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経験は誤りやすく、批評は難しい

  (ヒポクラテスは表題のようにかく語り)

*言葉の不思議

 ある文字をまじまじと見たとき、どうしてこの漢字なんだろうと思うことがときどきあります。子供のときどうしてスーツのことを背広というかわからなったのです。お父さんの背中が広いというのが、字面から一般的に理解されるでしょう。しかし、その解釈は間違っているらしい。この語の語源は何通りかあって、いまだこれという有力な説がないらしいです。

 一説には欧米で着用されていたシビル・スーツcivil suitがだんだん訛り、変化して、「シビル」が「背広」になったという解釈があります。シビルは「市民の」とか、「民間人の」とか訳されるが、一般的には宗教服や軍服と区別するために使われた言葉でした。

*都市を意味する言葉からシビルcivilは生まれた

 シビルはもともとラテン語から派生した言葉です。ラテン語キウィタスcivitasは「都市」を意味していたから、形容詞のキウィリスcivilisは「都市・町に住む人の=市民の」意味になり、シビル・スーツは農作業に着る服ではなく、町に住む人々が着るを服をさすことになります。ドイツ語Burg(ブルク)やフランス語bourg(ブール)も町を意味しますし、町に住む人はBurger(ビュルガー)やbourgeois(ブルジョワ)ともとはいいました。ただ町に住む人々は金持ちや特権階級になっていったので、今では町や都市とは切り離された意味でも使われています。

*都市化と文明化は同じ用語

 ヨーロッパ社会において「都市」は、それまでに人間たちの間に蓄積された知識や科学技術、文化や伝統によって姿を現した現象としてとらえようとしたのです。欧米ではこの現象をシビリゼーションcivilizationと呼んでいます。モダニゼーションmodernizationはどんな辞書も「近代化」と訳しているのに、シビリゼーションは町や都市ができることなのに、「都市化」とは訳されません。日本ではこの語を、新しい解釈で「文明」と翻訳し、当時の欧米の先端知識や科学技術により世の中が大きく変化していくことを「文明化」とか「文明開化」としたのです。

*人類が都市を建設した最初

 わたしたちが世界史を学ぶとき、最初に学習するのは四大文明と呼ばれるエジプト、メソポタミア、インダス、黄河などですが、各地域に共通な点は大河のほとりにできた「巨大な都市群の存在」です。最もわかりやすい例はインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡で、都市計画に基づいた碁盤の目のような区分の中に水道、下水道、公衆浴場など都市に不可欠な施設を備えていたのです。したがって、いまだ都市になっていない段階の状態では文化と位置付けられます。そのような状態の文化は石器文化とか縄文文化とかと呼ばれる。文化を育み、蓄積した英知や技術を使い巨大な構造物=都市を次々と建設していった社会・国家を文明と呼んだのです。

*文明開化以前の日本にも「文明」は存在した

 では、明治時代の日本には文明が存在しなかったのでしょうか。明治維新以前の江戸は江戸城をはじめとして多くの建築物を持つ、人口100万人の巨大都市であり、人口ではロンドンやパリを越えて世界一であったのです。今までの考え方からすれば、江戸は立派な大都市であり、日本的文明を築き上げていたのです。ただ当時の観点からすれば、日本は欧米の優れた科学技術や学問・思想に太刀打ちできないほど劣勢の点があったということです。

*文明という言葉の曖昧さ

 日本に不足している西洋文明を取り入れる運動を「文明開化」とするのはとても狭い考え方で、シビリゼーションを訳したことにならないのではないでしょうか。現代では「文明」の意味も拡大して、より広い内容を持つようになっていることは誰でも知っています。しかし、わたしたちが核になる意味を知らず、日本でだけ通用する曖昧な意味での文明をシビリゼーションと訳したとき、他国の人に理解されない危険性があることを忘れてはならないのです。

*西洋文明の取り入れの薄っぺらさ

 シビリゼーションを文明と訳すことにより、本来の三次元的に重なり合った意味合いから一次的な人知の学問になりさがり、撮影用のセットのように見た目は立派だが、後にまわったら実体がないようなものになりがちだったのです。もちろん、性急な勢いで先進国に追いつき追い越せと、日本にとっての文明(=西洋の知識・技術の取り入れ)を発展させる必要がありムリは承知であったはずです。そんな状況の中でムリをした結果がどうなるかを予想できた人々の苦悩はいかばかりであったでしょうか。このような苦悩の表出が明治以後の歴史を良くも悪くもつくってきたのです。

*日本の文明化の証は鹿鳴館

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 誰もが容易に連想できるのは鹿鳴館であろう。日本がトータルに欧米化した証を内外に知らしめるべく、外国高官・外交官を招くためにヨーロッパ並みの社交場鹿鳴館をつくったのです。その背景には開国時の不平等条約を改正するもくろみが見え隠れしています。条約改正を申し入れても相手にしてもらえない状況を改善するべく、まがりなりにも欧風な宮殿を模した建物をたて毎夜のように舞踏会をひらき、内外の政治家・外交官を招き、接待したのです。日本ももはや欧米列強並に文明化したことをアピールするためです。

*文明開化の帰結と展望

 だがその実態はアピールどころか馬脚を露したにすぎなかったのです。外国に言った経験もなく、正式な舞踏会に参加したこともない人々が大半を占めている中で、舞踏会を催すことは無謀だったのです。夫婦同伴の経験もなく、ダンスも踊ったことのない参列者は目に見えないマナー違反をくりかえし、外国の賓客たちの失笑や嘲笑をかっただけだったのです。

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 シビリゼーションには風俗習慣や文化を含めたトータルものも含んでること理解していなかったのです。それでも客あしらいが上手い芸者や芸妓、元女子留学生を政府高官が妻にむかえたのは苦肉の策だったのです。急ごしらえで洋装を取り入れ、マナーやエチケットを学び、ダンスを練習して臨んだわけですが、文化や伝統がないわけですから完璧をきすのは無理だったのでしょう。シビリゼーションを一面的にしか理解していない日本人にとって、シビリゼーションがトータルものであることが十分に理解できなかった結果なのです。

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                                        鹿鳴館外交は内外からの批評や嘲笑を受けて、欧米並みの文明アイテムをそろえれば平和的に対等に処遇してもらえるという外交路線は顧みられなくなり、こののち日本は軍事力によってしか欧米と対等になれないという信念に基づいて、強兵こそ国威発揚の手段として軍事力を増強し、戦争によって国際問題を解決しようとする道を歩むのです。

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