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母の日に贈る花

私の母は去年5月に大腸ガンでこの世を去った。

2019年の年末、コロナがニュースで騒がれ始めたくらいの時だった。毎年年末には箱根に行き、新年は家族みんなで集まって食事会をする。ウチの家族の恒例行事だった。

みんなで箱根に行って、大浴場で背中を母と交代交代で背中を洗って、夜はステーキとお寿司の食べ放題で。
ウチの家族は食いしん坊なので、ステーキをこんもりおかわりして次の日はもう家族全員お腹がいっぱい過ぎて何も食べれなくなったくらい食べた。

年が明けていつもの中華料理店で予約をしていたのだが、父から母がお正月元旦から検査入院をした、と連絡があった。

仕事中だったので無事かどうかLINEで母に連絡をした。
「今日はせっかくなのに行けなくてごめんなさい。また元気になったら一緒に行ってね」という返事だった。

ごめんだなんて。そんな気にしなくていいのに。「そうだよ、それよりも元気になってね!」と返信した。

中華料理店で家族で集まった後、その足で母の入院している病院に行った。

母はいつも通りで元気そうだった。
「そんな、みんな大袈裟なんよ。大丈夫だから」そう笑っていた。
個室でソファがあったが、大勢で行ったので私は立って話をしていた。ここに座んなさい、と母のベッドのスペースを空けてくれて、母の隣に座った。
しきりに、「心配せんでいい、大丈夫、大丈夫」と言った。

そんなに大したことないと思ってた。きっと無理が祟ったんだろうと。少しでも病院で、家でご飯作ったり掃除したり家事をしないで、お休みだと思えばいい、ゆっくり休めれば良いよね、と話した。病人の部屋とは思えないくらい、みんなでたくさん話してたくさん笑った。

検査入院が終わり、退院後は週に1回、様子を見に行った。その度に母がおもしろい映画やドキュメンタリーを録画してくれていて、一緒に観て笑ったり、こういうおもしろい映画があるよ、と2人で情報交換した。

そのうち父がもっと様子を見に来て欲しいということで、週に2泊するようになった。
母は、「介護とかそんな風に思わないで、遊びに来ると思って来て」と言った。
私の生活もあるから、と気遣って言ってくれた言葉だ。

会う度にどんどん母は痩せていった。あんなに2人でダイエット頑張ってたのに。
痩せて良かったと笑った。

ある日、実家に行ったその日はいつもよりもかなり痛そうにしていた。
母は薬剤師だった。病院では薬はほとんど抗生物質しか出さないからと言って逆に病院に行くのが嫌いだった母。その彼女が病院に行きたいと言った。痛いのをずっと我慢していたんだろう。

病院では入院をしてしばらくすると少し落ち着いたようだった。毎日通ったが、コロナ禍のため面会ができず、体面上、先生と看護士さんと話をするしかできないと言われた。 
気を利かせた看護師さんが部屋のドアをわざと開けて、その隙間から母と話した。
洗濯物の取り替えや、差し入れも持っていったけれど、面会者は部屋には入れず、手渡しできないので、洗濯物をキャッチボールのように2人で笑いながら投げ合って渡し合った。
そんな事をしていると看護師さんにもうそろそろ、と言われたので、小声でごめんね、じゃあね、と別れた。

そのうち、面会がコロナ禍でどんどん規制が厳しくなるので、家で療養することを担当医師から奨められた。私も仕事があったので一瞬迷ったが決意した。平日はほぼ実家に行くことにした。

背中が痛い、と言うので夜中はずっと母が寝つくまでさすった。なぜか背中をさすられると痛みが減るらしい。それと寝ると痛みがなくなるので、少しでも辛そうになると昼間も背中をさすって、寝てもらった。私は夜はほぼ寝ないで痛みが出ればさすった。親孝行をこんなことぐらいしかできないなら、もっと一緒にいたら、出かけたら良かったのにと今さらだけど後悔した。

その日、父がちょっと買い物に行く、ということで、母と2人きりだったのだが、なんだか容態がおかしい。いつもとかなり様子が違ったので、すぐに父に連絡した。私のスマホを持つ手と声が震えていた。
そこからケアマネジャーに連絡して、救急車を呼んで、そこからはあっという間だった。
あっという間に彼女はいってしまった。

病院で手続きを待つ間、名前を呼ばれるまで待合室の椅子で1人、静かに泣いた。

母とは子供の時はよく心配をかけて喧嘩したり怒られたりもしたけれど、大人になった今でも、困った時はいつでも帰っておいでと、いつも心配してくれていた。
闘病中も自分の具合が悪いのにも関わらず、「冷蔵庫にプリンあるから食べなさい」とか、別に何気ない言葉だけれど、なにかと気に掛けてくれていた。
看護師さんにも、ケアマネジャーにも、担当のお医者さんにも、みんなに声を掛けて気に掛けていた。

そんなに他人の事を気に掛けてたら、どっちが病人か分からないよ。


なんだよ、早く元気になるって言ったのに。

そんな優しい母に悪態をついた。


人は愛する人と死に直面した時、誰でも天国を信じるようになるのではないだろうか。

安置室でキレイに白装束を着ている母。
式場の担当の方が、
「四十九日までは現世にいて、いろいろと気持ちを整理されて、それからあちらの世界に戻られるんですよ。
なので、今もお母様はそこにいらっしゃいますよ」
と言った。
みんな何も言わず、それぞれに頷いて、また泣いた。

死化粧をして、キレイな母。生きてる時よりキレイなんじゃない?ってみんなで笑った。
きっと母も今も隣で喜んで笑っているだろう。
爪は赤のマニキュアとペディキュア。具合が悪くても、おしゃれは欠かせない人だった。
死化粧師の方も、こんなに綺麗なお顔、なかなかいらっしゃらないですよ。お肌も綺麗だし、いつもキレイにされている方だったんですねと褒めてくれたのがなんだか誇らしく、嬉しかった。
母はいつでも何があるか分からないからいつも身綺麗でいなさい、と言っていた。そうだね、私も気をつけるね。


納棺の際、棺の下に畳を敷くのだが、その裏にみんなで一言ずつ寄せ書きのように書いてください、と式場の方に言われた。
そんな風習あったんだなあとか思ったけれど、いざ書こうと思うとたくさん言いたい事があってペンを持っただけで泣いてしまう。

まずは父から、と泣いちゃうから書けない、と言って半分悲しみから逃げるようにペンを渡した。
父は躊躇せず、畳一面に大きい字で「今までありがとう」と書いた。

父はとても優秀な人で、昔から仕事のためほとんど家におらず、講演会などで講師をしたりと多忙な人だったが、母からはいつも小言を言われていて、2人の掛け合いはちょっとキツめの夫婦漫才みたいだった。

父から母へ、真っ先に出た言葉がありがとうという言葉。
今までの2人を見ていると意外だったけれど、それが全てだと思った。それを見てまた泣いた。
弟達も書いた。みんなありがとう、ありがとうと次々に書いた。

母は笑うのが好きで食べるのが好きで踊るのが好きで植物が好きで。有名人でもないしバリキャリというわけでもない普通のお母さん。

でもみんなにありがとうと言われるくらい、みんなにたくさん愛を与えてきた。

最期にありがとうと言われる人生なんて、なんて素晴らしい人生なんだろう。

どんなにお金や名誉や地位があろうと、死ねば何も持っていけない。
でも彼女はありがとうの感謝の言葉をみんなに残した。何よりの財産だと思った。
身綺麗にしてなさい、というのは心の事も言っていたのかな。

母はお願いだから、延命治療はしないでね。自然に受け入れたいと言っていた。病状を知っていたのか、最後まで私は聞けなかった。でも薬剤師だったので飲んでる薬をみれば分かっていただろう。

本当に強い人だった。

私も最期はみんなにありがとうと言われる人になりたい。

そしていつも見守ってくれてありがとう。
いつかまた会える日まで。
みんなにありがとうと言われる人生になるように頑張るよ。
この思いが今日、母の日の、母へ贈る花となりますように。

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