見出し画像

短歌を作っているけど「上手くなりたい」とは思っていない人もいる、という話

 短歌に関する、短歌そのものではない、当たり前で、面白くもないかもしれない、この記事はそんな話です。

 短歌へ真面目に取り組んでいた頃の私は、こんなふうにに考えていた。「短歌を作っている人はみんな『短歌作りが上手くなりたい』と思っているに違いない」と。だから、短歌を相互批評する歌会は、短歌作りの技術を磨くための場だと思っていた。
 しかし、実際に歌会へ何年も出続けていると、「この人、上手くなろうとしていないのでは?」と思う人もいることがわかった。短歌にかこつけて、最近自分が体験した話をしたいだけのような人が。
 また、単発の歌会に出た時に「ちょっと性的な短歌を提出して、それを女性参加者に読んでもらってニヤニヤしたい」という男性もいた。私にはそうみえた、というだけで実際に本人がそう考えていたかどうかはわからないが。

 長い年月をかけ私は気がついた。短歌を作っているけど「上手くなりたい」とは思っていない人もいる。タイトルに書いた通りだ。そりゃそう、当たり前だろう、と今の私は思う。世の中にはいろんな人がいる。「コンテストで入賞したい、他者から『いい短歌だな』と思われたい」と思う人はいて、上手くなろうと考えているだろう。しかし、そういう目標がない人も短歌をやっている、上手くなりたい理由がないから上手くなろうとしない、それは当然のことだ。

 当たり前のことを今更わざわざ言わなくても、と思う読者もいるかもしれない。ただ、意識しておいたほうがいいことがある。すなわち、短歌へ真面目に取り組んでいる人は、「短歌をやっている人は全員、短歌を上手くなりたいと思っている」と思い込みがち、ということだ。さらに思い込みが強くなると、「短歌を上手くなるために行動することが正しい、しない奴は間違っている」と考えるだろう。
 その思い込みによって、悲しいすれ違いが起こるかもしれない。例えば歌会だ。歌会は自分の短歌・他者の短歌の批評を通してお互いに技術を磨く場、ということになっている。そんな歌会に、技術の研鑽を目的とする人がいて、上手くなろうとしない人もいた際に、衝突が起こるおそれがある。前者は、「上手くなるようにもっと努力しろよ」と苛立つかもしれないし、後者は「うるさいな」とうざったく感じるかもしれない。結果、歌会の空気が悪くなってしまう。
 
 私が主張したいことは「短歌を上手くなろうとしている人も、上手くなろうとしない人もいるから、お互いの存在を認めて平和にやっていこう」である。もう一つ、「短歌を上手くなろうとしなくても短歌をやってもいいんだよ」だ。
 何も短歌に限った話ではなく、あらゆる創作物、ゲームやスポーツにも同じことが言える。人それぞれ、自分の目的に応じて楽しめればいい、私はそう思っている。
 

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?