」

 手にはくしゃくしゃになったオーディションの通知書が握られている。きっと事前選考で落とされ、失意に打ちひしがれたまま観客席から見ていたのだろう。
 ここにも自分を道しるべに懸命に夢を追おうとする未来の歌姫がいる。
 思わず胸を打たれたリアンゼルは「ありがとう! あなたも頑張ってね、今度はきっとここに立つのよ。約束よ」と励ました。
 少女はわっと泣き出して両手で顔を覆った。周囲にいた友人らしい少女達が「よかったね!」「凄いよ、あの人に約束されたよ!」と、もらい泣きしながら声を掛けている。
 自分も眼頭が熱くなったリアンゼルは慌ててステージ奥へと引っ込んだ。

「リアン、あの娘と約束を交わしたのね」

 見守っていたヴィヴィアンが微笑みながら迎えてくれた。

「ええ。偉そうに言っちゃったけど……困ったわ。私、まだ優勝した訳でもないしプロ歌手になれた訳でもないのに」

 ため息をついたリアンゼルを見てヴィヴィアンは微笑んだ。

「だったらなおさら優勝しなくちゃね。あの娘は来年きっと今のあなたのようになるわ」
「まさか」

 苦笑したリアンゼルに、ヴィヴィアンは真顔で告げた。

「予言してもいい。あの娘はきっと生命を賭けても必ずこのオーディションを目指してくるわ。去年のあなたのように」

 ヴィヴィアンは、不思議そうな顔をしたリアンゼルの「ヴィヴィ、あの娘のこと知ってるの?」という問い掛けには答えず、逆に尋ねかけた。

「リアン、憶えてる? 去年の冬、ディファイアント・プロダクションをクビになったこと。あなたではなく別の娘がオーディションを受けることになった、と私は言った」
「ええ」

 リアンゼルは頷き、顔から笑みが消えた。
 あの日の鋭い心の痛みが胸に甦ったのだ。

「そういえば出場者の中に見知った顔はなかったわね。その娘は私やエメルと一緒に今ここに残っているの?」

 ヴィヴィアンはかぶりを振って微笑んだ。

「さっきの娘よ」
「えっ?」
「ディアンナ・フォバート。まだ歌唱力も未熟なまま精一杯頑張ったけれど、事前審査で落とされた。あの娘がディファイアント・プロダクションから出場したのよ」
「えっ……あの娘が?」

 解雇された自分が必死に努力を重ねて今ここに残っているのに、自分をクビにしてプロダクションが出場させた少女は、ステージに上がることすら叶わなかったという。
 リアンゼルには、にわかには信じられなかった。

「あの娘、私より見込みがあるはずだったんじゃなかったの? ……だからメイナードは私をクビしたんじゃ……」

 ヴィヴィアンはもう一度かぶりを振った。

「リアン、今だから教えてあげる。ディファイアント・プロダクションには暗黙のルールがあるの。プロダクションに所属する娘はブリテッシュ・アルティメット・シンガーに一度しか出られない。すべての娘に公平をチャンスを与える為に」

 それはリアンゼルが初めて聞く話だった。

「あなたは去年出場した。だからディファイアント・プロダクションにいる限り、本当はもう二度と出られなかったの。だけど、あれほどの努力を見たメイナードも私も、もう一度あなたに出場して欲しかった。だから解雇するしかなかったの」
「……」
「そして後ろ盾を無くしたあなたの傍にいたい、一緒に戦いたい……そう言って私も解雇してもらったの」

 リアンゼルは唖然としてマネージャーの告白を聞いた。

「あなたが自分で立ち上がった時、きっと強く立派になってくれる。そう信じていたわ。だから今までずっと黙っていた」
「……」
「栄光はもう手の届く場所にある。あなたは立派な歌姫よ」

 ヴィヴィアンはぼう然となったリアンゼルの頬に唇を触れると、耳元でささやいた。

「愛してるわ、リアンゼル。私の歌姫……」

**  **  **  **  **  **

 一方。
 人々の注目を集めるもう一人の歌姫は四組目、最後の対戦カードに姿を現した。
 きしるような序奏が流れる。
 エメルがまるで虚無にとらわれたような口調で歌いだし、憎しみに駆り立てられたように踊りだすと、人々はまたしても驚かされた。
 ナードパークの「インセンシブル」。
 この美しい歌姫のどこからと思われるほどの猛々しさに人々は息を呑んだ。
 だが、エメルの内にはこの曲に託した怒り、人々の知らない怒りがあった。
 それは……

 ――光の当たる場所には立ち入るな、いつまでもゴミ溜めではいつくばってろって言うのか、笑われて見下される為に!

 あの冷たい冬の雨に打たれながら叫んだデブオタのやるせない想い。
 エメルは、このステージから人々へ彼の怒りを歌という形で見せつけてやりたかったのだ。
 観客に向かって、叩きつけるように彼女は歌う。

「Somebody took my hope. It is stepped on and will be broken too」
(俺の望むものはまた誰かに奪われ、そして踏みつけられるのだろう)
「But I know it. Somebody also crushes the thing which you hope for and will step」
(だけど俺は知っている、踏みつけたお前が尊ぶものもまたそうなるのだと。いつの日か誰かに砕かれ、踏みにじられるのだと)

 それはリアンゼルと同じ種類の怒り。しかし異なる想いに染まったエメルの怒りだった。
 その怒りの因るところは知らなくとも、その怒りと悲しみの入り混じった想いは歌から人々へ痛いほど伝わってくる。
 曲が終わるや否や、大きな拍手と歓声で人々は彼女の激唱を讃えてくれた。
 頬を紅潮させてエメルが歓呼に応えている様子を見ながら、舞台の袖幕からデブオタは胸が熱くなるのを抑えられなかった。
 彼女が歌に籠めたものが何なのか、本当に知っている者はただ一人、あの日それを叫んだ自分自身だけなのだ。

「凄い歌姫ですね」

 横から話し掛けられたデブオタは、彼女から目を離せないまま自慢せずにはいられなかった。

「おお。あんな立派になりやがって。一年前、人に隠れて蚊の鳴くような声で歌ってたあのエメルが……」
「えっ、そうだったんですか?」
「そうさ。最初は人に聞こえるような声を出す特訓から始めたんだぜ。命懸けだったなぁ」

 思わず目を細める。あの時の苦労が今は何もかも懐かしかった。

「でも、今のあの姿を見てくれよ。オレ様の生命も賭けた甲斐があったってもんだぜ」

 思わずため息をついたデブオタは「文字通り精魂を傾けられたんですねぇ」と感心したような声に「ああ」と嬉しそうに頷いた。

「だとしたらあの娘も凄いが貴方も大したものですよ、春本ヤスキさん」

 呼びかけられた偽名にギョッとなり、そういえば自分に話し掛けているのは一体誰だとデブオタは横を向いた。

「音楽で知られた日本人はセイジ・オザワ(小澤征爾:世界的に有名なオーケストラ指揮者)ぐらいなものだろうと思っていましたが、なかなかどうして」

 ニコニコしながらマイクを向けているのはオーディションの司会者だった。
 しかも彼の後ろには撮影スタッフがいて自分にカメラを向けている。
 つまり、オーディションをテレビやネット中継から見ている世界中の人々は……今、自分を見ているのだ!
 いつも豪胆なはずのデブオタは真っ青になり、肝を宙に飛ばして逃げ出そうとした。

「あ、待って下さいよ。ダンボール箱に隠れるなら後で差し上げますから」

 イギリス流のジョークに観客はどっと笑ったが、デブオタは笑うどころではなかった。
 更にステージから戻ってきたエメルが「そうよ、デイブは凄いのよ!」と、彼の腕を取って自慢を始め、デブオタは逃げることも出来ずオロオロするしかなかった。

「ミスターハルモトは日本からわざわざ来られて彼女をスカウトされたんですか」
「ええ、まぁ……」

 まるで一年前のエメルのように、蚊の鳴くような声でデブオタは答えた。
 出来ればカメラのレンズから姿を隠したいのだが、エメルは誇らしげにその腕を掴んで離そうとしない。

「いろんな歌い方もダンスステップもみんな彼が私に教えてくれたのよ!」
「ほほう、日本流という訳ですか。道理で目新しい訳だ」

 そう言われ本当なら胸を張ってもいいところなのだが、当のデブオタは泣きそうな顔で身を縮こまらせている。

「それにしても素晴らしいものでしたよ」
「あ、ありがとう。それよりほら……エメルの対戦相手を待たせたら悪いんじゃないか?」
「ああ、そうでしたね。これは失礼」

 水を向けられた司会者はもとより一言か二言コメントを求めるぐらいのつもりだったらしく、笑顔で「では」と会釈してステージへ戻っていった。
 デブオタは安堵のため息を漏らすと、思わずその場にヘタヘタとくずおれた。

「デイブったら、一体どうしたのよ」
「いやその、オレ様みたいなデブが映ったらさぞかし嫌な目で見られるだろうって思って怖くてな。それにその、名前を呼ばれるのが……」

 語尾の方は口の中でモゴモゴ言っていて聞き取れなかったが、エメルは厳しい目でデブオタを睨んだ。

「何故嫌な目で見られるというの? デイブはデイブよ」
「エメル」
「この舞台に連れて来てくれた貴方を蔑む奴がいたら私が許さない。目にもの見せてやるわ」
「……」

 デブオタは、驚いたように目の前の歌姫を眺めていたが、それまでの情けない顔が優しく解け、ふっと微笑んだ。

「そうか」
「デイブ」
「その言葉だけでいい。オレ様はそれだけで、もう充分過ぎるくらいだ」
「……」
「ありがとう、エメル。ありがとうな」

 エメルは、そのとき彼が見せた顔と似た表情を以前にも見たことがあった。
 それは歌手志望の少女達と一緒にお茶を飲もうとするエメルに自分は行かないと断ったときの笑顔だった。

 ――オレ様なんていない方がいいからさ

 寂しさの入り混じった笑顔は、エメルだけが知っているデブオタの素顔。
 そして今見た笑顔は、その時よりもずっと嬉しそうだった。心からの笑顔だった。

「デイブ……」

 蔑む人々の世界と相容れないことを知っている男。そんな蔑みを自分に代わって跳ね返してやるという彼女の言葉は、彼の傷ついた心を癒してあげられたのだ。
 エメルは顔を伏せ、思わず自分の胸を手で抑えた。
 そうしないと、彼を想う気持ちが溢れてもう止められないような、そんな気がして。

 背後のステージからは司会者の声がエメルの勝利を告げ、彼女を讃える拍手が遠い潮騒の音のように二人の耳に聞こえてきた。

**  **  **  **  **  **

 わずかなインターバルを置いて、第五次選考が始まった。
 勝ち残った歌姫はもう四人だけである。対戦カードもとうとう二つきりとなった。
 そして、その前者にリアンゼルが、後者にエメルがいた。
 最初の対戦カードに出場したリアンゼルは、序奏と共に丸ブチの大きな青いメガネを掛けてステージに現われた。

「I heard your radio program in old days. The timeworn transistor radio of my house was a magicbox」
(僕は昔、君のラジオ番組に夢中だった。僕の家の古ぼけたトランジスタラジオは魔法の箱だった)
「My request tune played from a radio and was very happy. The nostalgic times. As for the street life, every day was fun」
(僕のリクエスト曲がかかったとき、天にも昇る心地がしたものさ。思い出すと胸が痛む。のどかなあの時代の街の中で)

 彼女が歌い始めたのは、リトル・バグの名曲「レディオスターの去った後に」だった。
 素晴らしい選曲に会場は歓声に包まれる。観客の中には「Oh-a,oh」とコーラスする者、合いの手の拍手を打つ者まで現われた。
 メガネはボーカル歌手のトレードマークで、彼に為り切って歌うための彼女なりの演出なのだろう。それはちっとも似合っていなかったが、人々の眼には微笑ましく映った。
 そして、彼女の美しい歌声は古い時代を懐かしむノスタルジックな歌詞を優しく歌い上げる。

「Changed in the times. From a radio to the Internet. I can not hear your voice from an already old radio」
(時代はうつろう。ラジオからインターネットへ。もう魔法の箱から君の声は聴こえてこない)
「The Internet radio cannot return anymore in those days, we can't rewind we've gone to far」
(ネットラジオじゃあの頃には戻れない。ああ、あまりにも遠くまで僕らは来てしまった)

「えらい歓声だ。アイツも凄いな」

 ステージ裏で聞きながらデブオタは、肩をすくめた。もうここに他の少女は誰も残っていない。

「いじめっ子で負け犬だった頃は小物風情ってカンジだったのになぁ。ついにラスボスまで進化しやがって、ううむ……こりゃお見それしましたって奴だな」

 苦笑いしながらデブオタはブツブツ言っているが、エメルは何も言わず静かに微笑んでいる。

「あの綺麗なマネージャーが矯正したのかな。何だか随分オレ様のことを買い被ってたみたいだが」
「……」
「ま、どうでもいいや。そんなの気にしてる余裕なんかこっちにゃねえっつーの、なぁエメル」
「……うん」
「エメル、さっきから黙ってるけど……緊張してるのか?」
「ううん」

 エメルはかぶりを振ってデブオタを真っ直ぐ見つめた。

「デイブを見ていたら私、落ち着いていられるの」
「そ、そうか……」

 むず痒い顔になったデブオタだったが「オレ様の顔なんぞで落ち着くなら幾らでも見てくれ」と笑った。
 エメルも笑ったが、その表情は嬉しそうというより、まるで愛しむような色を浮かべている。
 デブオタは困ったように視線を左右に逸らしてはしきりに鼻を掻いた。
 しばらくすると、リアンゼルの対戦相手の歌が聴こえてきた。この後の審査が終われば、次はエメルの対戦カードが始まることになる。

「もうすぐ出番だな。まぁエメルなら楽勝だろ」
「相手の娘、有名なプロダクション出身だって。歌が凄く上手って審査員に褒められてたわ。負けるかも知れない」
「勝てるさ。エメル、この一年お前がどれだけ頑張ってきたか思い出してみなよ」
「……」
「エメル以上に頑張った奴は誰もいない。だから心配することはないさ」

 さっき、カメラを向けられてオロオロしていた男とは思えない「オレ様を信じろ」というデブオタの力強い言葉にエメルは頷いた。

「そうそう、うっかりするところだったぜ、これを見てくれよ。秘密兵器を用意したんだ」

 デブオタは自慢そうにそう言うと、例の擦り切れかかったリュックサックを引っ張り上げた。

「秘密兵器?」
「この後の出番でエメルが勝ったら次はいよいよアイツとの対決になる。かつてのいじめっ子相手に一筋縄じゃいかねえだろう。そこでだ」

 リュックサックの口を開くと、そこには紙筒らしいものがぎっしり詰まっていた。
 紙筒は太さがバラバラだったが、一見してそれが何なのかエメルには分からなかった。

「デイブ、これって一体……」
「花火」

 ニカッと笑ったデイブの向かい側で目を丸くしたエメルは、その小さな口も丸くしてオーの字を作った。

「は、花火って……」
「オレ様が観客席のあちこちからこれを打ち上げる。それもライブの時に上がるような派手なだけの演出じゃねえ、エメルの歌の要所要所にタイミングを合わせて打ち上げてやるんだ。フヒヒッ」
「そ、そんなこと出来るの? 捕まったら……」
「なぁに、そんなヘマはしねえよ。観客がこれだけいりゃあ紛れ込んで逃げるなんざ楽なもんさ。ま、エメルの為なら別に捕まってもいいけどな」

 肩を揺すってデブオタは吼えるように笑った。

「客と一緒にうおーって盛り上がってハイになれたらさ、アイツが鬼みたいな顔して睨んでいようが怖かねえだろ、ガーハハハ!」
「……」

 リラックスして歌えるように、彼はまた身体を張ろうとしている。
 エメルは涙が出そうになったが必死にこらえた。
 だが涙をこらえても、心から溢れ出してくる目に見えない何かを押しとどめることはもう出来なかった。

「……」

 エメルはその何かに突き動かされるように立ち上がり、デブオタへ向かってふらふらと近づいた。
 ステージからは、リアンゼルの名前を称讃する歓声と拍手が聞こえてくる。

「アイツやっぱり勝ったな。エメル、負けるなよ」
「……」
「ほら、お前の名前が呼ばれてるぜ。さぁ行って来い。思いっきり歌って来い!」

 その声にエメルは張り切って走り出す……てっきりそう思ったのに、彼女は自分の目の前に佇んでいる。
 デブオタは怪訝そうな顔になった。

「どうした、緊張しちゃったか? リラックス、リラックスな」
「……デイブ、私がこれから何を歌うか知ってるわよね」
「お、おお」

 デブオタは、エメルのどこか奇妙な様子に気圧されながら答えた。

「My heart is dyed your eye color(恋は貴方の瞳に染まって)」

 頷いたエメルは、頭ふたつ分は背の高いデブオタの顔を見上げた。潤んだターコイズグリーンの瞳は、まるで宝石のように美しく輝いている。

「デイブ、その歌を上手に歌えるおまじないがあるの」
「おまじない?」
「ええ、それをしたらきっとこのステージも勝てるわ。していい?」
「おお、いいとも。しろしろ。でもそのおまじないってのは一体何……」

 デブオタが言い終わらないうちに、エメルは爪先立ちになって両手で彼の顔を挟んだ。
 そして、何をしようとしているのかまだ理解出来ないでいるデブオタを優しく見つめると瞳を閉じ、その唇に自分の唇をそっと重ねた。

「……」

 恥ずかしさと、そして幸せな気持ちで心がいっぱいになった。
 この気持ちそのままに歌おう……そう思ったエメルは笑顔を浮かべると、ぼう然となったデブオタをその場に残し、駆け出していった。

 眩い光のあふれるステージに向かって……


次回 第7話「衝撃と栄光と別離 ⑥」


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