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花を観る

 わたしは学生時代、東京は駒込に住んでいた。同級生のN君も近くに住んでいて、よくあたりを散歩というか、徘徊というか歩き回っていました。駒込にはいにしえを彷彿させる六義園や古川庭園があったし、現在のように拝観するには何がしかの入場料を払うことなく入れたからである。当時、金がない学生でアパートにも気を紛らわすことのできるテレビさえなかったわれわれにとって、唯一の慰めは街を彷徨することだった。

 駒込から電車賃を使わずに、花見に行こうとしたとき、一番近いところは飛鳥山公園だった。この公園は北区の王子駅の目の前にあるが、駒込でわれわれが住んだ一角の道路を渡ると北区だったし、公園までは直線距離で1キロくらいで行けたから、手軽な公園というわけだった。公園では飲み食いできるほどの金もなかったので、子供用の安いバドミントンを持って行って遊んだ記憶がある。

 われわれの学生時代は、携帯電話なんかはもってのほかで、ポケットベルさえ普及しておらず、飛鳥山公園がどんな公園であるか、現在のように簡単に調べることができなかったが、江戸時代から花見の名所として知られていたことは知っていた。それ以上のことはなにも知らなかったから、広い公園でバドミントンで遊んでいたような気がする。ちょっとでも風があると、ラリーなんかはできるわけもなく、プレイにならなかった。

 当時、飛鳥山公園のシンボルは展望台が回転するタワーだった。われわれは金がなく、タワーを横目で見て登った記憶がないが、われわれが行ったころにできた新しい施設だったらしい。なんか小綺麗な感じでタワーの周りが整備されていた記憶がある。ところがこのたび、何十年かぶりに飛鳥山公園に行ったところ、目印の飛鳥山タワーはどこにもなく、撤去されてしまっていた。サクラは昔のように咲いていたが、わたしが昔見た光景とはいちじるしく違っているように感じた。

 桜の名所であった江戸時代の錦絵をみても、現代の飛鳥山を彷彿させるものは見当たらないが、わたしも70年代の飛鳥山を感じることができず、唯一確かめることができたのが小山になっていて、公園から王子の市街を見渡せる位置にあったという事実だけである。もちろん、高低差があるものの高いビルが建っており、高みにいるとは感じられなかったが、足をつけている土の感触から山の上にいるのがわかったていどだったが。

 なんか迷路にはまってしまい、いっても、いっても知っている道にたどり着けない感覚だった。やはり老年になり、記憶装置もうまく再現されないほど機能が衰えたのだろうかと心配になったほどである。しかも公園には、その当時なかった施設がいくつもあって、ますます自分の記憶力があやふやになる感覚を助長していった。

 さらに当時の飛鳥山公園にあって、わたしが知らなかったことが、今回の訪問で気づくことができた。この公園の南東部に、近々新紙幣になる渋沢栄一の旧邸があったのにそれを知らなかったことだ。N君が知っていたかどうか当時は聞きもしなかったが、わたしには情報が入っていなかった。母屋は戦災で焼けて残っていなかったが、現在でも残っている旧渋沢庭園内の晩香廬と青淵文庫があったはずなのに、まったく記憶に残っていないのである。青淵文庫は西洋風の建物だから、駒込のほうから公園に向かえば目立つはずだが、まったく覚えてない。今は庭園として解放されているが、当時は建物の周りが樹木で遮蔽され、しかも、庭園が塀で囲まれて、入れなかったのかもしれない。そう考えると、記憶に残らなくとも、しかたないかなとおもったりした。

 これほどさように、人の記憶というものはあいまいなものであり、しかもその土地や地域について知識のかけらもない状態では、せっかく現場に行っても何の関心も持ちえないのは当然といえる。単に花見をするところとか、遊ぶところというならば、した行為だけが残り、デティールが時間とともに薄れていくのは仕方がないかもしれない。今回、この公園を訪れた日も、新紙幣の一万円札肖像になるというニュースが出る2~3日前のことであったから、花見客はたくさんいたが、渋沢栄一関係の旧渋沢庭園や渋沢史料館に人が集まっている様子はなかった。新紙幣の発表がなければ、わたしも一通り見て回ったが、そのことを回顧することはなかったかもしれない。

 福沢諭吉が一万円札の肖像になったときより、今回の一万円札にはお金関連の銀行や印刷局との因縁があるような気がする。紙幣が印刷されている国立印刷局は飛鳥山公園から200メートルくらい離れた同じ本郷通り沿いにあり、しかもこの印刷局の前身である大蔵省紙幣司の初代紙幣頭は渋沢栄一であるから、印刷局とは関係が深いのである。また、渋沢は第一国立銀行の初代頭取であったこともいわく因縁がありそうだ。これまでも何回かは候補にのぼったことはあっただろうが、経済界の人物でも承認される環境がなかったかもしれない。いつか必ず紙幣を飾る人物としてリストアップされていたから、発表時に見本も出されたにちがいない。見本とて、原画は一朝一夕でできるものではないことは一目瞭然だからだ。

 今日の飛鳥山公園には、D51機関車や都電6080、それに子供に遊びの場を提供する城をかたどった滑り台があるが、主な施設は4か所ある博物館だろう。うち2か所は渋沢栄一関連の博物館である。旧渋沢庭園内には戦災で焼け残った晩香廬と青淵文庫が点在しており、その近くに渋沢史料館という立派な博物館が建てられている。もう一つの博物館は北区の今日までの歴史的歩みを、資料や展示物で理解を深めようという目的でつくられた施設で、どの行政区域にあるようなものである。王子はまた旧王子製紙創業の地であり、渋沢栄一も製紙業に当初からかかわりを持っていたし、第一国立銀行の頭取として旧王子製紙へ出資していた関係からなのか、公園内には「紙の博物館」もある。

 こうしてみてくると、北区王子の飛鳥山公園には渋沢栄一にまつわる世界が現前と立ち現れてくる。もともとこの桜の名所は八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として、江戸庶民に行楽の地を提供する目的でつくらせたものらしいが、当時の桜はソメイヨシノではなく、大島桜か山桜だったのだろうか。いまはどこの桜名所にもあるソメイヨシノは江戸末期に、公園から目と鼻の先の駒込染井の植木職人が、品種改良したといわれているので、享保の時代にはなかった品種だ。ソメイヨシノは大島桜とエドヒガン桜を接ぎ木して、一斉に咲く花を観賞するために工夫された一本の原木からのクローンだ。すべてのソメイヨシノはDNA的にはまったく同じ組成を持っていることになる。いま飛鳥山公園にはソメイヨシノが400本植えられているそうだが、享保期の桜がどのように代替わりしてきたか興味あるし、染井の植木植人と飛鳥山の桜とのかかわりについても機会あれば調べてみたい。

 今は桜の時期だから、飛鳥山公園は花見客が大勢を占めるであろうが、この季節が過ぎれば、今以上に渋沢栄一にまつわる公園の立ち位置が注目されていくことは間違いない。われわれが何も知らず、花見を楽しみ、バトミントンをした70年代の公園では、渋沢栄一を顕彰するような兆候は感じられなかった。飛鳥山と渋沢栄一のかかわりをまったく知らなかったのだから、なにも思わなかったのは若気の至りなのか、公園内にその雰囲気が感じられなかったことが影響しているのか判然としない。70年代から現在に至る長い歴史の中で、日本社会が彼の日本経済に対する貢献や社会活動における支援を評価する風潮がどうして生まれていったかわからないが、少なくとも日本を襲った70年代の経済危機が背景にあるかもしれない。彼の経済哲学は利潤追求一辺倒の経営ではなく、公益性を重視した立場で経営をしていたことが、70年代の公害問題や石油危機の中で顧みられて、業績が高く評価されたために渋沢史料館(1982)が計画されたのではないか。そう考えなければ、没後50年もたってから博物館がつくられた理由がわからない。

 1931年11月11日に亡くなった渋沢は近くの染井墓地に埋葬されずに、谷中霊園に埋葬された。彼が埋葬されているところから見えるか見えないところに15代将軍徳川慶喜の御霊屋がある。慶喜は1913年に亡くなっているから、渋沢家が墓をつくるとき、本人の意向か、遺族の意向かわからないが谷中霊園の徳川慶喜の御霊屋付近に墓を求めたのは儒教思想の五倫五常を実践したかったからだろうか。

 渋沢は農民の出にもかかわらず、数字や計算の才能があったので、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に召し抱えられたことが彼の運命を変えたといっても過言ではない。このことに生涯恩義を感じていたので、永久に君臣の序を守り、お仕えする心持があったのかもしれない。ただわれわれ現代人からみると、そのようなメンタリティを育んだ儒教思想と私生活における女性関係のだらしなさは矛盾しないのか不思議に思うのは私だけでしょうか。新千円札になる北里柴三郎もまたしかりです。


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