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新百合ヶ丘は「笑い」の聖地だった バカリズム、狩野英孝、ニッチェを生んだころ




狩野英孝「路上ライブ」の伝説


私が住む「柿生」の隣の駅、小田急線「新百合ヶ丘」(川崎市麻生区)の駅前では、昔、狩野英孝がよく(音楽)ライブをやっていた。

という話は、なんとなく聞いてたんだけど、

「昔、このへんに住んでたのかな」

ぐらいにしか、最初は思っていなかった。


実は、新百合ヶ丘は、「お笑い芸人」の生産地だった。

バカリズム(升野英知)、狩野英孝、ニッチェ、アルコ&ピースの平子祐希、その他、少なくないお笑いの人たちが、新百合ヶ丘から巣立っていった。


かつて新百合ヶ丘駅前に「日本映画学校」があり、そこは、お笑い界への登竜門になっていたのだ。

狩野英孝もその学校にかよっていた。当時、音楽の道も模索していた彼は、だから新百合ヶ丘駅前でライブをやっていた。

約20年前、狩野英孝が音楽ライブをやっていた新百合ヶ丘駅前


同時期に、厚木出身の「いきものがかり」も周辺(小田急線沿線)で路上ライブをしていた。

バカリズムは、

「ぼくの(日本映画学校)在学中とかは、よくあの辺で路上ライブしている人が居たんですけど、狩野がたぶん、新百合ヶ丘の中で一番集客した」

と、「いきものがかり」のメンバーと共演したラジオ番組で話している。

(いきものがかりは)新百合ヶ丘では「惨敗」で、吉岡聖恵さんは「めちゃ難しいんですよ」と振り返る。バカリズムさんが「狩野英孝、100人単位で集めてたっていうんだよ」と話すと、メンバーは「新百合で100人はすごいですね」と舌を巻いた。
(「路上ライブで「いきものがかり」より集客!? 狩野英孝、過去の栄光は本当なのか」J-castニュース 2015年5月30日)


別のテレビ番組で、有吉弘行が狩野に、

「なんで、これだけの才能がありながら、音楽の道は断念されたんですか?」

と聞くと、狩野は、

「見えちゃったんですよ、成功が」

と答え、スタジオは「失笑」に包まれたという(前掲記事)。



「笑いの聖地」の歴史が消えかけている


日本映画学校時代の狩野の話などは、知っている人は知っているんだろうけど、私みたいな、比較的最近こっちに引っ越してきた人間には、伝わっていなかった。

狩野やバカリズムなどのお笑い芸人がここから巣立って行ったことを、長くここに住んでいる人も、そろそろ忘れ始めていると思う。

それというのも、麻生区役所のホームページで、麻生区の歴史を読んでも、そのことがどこにも刻まれていない。

日本映画学校の後身である日本映画大学のホームページで、「本校の沿革」を読んでも、そのことが書かれていない。

2013年に日本映画学校が閉校してから10年。

新百合ヶ丘が「笑いの聖地」であった事実が、歴史から消え始めている。


そう感じた私は、なんとかしなければならない、と思った。

新百合ヶ丘駅前の、わけのわからないカマキリみたいな彫刻の代わりに、狩野英孝がライブやっている姿を銅像にして立てるべきだ。

そう思って、なぜ新百合ヶ丘の「日本映画学校」から、お笑い芸人がたくさん巣立って行ったのか、改めて調べてみました。


日本映画学校とマセキ芸能社の関係


いちばん簡単に言っちゃうと、かつて新百合ヶ丘の「日本映画学校」は、若者が「マセキ芸能社」に入るルートだった。

この「日本映画学校」と「マセキ芸能社」との関係が、わかりにくく、しかも現在、その関係がまったく消えているので、麻生区の「歴史」として定着しなかったんですよね。

その複雑な関係を、うまく整理して説明してくれているのが、以下のナイツ塙さんの動画です。


「マセキ芸能社って何?」(YouTube「ナイツ塙の自由時間」)


私も、この動画を見て、初めて事情が呑み込めました。以下、その情報に沿って書いていきます。


もともと、日本映画学校は、その名のとおり、俳優や映画人を養成する専門学校で、お笑いとは関係なかった。

しかし、1981年に、マセキ芸能社の看板芸人だった内海桂子好江が、横浜放送映画専門学院(のちの日本映画学校)の俳優科で講師を始めたことから、「お笑い」と接点ができる。


なぜ、映画学校で、お笑い芸人が講師を始めることになったのか。

上の塙さんの動画では、横浜放送映画専門学院の創始者である今村昌平監督と内海桂子に親交があったから、となっている。

背景として、1980年ごろ、漫才ブームが起こったことが大きかっただろう。

別資料では、学院長だった今村監督が、俳優科の学生のアドリブやユーモアを養うため、脚本家の大西信行に相談し、大西から内海桂子好江を紹介されたという。大西信行(1929ー2016)は、演芸界とつながりの深い脚本家だった。


内海桂子好江の授業から最初に生まれたお笑い芸人は、楠美津香だ。俳優志望だったが、授業の影響でお笑いに転身、1982年に卒業して「ピックルス」を結成し、「お笑いスター誕生」で優勝する。

内海桂子と、内海好江は、別々にクラスを担当していた。

その内海桂子のクラスに出川哲朗、好江のクラスに内村光良と南原清隆という、それぞれ俳優志望の男の子たちが、1983年に入ってきた。


横浜から新百合ヶ丘へ


内海好江のクラスの学生、内村と南原の掛け合いが、あまりに面白かったので、内海好江が俳優からお笑い芸人への進路変更を勧め、好江が審査員を務めていた「お笑いスター誕生」に出場させる。

そして、彼らをマセキ芸能社に入れる。以後、内海クラス出身の芸人は、基本的にマセキに所属することになる。

「お笑いスター誕生」で優勝したウッチャンナンチャンの後を追って、いったんは映画俳優の道を進み始めていた同期の出川哲朗も、タレントへと進路変更する。

このあたりの話はすでに有名だろう。

ただし、楠、内村、南原、出川がかよったのは、まだ「横浜放送映画専門学院」の時代。2年制の各種学校で、校舎は横浜駅前にあった。

内村らが卒業した1985年に、同学院は、3年制の専門学校「日本映画学校」に改組し、翌1986年、新百合ヶ丘駅前に移転する。

日本映画学校には映像科と俳優科があり、内海がクラスを持っていたのは俳優科だった。


日本映画学校は新百合ヶ丘駅北口にあった。現在は日本映画大学新百合ヶ丘キャンパスになっている


ウッチャンナンチャンの大成功で、日本映画学校の内海クラスは有名になり、マセキ芸能社を通じてお笑い芸人になる登竜門のようになる。

ナイツ塙さんによれば、それは当時、若者がマセキ芸能社に入る「唯一」のルートだった。

それまで、芸人になるには、先輩芸人に弟子入りするしかなかった。

吉本興業の若手登竜門、NSC(吉本総合芸能学院)ができたのが1982年だ。横浜放送映画専門学院の内海クラスはそれに1年先立ち、関東では随一(唯一?)の「芸人養成機関」だったのだろう。

つまり、横浜放送映画専門学院、のちの新百合ヶ丘の日本映画学校(の内海クラス)は、マセキ芸能社にとってのNSCのごときものとなった。

そして、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンなどの活躍で、若者がお笑い芸人をカッコいいと感じ、お笑いブームが定着するのは、1980年代後半から90年代を通じてである。


私にわからないのは、横浜放送映画専門学院(日本映画学校)とマセキ芸能社との関係が、どれほど公式だったか、ということだ。

日本映画学校とマセキ芸能社に正式な契約はあったのか。日本映画学校はマセキへのルートを宣伝していたか。どれほどの若者が、芸人を目指して、日本映画学校俳優科に入ってきたのか。そのあたりは、私にはわからない。

おそらく、内海桂子好江の「コネ」による、非公式で、属人的な関係ではなかったか、と思う。


新百合ヶ丘から巣立ったお笑い芸人たち


いずれにせよ、その後、新百合ヶ丘の日本映画学校から、以下のようなお笑い芸人や芸能関係者が巣立った。


藤本昌平(ふじもと しょうへい) 1974年2月3日生まれ。放送作家。元お笑い芸人(元ファンキーモンキークリニック)。麻布大学付属淵野辺高校→日本映画学校

バカリズム 升野英知。1975年11月28日生まれ。お笑い芸人、俳優、脚本家。福岡県私立・飯塚高校→日本映画学校

与座よしあき(よざ よしあき) 1976年10月1日生まれ。お笑い芸人(元ホーム・チーム)、俳優。沖縄県立美里高校→日本映画学校

檜山豊(ひやま ゆたか) 1976年10月16日生まれ。元お笑い芸人(元ホーム・チーム)。茨城県立日立工業高校→日本映画学校

おかゆ太郎(おかゆ たろう。別名は渡辺ラオウ) 1977年12月19日生まれ。お笑い芸人(元ストロングマイマイズ)。新潟県立新潟江南高校→日本映画学校

こばやしけん太 1978年2月21日生まれ。お笑い芸人(元きぐるみピエロ)。群馬県立前橋南高校→日本映画学校

平子祐希(ひらこ ゆうき) 1978年12月4日生まれ。お笑い芸人(アルコ&ピース)。福島県立勿来工業高校→日本映画学校

狩野英孝(かの えいこう) 1982年2月22日生まれ。お笑い芸人。宮城県築館高校→日本映画学校

近藤くみこ(こんどう くみこ) 1983年1月4日生まれ。お笑い芸人(ニッチェ)。三重県私立・暁高校→日本映画学校

江上敬子(えのうえ けいこ) 1984年9月17日生まれ。お笑い芸人(ニッチェ)。島根県立益田高校→日本映画学校
 *「ニッチェ」は、「日映(日本映画学校)」から命名



狩野英孝が語る「新百合ヶ丘時代」


狩野英孝が、新百合ヶ丘の日本映画学校に入り、お笑いを目指す経緯を記した文章がある。

以下は、その文章 (ブログ)を紹介する日刊スポーツの記事からの引用。


高校時代から「何かしら芸能の道に進みたい」という漠然とした思いがあり、卒業後にはウッチャンナンチャンや出川哲朗などを輩出したことでも知られる日本映画学校に入学。そこでの授業には田植え実習などユニークなものが多かったそうで、ネタを作って漫才を披露することも経験したが、「お笑いって面白いなぁった。けど、お笑いの世界に行こうとは思わなかった。。」という。

 しかし卒業間際に友人に誘われてマセキ芸能社のお笑いライブを観に行ったことで一変。「ナイツさんや(いとう)あさこさんやパッション屋良さん達など みんな面白かった!!! それ以上に芸人って、、カッコイイって思った。。その瞬間 ぼくはお笑いの世界に進むと決めた。。」


日本映画学校の俳優科に入った学生は、狩野のように「何かしら芸能の道に進みたい」という人が多かったのだろう。

当時の日本映画学校は、俳優にも、芸人にもなれる学校だと認知されていたのかもしれない。


「新百合ヶ丘のお笑い時代」はいかに終わったか


しかし、新百合ヶ丘の日本映画学校が、お笑いへの登竜門だった時代は終わる。

それが、いつ、どのように終わったかも、実は明確ではない。

1つには、若手がマセキ芸能社に入るルートが、日本映画学校だけではなくなったことがある。

そのあたりの事情を説明してくれるのが、上述のナイツ塙の動画だ。

詳しくは動画を見ていただくとし、簡単に言えば、2001年ごろ、マセキ芸能社は、本社のあった上野で事務所ライブを始め、そこで若者をスカウトし始める。

そのライブを通じてマセキ芸能社に入ってきたのが、ナイツ、いとうあさこ、パッション屋良たちだ。

それは狩野英孝が新百合ヶ丘の日本映画学校に在籍したころだ。「卒業間際に友人に誘われてマセキ芸能社のお笑いライブを観に行った」という上記の彼の文章は、ちょうど彼がその転換期にいたことを示している。

それに先立つ1997年に、内海好江が亡くなっている。

2007年、マセキ芸能社の正式な芸人養成所、「マセキ・タレントゼミナール」が東京都港区のビル内に開校し、そこから、ルシファー吉岡などがマセキの芸人となる。

そして、2011年には、専門学校「日本映画学校」は4年制大学「日本映画大学」に改組され、「日本映画学校」は2013年に正式に消滅する。

そのどこかの時点で、日本映画学校とマセキ芸能社との関係が切れ、新百合ヶ丘の「お笑い」時代が終わる。

その時代は、日本映画学校が新百合ヶ丘に移転した1986年から、ニッチェが卒業した2005年あたりまで、およそ20年間だった。

(最後に年表を付した)


新百合ヶ丘に「お笑い」の記録を残そう


現在、新百合ヶ丘には、日本映画学校の後身たる日本映画大学と、昭和音楽大学がある。

そのため、川崎市麻生区は、「しんゆり・芸術のまち」「芸術・文化のまち麻生」をうたっている。


しかし、その「芸術・文化」のイメージの中に、「お笑い」がなくなっている。これは惜しいことではないだろうか。

それに、新百合ヶ丘の「芸術・文化」というコンセプトは、スベっていると思う。大学はあっても、それが市民に何かしてくれるわけではなく、くわえて、ミューザホールやチネチッタといった川崎の主要芸術・文化施設が、新百合ヶ丘から遠いからである。

「お笑い」でも、新百合ヶ丘の文化施策団体は、落語家はけっこう呼んでいる。そこにも、何かムダな「芸術」志向を感じる。

新百合ヶ丘は、マセキ芸能社と強いつながりがあった、つまりイロモノ(落語以外)の聖地だったのだ。落語もいいが、漫才や漫談家をもっと呼ぶべきなのである。

「芸術」なんかより、「お笑い」の方が、街を明るくし、若者を惹きつける。

新百合ヶ丘駅前の旧日本映画学校校舎は、現在も日本映画大学新百合ヶ丘キャンパスとして残っているが、主キャンパスは駅から遠く離れた(大学案内によれば駅からバス7分の)白山に移っている。

日本映画大学白山キャンパス(麻生区白山2−1−1)


野心に満ち、夢を追っていた、かつての日本映画学校の青春群像が、もう新百合ヶ丘駅周辺に見られない。

現在の新百合ヶ丘駅前は、平和で小ぎれいだが、活気に乏しい。


そもそも、その土地の歴史・伝統にもとづかない、とってつけた「芸術・文化」など、意味がない。

新百合ヶ丘は1970年代以降の新開地で、どのみち歴史はないが、その短い歴史の中で、20年にわたりお笑い文化の一拠点であったことは、貴重な歴史遺産ではないか。なぜそれを捨て去るのか。

というわけで、かつて新百合ヶ丘に芽生えた「お笑い」文化の歴史を忘れないために、狩野英孝(と、できればバカリズムとニッチェらも一緒)の銅像を、駅前に立てるべきだと思うのである。


関連年表


戦前    柵木政吉が「講談演芸社」設立


1950年 「内海桂子好江」結成 
      柵木政吉の息子・真が社長就任し「株式会社マセキ芸能社」に改名

1975年 映画監督・今村昌平が「既設のレールを走りたくない若者たち、常識の管理に甘んじたくない若者たちよ集まれ」と呼びかけ、2年制の「横浜放送映画専門学院」を横浜駅前に開校

1980年 「THE MANZAI」「笑ってる場合ですよ」「お笑いスター誕生」などが始まる。漫才ブーム。吉本興業に東京事務所できる

1981年 内海桂子好江が横浜放送映画専門学院の俳優科で講師を始める

1982年 内海の授業を受けたピックルス(楠美津香)が卒業後デビュー
      吉本興業がNSC(吉本総合芸能学院)創立
      NSC1期生の2人が「ダウンタウン」結成

1983年 好江のクラスに内村光良、南原清隆、桂子のクラスに出川哲朗が入る。好江は、内村と南原に、お笑いへの転向を勧める    

1985年 内村、南原、出川、横浜放送映画専門学院卒業
      横浜放送映画専門学院は、3年制の専門学校「日本映画学校」に改組

1986年 日本映画学校が新百合ヶ丘駅北口に開校
      内海好江が審査員をしていた「お笑いスター誕生」で内村と南原の「おあずけブラザーズ」(のちウッチャンナンチャン)優勝

1988年 ダウンタウンが東京進出、大人気に

1989年 昭和→平成に改元

1990年 出川哲朗は俳優として活躍していたが、この頃テレビタレントに転身

1995年 日本映画学校でコンビ「バカリズム」結成 のちにピン
      日本映画学校で「ファンキーモンキークリニック(藤本昌平所属)」結成

1996年 日本映画学校で「ホーム・チーム(与座よしあき、檜山豊所属)」結成

1997年 日本映画学校で「きぐるみピエロ(こばやしけん太所属)」結成
      内海好江、胃がんのため死去(61歳)

1998年 日本映画学校で「ストロングマイマイズ(おかゆ太郎所属)」結成

2000年 平子祐希(のちアルコ&ピース)、日本映画学校卒業
      狩野英孝、日本映画学校に入学 新百合ヶ丘でライブ

  この頃 ナイツ、いとうあさこ、パッション屋良らが、事務所ライブでマセキ芸能社入社
      日本映画学校とは別ルートができる

2003年 狩野英孝、日本映画学校卒業とともに芸人活動始める

2005年 日本映画学校を卒業した近藤くみこ、江上敬子が「ニッチェ」結成(「ニッチェ」は「日映(日本映画学校)」から命名)

2007年 マセキ・タレントゼミナール(東京都港区芝)開校

2011年 日本映画学校の後身「日本映画大学」開校

2012年 日本映画学校俳優科を廃止

2013年 日本映画学校閉校

<参考>


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