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パリに留学して野武士マインドを手に入れた話

フランス、しかもパリ留学というと、「素敵〜♡」「お洒落〜♡」「パリジェンヌ〜(?)」などと言われることもあるのですが、私の留学生活はインスタ映えとはかなり程遠い日々でした。今日はそんな留学生活を振り返ってみようと思います。つまり、今回はただの過去回想です。

私は、大学在学中に大学の交換留学プログラムを利用して、2015年9月〜2016年5月の間、パリ第3新ソルボンヌ大学に留学していました。当初は大学から寮があると聞いており、その腹づもりでバイトしたりでお金を用意していたのですが、留学前の6月末に「寮なんてないよ」と大学からまさかの裏切りを受けました。これについて全部説明するとしんどいのと話が長くなるので割愛しますが、これだけは言わせてください。大学の留学センターは信じるな。

住所がなければビザも申請できない…。パリに知り合いなんていないし大学はあてにならない…。実家暮らししかしたことないのに、最初の家探しがパリなんてハードル高すぎだよ〜(涙)と途方に暮れていた暫定ホームレス女子大生柿ピーは、ツテがなさすぎて、twitterでフォローしていた方々にダメ元で突撃しました。「パリでお家を探したいんですが、アドバイスいただけませんか?」と。すると、お家の仲介などをしている方より返信が来て、結果的にはその方のご紹介でお家を決めることができました。twitterでフォローしているとはいえ、面識のない方。全く疑わなかったわけではなかったのですが、それでも縋らなければならない程、事態は緊急でした。7月や8月も半ばになってしまうと、フランスはバカンスといって皆数週間の夏休みをとってどこかに行ってしまいます。そうすると、不動産や大家さんとも連絡がつなかくなってしまい、私の家探しはますます難航してしまうのです。女子大生柿ピーは泣きながら家賃850ユーロ(日本円にすると10万オーバー)の小さなアパルトマンを契約しました。ちなみに、寮は400ユーロくらいと言われていたので、家賃倍以上ですね。今からでもいいので、大学からはお金を返してほしいです。

幸いにも、契約したアパルトマンは6畳かそれ以下の小さなお部屋でしたが、小柄な柿ピーはあまり狭さが気にならなかったですし、セキュリティや立地は素晴らしく、家具家電つきでついでに前の住人が残して行った食料や洗剤なども残されていて、暖房(セントラルヒーティング)つきと、快適な生活を送ることができましたので、パリでは概ね適正価格でした。騙されたとかでは全くありませんでした。

勉強しに留学したので、もちろん学業第一として、バイトもしないとやばいな…と思った私は、インターネット上のパリ住みの人がよく見ているという掲示板で、ベビーシッターの募集を見かけ、そこでちょっとしたお小遣い稼ぎをしました。フランスでは、日本のように集団登校などはできず、子どもは必ず誰かが送迎に来なければならなかったため、私はその子の送り迎えと、日本語の宿題を簡単にみる、ちょっとした家庭教師のようなことをしました。

それでも、約1年のプログラムを生きていくためには、削れる出費は削らなければいけません。原則1日2食で具がない塩パスタやバゲット(フランスではバゲット🥖がパンの中で一番安く設定されている)などをちまちま食べながら生きていました。
それだけではさすがに栄養が偏るので、駐在妻の方が開くお食事会に参加したりして、栄養補給していました。
生きるだけでも大変でしたが、パリ自体もなかなか大変な場所でした。見た目が完全にちんちくりんなアジア人なので、あからさまに舐められたり、人種差別的なこともしばしば受けました。

書けばキリがないほど、多種多様なトラブルだらけのハードなフランス生活でしたが、楽しいこともたくさんありました。そしてパリは嫌いになるにはあまりにも美しい街でした。
お金のない貧乏留学生でもただ街を散歩するだけで、楽しく感じました。学生は美術館が無料だったりタダで入れたりするので、美術館巡りもしたりしました。お誕生日には自分へのご褒美で美味しいケバブを食べました。先輩日本人の方々のご厚意で、ラクレットやガレットデロワなど、フランスっぽい物を食べました。美味しいワインをたくさん飲みました。美味しいチーズをたくさん食べました。クリスマスには、お食事パーティにお招きいただき、フランスの家庭の豪華な晩餐も堪能することができました。

色んなトラブルがあったフランス留学ですが、やはり1番大きな出来事は2015年11月13日に起きた、パリ同時多発テロ事件です。
ちょうどその日はたまたまバイトが休みで、お家でゴロゴロしながらtwitterを眺めていました。
すると、「パリでテロらしい」というツイートが流れてきて、一気にTLがテロ情報で埋まりました。ケータイにもフランス人の友達や日本人の方々からたくさん安否確認の連絡がきました。
あのテロ事件の恐ろしいところは、政治家など偉い人たちだけではなく、庶民や若者がふらっと飲みに行くような一般市民が集うエリアもターゲットになったことです。つまり、その場にいるというだけで、外国人で何の権力もない私も運が悪ければ死んでいた可能性があったのでした。
大学に行くと、恐らくは被害に遭って亡くなった学生たちの写真などが貼られていたり、「テロに屈しない」というようなメッセージカードがいたるところに置いてありました。日本人留学生や駐在員の中には、その後帰国された方々もいらっしゃいましたし、帰国までしなくても、1週間くらいは外に極力出ずに引きこもっていた人も多くいました。

そんな中、私は普通に大学に行き、「地方からせっかくパリに遊びにきたのに飲み会全部キャンセルされた〜」というパレスチナ人の友達とご飯に行ったりもしました。あとは、観光客が消えた美術館でのんびり芸術鑑賞したりもしました。

別に無理したわけではありません。平常心です。

家がないよ〜とメソメソしていた女子大生は、いつの間にか、めちゃくちゃタフになっていたのでした。

今は、アジアの中でもかなり過酷といわれるインドで現地採用をしていますが、毎日楽しく過ごせる野武士マインドは、フランスで培われたと確信しています。フランスを離れても、フランスにいた経験や思い出は、色んな形で私を助けてくれたり、苦しめたりしています。

きっと、これからもずっとそうなのかもしれません。先人だってこう言っているのですから。

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」

アーネスト・ヘミングウェイ「移動祝祭日」より

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