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【猫小説】『メニー・クラシック・モーメンツ』プロローグ


 僕は、あっけなく死んでしまった。

 まだ、20代後半だったし、やりたいことだってそれなりにあった。やらなければいけないことだって残されていたはずだ。
 グラフィックデザイナーとしての仕事も、少しずつ、ひとりで任せてもらえるようになっていたし、いつか有季(ユウキ)とパリにも行ってみたかった。
 もっと料理の腕を磨いてレパートリーを100にするのが当面の目標だったし、彼の好きな茶わん蒸しも、これからだって作り続けるつもりでいた。
 有季ともっとたくさんキスをしたかったし、その先のことだってもちろんしたかった。
 他愛ない話をして、些細なことで笑ったり、怒ったり。冗談を言ってみたり。ケンカして、喧嘩して、大ゲンカをして、そして、きちんと仲直りをして…。

 そんなふたりの人生を、ごく普通に送りたかった ―。 

 有季というのは、僕の同性のパートナーのことだ。フリーランスのライターを生業としている。
 以前は、新聞、商業誌、ウェブ・ライティングなど、誰彼構わず寄稿して食いつないでいたようだが、僕と知り合う数年前、日本を代表する劇団「劇団鐘楼(げきだんしょうろう)」の会報誌『エスメラルダ』のコラムを担当するようになってからは、自らの肩書きを「コラムニスト」とすることに、ようやく落ち着いたようだ。

 彼の年齢は42歳。僕は再来月、28歳になる。そう、彼とは ” 年の差カップル ” なのだ。

 有季とはオンラインで知り合った。平凡だけど、マッチングサイトに頼って出会うのが関の山だ。ドラマティックな展開なんてどこにもない。ゲイの世界なんてそんなものだ。
 でも、” ストレート ” の世界だって、もしかしたら僕らとそんなに変わらないはず…、なんじゃないかな。

 マッチングサイトに登録した翌日には、いくつかのメッセージが僕のメールボックスに届いた。カッチカチに凍った氷山のような文章もあれば、焼きたてのパンみたいなふんわり柔らかなものもあった。尖がったもの。こんがらがったもの。空っぽのものもあった。
 文章には個性がある。その人の人生がそこにある。いくらでも加工し放題のプロフィール写真なんかよりも、丁寧に綴った文字の方が、余程、真実だ。
 そして、長い歳月をかけて形成された地層の中から、ひょっこりと顔を出した石炭紀の琥珀のように、ひと際、輝いて見えたのが、有季から届いたメッセージだったのだ。

 僕と有季は文字の塊の往来を、毎日せっせと行った。

 そんな作業が数ヶ月ほど続いた後、ふたりが丁寧に撒いたその小さな種は、ついに「一度、会ってみようか?」という芽が生える段階にまで成長していた。

*****

 初めて有季と出会った日のことは、今でも忘れない。

 あれは晩秋の土曜日の昼下がり。JR恵比寿駅の東口でふたりは待ち合わせることになった。
 こういったカタチで人と会うのは、一体、いつぶりのことだろう。約束の時間より、だいぶ早めに待ち合わせ場所へと着いてしまった。僕の心臓は、トクトクトク…と、小刻みにビートを打っている。
 目の前をたくさんの人が通り過ぎていく。それにもかかわらず、僕の存在に気付く人間なんて、誰一人としていない。
 都会は、荒野なのだ。乾いた風に吹かれて転がるタンブルウィードのような喧騒をBGMに、彼の到着を待った。

「あっ、もしかしてシュンくん?」

 ダークブラウンのジャケットにコットンのスラックスを着こなした、黒縁の眼鏡をかけた男性に声を掛けられた。
 それが「有季」であることは、揺るぎない確信で以って、判断することができた。

「そうです。有季さんですよね。こんにちは」
「こんにちは。今日はよろしくね」

 彼は僕より10センチほど背が高く、30代後半の割には、均整の取れた体型の持ち主だった。そして、熟成された果実酒のような、穏やかで品のある話し方。ひとめで僕のタイプの男性であることが分かった。
 とりあえず「どこかでお茶でもする?」ということになり、待ち合わせ場所からほんのちょっと歩いたところにある、古めかしい喫茶店へと連れて行ってくれた。

 閑静な住宅街でひっそりと営業している、このすこし不思議な喫茶店の扉を開けると、ドアベルが「カランコロン」と鳴った。グラスの氷が崩れた瞬間に奏でる音色みたいに、切なく、悲しげに。

 店の中へ入ると、柔和な表情を浮かべて「いらっしゃい」と迎えてくれたちょびヒゲのマスターが、カウンター内で見目好いサイフォンをセットしていた。
 挽きたてコーヒーの艶やかな香りが、ふわっと鼻をかすめる。有季が「あ、どうも」と言うと、「あの席、空いてるよ」と、マスターは言った。二人の会話のやり取りから、ここは彼の行きつけのお店なのだということを、即座に理解した。
 僕は軽く会釈をしながら有季の背中についていった。彼が猫背であることを、この日、初めて知った。そして、その背中を眺めながら「きっとこの喫茶店には、これから何度も訪れることになるのだろう」ということを、なんとなく思った。

 有季に案内されたテーブルは、このお店の最も奥に存在していた。窓辺には小さなサボテンがひとつ、透きとおった秋の空を見つめていた。

 彼は「こちらへどうぞ」と紳士的に着席を促した。軽く毛羽立ったワインレッドのクラシカルな椅子へ、僕は優雅に腰を掛けた。
 雨音のようなオールディーズがしっとりと流れる店内。淡いオレンジを灯す、アール・ヌーヴォーの照明。色彩豊かなストライプの花瓶には、薔薇のプリザーブドフラワーで華やぎ、壁には『糸杉』の絵画が孤独に飾られていた。
 有季は「ここが俺のお気に入りの場所なんだ」と照れながら、言った。

 この喫茶店の名前は「クロノス(Chronos)」という。なんでも ” 時間 ” の概念を擬人化したものが、その由来になっているのだそうだ。そんな哲学めいたものを自分のお店に付けるなんて、あのマスターもなかなかやるな、と思った。
 確かにこの場所は、外の世界とまったく異なる時間が流れているような気がした。趣も昭和レトロな雰囲気、とかそんな生易しいものではなく、大正や明治時代をゆうに越え、18世紀のヴェネツィアに誕生したイタリア最古のカフェ「フローリアン」を彷彿させた。

「ところで、飲み物は何にする?俺はラプサン・スーチョンにするけど…」

 初めて耳にする単語に、軽く、パニックに陥った。ラプさん?スーちゃん?なんだよ、それ?
 彼が説明するところによると、それは中国原産の「紅茶」の一種らしく、ロンドンの老舗百貨店「フォートナム&メイソン」で、その味と出会って以来、お気に入りの一杯となっているのだそうだ。

 有季に小豆色の表紙のメニューを手渡された。ゆっくり開いてみると、そこにはとんでもない数のコーヒー、そして、紅茶の銘柄がところ狭しと英語で書かれていた。小学校の夏休みに渡された、問題集のページをめくった時と同じ衝撃を受けた。
 散々唸りながら、何にするか迷った挙句、「じゃあ、有季さんと同じもので…」と伝えた。すると、有季は何かを企んでいるかのように「ふふふ」と不敵な笑みを浮かべ、胸のポケットから取り出したチェック柄のクロスで眼鏡のレンズを拭き始めた。

 紅茶が届くまでの間、まるで「言葉遊び」を嗜む平安貴族の如く、互いに素性のすべてを明かすことのない、暗号めいた会話のやりとりを楽しんでいた。
 長らく ” 文通 ” していたこともあり、彼には昔からの知り合いのような親しさを感じてはいたが、実際に会うのはこの日が初めてということもあって、慎重になるのはきわめて当然のことだった。
 相手の出方や思惑を注意深く確かめ合うプロセス。それは実にまどろっこしく、はがゆさの感じられる作業だったけれども、数年ぶりに訪れた本気の「恋」の予感に、ふたりともそういった面倒臭さですら、純粋に楽しんでいたのだと思う。

「お待たせしました。ラプサン・スーチョン、ふたつね」

 少ししゃがれたマスターの声と共に、華奢な取っ手のティーカップと桔梗の模様が描かれた可愛らしいポットがテーブルに運ばれた。

 紅茶を注ぐと、それはもう見事なマルーン。その美しい紅色に見惚れていると、次第に奇妙な香りがふたりのテーブルを包み込んだ。強いて形容するならば、お腹が痛くなったときにお世話になる ” あの漢方薬 ” のような苦々しいフレーバー。
「茶葉を松の葉の煙で燻すと、こんな濃厚で深い香りが生まれるんだよ。癒されるし、なんだか頭も冴えてくる。そんな不思議で神秘的な魔法の飲み物」
 と、彼は言っていたけれども、僕はとっさに自分の身を案じた。このお茶は本当に、本当に飲んでも大丈夫なやつなのだろうか、と。

 恐る恐る、このラプサン・スーチョンとやらを味わってみることにした。
 口にした瞬間、つい「あちっ」という声が漏れてしまった。その姿を見た有季は、フフッと笑いながら、
「シュンくんは猫舌なの?」
 と、たずねた。
「はい。ちょっと猫舌気味です…」
 と、ぎこちなく答えた。すると「さては、シュン、君はまだ猫を被っているな」とからかうように聞いてくるので「はい、被っています」と言った。

 そんな僕を見て、有季はクロノスじゅうに響き渡るような豪快な声でアハハと笑った。周囲の目が僕らのテーブルに集まった。
 最初はとてつもなく恥ずかしく、今すぐここから逃げ出したくなってしまったけれども、こらえきれずに、とうとう僕も彼と一緒に笑ってしまった。

 このミステリアスなフレーバーティーのテイストは、彼と付き合ってからもずっと好きにはなれなかったけれども、その強烈な燻製の苦い香りと、あの日、あの時のふたりの笑顔は一生忘れられない思い出の味となった。

*****

 その日は、早朝から雨が降っていた。有季と喧嘩をした数時間後のことだ。

 異常なレベルで感情の立ち直りが遅い僕は、不機嫌な顔を浮かべながら、顔を洗い、歯を磨いて、髪を整えていた。

「シュン、おはよう…」

 背中に有季の声が届いた。多少、笑顔を装っている気配はしたけれども、声には力がない。今にもふっと消えそうな、儚げな彼の尊厳が、亡霊のように立ち尽くしていた。

 僕は、そんな有季との最後の言葉も、まともに交わすことができなかった。
 玄関まで見送ってくれたようだったが、僕は後ろを振り向くこともなく、彼と同棲中の品川のマンションの部屋を出て、勤務先へと急いだ。

 彼と付き合ってもう4年の歳月が流れていた。とても仲良くやってきたが、もちろん、そのすべてが「いいこと」ばかりだったわけじゃない。今回のように大地を揺るがすようなケンカだっていっぱいしたし、心無いひと言の応酬で、別れの足音が聞こえたこともあった。世代間のギャップを感じることもあったし、育った環境の違いで、双方の解釈の違いに悩まされたこともあった。

 けれども、僕たちはどんなことがあっても、別れなかった。

 彼との生活は純粋に楽しかったし、居心地も良かった。幾多のトラブルは織り込み済みの覚悟で、この平凡でとてつもなくかけがえのない毎日が「永遠に続けばいい」、なんて馬鹿なことを、本気で考えたりもしていた。

 けれども、あっけなく僕の人生は終わりを迎えた。

 すれ違いとは、どうしてこうも不意に訪れるのだろう。誰よりも大切にしたい相手を、世界で一番愛しいものを、氷柱のように尖った凶器で一撃する術を一体、いつ、どこで身につけてしまったのだというのだろう。
 どうしてあんなことで喧嘩をしてしまったのだろうか。今なら、素直に、正しく後悔することができる。

 メールを受信したスマートフォンが左の胸ポケットで騒いでいる。画面を覗くと送信相手は「皆藤有季」と表示されていた。
 僕は中身も確かめずに、そのままポケットへと戻した。


 すると突然、僕の行く手を、一匹の「猫」が横切った ―。

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