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#18 愛とは永遠なるものだ


あぁ久しぶりに。
すごく久しぶりに。
それはもうとてつもないほど久しぶりに。


慌ただしい人生の中で、自分の頭の中は混沌としている。
日々のタスクと将来の設計図。
クシャクシャに丸められた人生の足跡がよりその区別を難しくする。

ふと一息つく時間もたまには必要だろう。

それは物理的にも心理的にも。

今日は最近出逢ったアートについて書きたい。
いや、殴り書きたい。




私は広島生まれ、広島育ち。
生粋の地方民だ。

いや、類稀なる地方民だ。


「他」とは異なりたい。
「他」数派に影響されたくない。

それが私の「アート」だ。


そんな私は数年前に東京タワーの淡い暖色に心を奪われ上京した。

私は移民になった。


東京では、皆肩で息をしている。

溢れかえる朝の満員電車や、ゴミように蠢く街の人々に、そしてそんな東京に少しだけ失望してしまうのに時間はそうかからなかった。

ただ、そんな失望感の中で出逢う一瞬の煌めきが堪らなく好きなので東京を離れたいと思った事はない。


私にとって、その一つの煌めきはアートだ。


どう?
イキってるやろ?


私は東京に来てから、絵具を購入した。

それはずっと上がる事がなかった美術の成績に納得がいかなかったからではなく、勝手に美術とは無縁と思い込まされていた自分が居た堪れなくなったからだ。

その絵具がしばらくは取り出されない物置に置かれると同時に美術館や個展にも沢山訪れた。


ここ数年でアートに持った感想は、

「いい」か「まぉまぁ」かだ。



未だに芸術も美術もよく分からない。
主観すぎるやろあれ。



最近

ゴッホ・アライブ

に行った。


フィンセント・ファン・ゴッホ

確かフルネームはそんなような名前だったと思う。

「ひまわり」や「夜のカフェテラス」「自画像」などが代表作である画家だ。


入り口からそんな彼の描いた絵と彼の生涯が展示されており、進んだ先にはLEDモニターで囲まれたイマーシブ型の上映スペースがある。


私は、兼ねてから家に絵を飾りたいと思っている。

飾るなら自分の描いた絵か、ゴッホの絵だと思っているくらいに彼の絵は分からないながらに私との親和性を勝手に感じていた。

この展示に足を向けたのもそれが理由かもしれない。


上映は40分ほどあった。
そこそこ長いと思う。

彼の描いた絵と彼の生んだ言葉がモニターに上映される。

彼の生んだ一つの言葉に目が留まった。


愛とは永遠なるものだ
見かけは変わるかもしれないが、
本質が変わることはない


私の感じていた親和性は虚像だったようだ。


そもそも愛は永遠なるものではない。

一貫してきた愛に対する私の所見だ。


愛が永遠とするならば、なぜ人は出逢い別れを繰り返すのか。

今ゴッホが生きているのなら、問いたい。
いや、問いただしたい。
いや、詰めたい。

この頑固な私を納得させる事ができる答えなど持っている訳などない。


そもそも永遠なんて必要ない。

全ての物事には終わりがあるから美しいのだ。

最終回の無いワンピースに

終わりのないコース料理に

誰が心踊らされるのだろうか。


終わってしまう…



まさにその瞬間に初めて感じるものがある。


永遠などやはり必要ない。


永遠がないから、人は美しい。

いつか尽きてしまう儚い命の中で、

いつ終わってもおかしくない愛の中で、

いつ終わってもいいように、

それはもう一生懸命に、

美しく生きれるのではないだろうか。

美しく愛する事ができるのではないだろうか。


美しさとは強さだ。

私は「他」数派には左右されない。


もし君が本当に自然を愛するのなら、
いたるところに美を見出すだろう。

フィンセント・ファン・ゴッホ


やっぱり、気が合いそうだ。




p.s.初めてこんなに文脈考えずに殴っちゃいました。でもなんかスッキリ整った気がします。無心のサウナほどキマリますもんね。

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