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どこまでアーティストとして生きていけるか

生まれながらにして、人間もアーティストとして生きていくはずだった。

まっさらな状態で感じるままに。

その感覚を表現するためのものや環境は、この世の中に溢れている。

言語、リズム、色、自然など。

やがてそれは、文章、音楽、絵画へと創造性が高くなる。

でもそれは、知らず知らずのうちに外部からの影響を受け、幸か不幸か、成長とともに複雑になっていくのだ。

現時点で、本来の感覚はどれだけ残っているのだろうと思う時がある。

本末転倒とはこの事で、世間の常識や教育の影響が大きいほど、表現するためのツールは、表現の制約や強制をともなう代物になり変わる。

自覚はなかったにせよ・・・

思い返せば何を観ても、また何をするにも違和感を感じる。湧き上がる感動や心の底から楽しいと思えない自分に、薄々気付いていた人も多かったのではないか。

その歪みによって表現することを恐れたり、臆病な自分に悩んだり。

でもこれからの時代は違う。

すでに時代は変わり、周りを見渡せば、自分を表現することに目覚めている人たちで溢れている。

他人軸から自分軸へ移行して
自分と共感する人たちと
時代を創る側へと

情報は自分で選び取り、自分が利用して始めて価値を生む。

忘れてならないのは、情報化社会で生きている限り、世間に流されている自分を常に見張って、取り除く作業だ。

人は、意識しないと忘れて気づけなくなる生き物。

そして自分はどう感じて、どうして行きたいのかを自分に問い続ける。行動あるのみだ。問いのバリエーションは増え、視野も広がり、自分で自分の可能性を見いだす作業はとても楽しい。

自分に焦点を合わせていれば、不安も悩みも薄れていく。自分を感じられてくると、エネルギーがみなぎってくる。進みたい方向性も見えてくる。

欲しい情報はいくらでも散らばっている情報化社会を味方にして活用するのは自分なのだ。

あくまでも情報は情報として扱い、自分の感性で生きる覚悟。

他人が楽しいと思う事を、本当に自分は楽しいと思うのか。
他人が美味しいと思う物が、自分も同じく美味しいと思うのか。

一人一人の存在は尊く、個性に満ちたもの。

そして、その人の生き方が反映して表現されたものが芸術であり、偉大な人物が創り出した作品のみの言葉ではない。

ただ、自分を表現することに徹した作品やその生き方は、今なお人々を感動させてくれる。

多くの人が、その何に惹かれるかは、もう明らかだ。

自分を表現することは「自然なこと」で、「本来の自分」に近ければ近いほど、人に感銘を与えられるのではないか。

いや、感銘を与えられるかどうかなんて考えなくていい。一人一人がアーティストである事を思い出し、大いに人生を楽しみたいと思う。ただそれだけのことだ。

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