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戦後100年、2045年。世界の平和はどうなっているだろうか。(2021年夏の想い)

平和を希求する世代であり続けたい

先の大戦から76年の夏、在宅勤務が続く状況で、8月6日、9日、15日、3つの式典をテレビで見て、東京から黙祷した。
大学時代に考えた戦争と平和があり、学徒出陣を見送った記憶のある建物とキャンパスで学んだことは、社会人になってからも変わらぬ想いとして、これからもきっと抱えていくのだと思う。

ただ、今年は昨年までとはまた違う気持ちで8月15日を迎えた。

家系図をたどれば、あの戦争は遠くの昔話ではない

今年6月、親戚の法事で我が家の墓を約5年ぶりに訪れたとき、祖父から「戦争は許せない」と、怒りと悲しみの言葉を初めて聞いた。
祖父の父(自分から見れば曾祖父)は、祖父が生まれてすぐに招集され、北方・占守島で戦死したそうである。終戦を受け入れ、本土も混乱の時期の出来事であり、遠く離れた北の地でのこと。占守島の方面に出ていった記録を最後に戻ってきていないことから、「戦死したらしい」としか伝わっていない。どこで何があったのか、誰にも分からないものの、遺骨ですら本土に還ってきておらず、我が家の墓には墓名しかない。

祖父にとって、父としての曾祖父との記憶はほとんどなく、「戦争に父を奪われた」伝聞しかない。「父がどんな人であったのか分からないのに、自分がこうして今生きていることに不思議をときどき感じる」という言葉に、命の重さと平和の伝承の大切さを感じざるを得なかった。

家系図をたどれば、先の大戦を生きた人たちにすぐたどり着く。
76年というけれど、まだまだ昔話にはできない出来事なのだと思い知る。

失われていい命は1つもない

なぜ平和が必要なのか。
自分の答えはただひとつ。失われていい命は1つもないから。

第二次大戦で失われた命の数や核兵器の恐ろしさがあって、1945年以降、戦後として語られているけれども、規模・恐怖の問題ではなく、私たちが日々生きているということが望まぬ形で、悲しみしか残さぬ形で失われるから、戦争はあってはならない。

翻って現代社会を憂う。救える命を見逃していないか。本人が望まぬ形で亡くなる命がないか。
国家間の戦いでなくとも、この問いは現在でも完全には否定できない。
内戦やクーデターといった武力のぶつかりだけが問題ではない。巷の感染症は、失われるべきでない命を奪っている。救えるべき命が救われない環境を政治も私たちの行動もつくってしまっている側面がある。

戦争がないことが平和ではなく、失われていい命が1つもないことが平和の姿であってほしい。
戦争を経験したから、戦争は悲しいから平和を求めるのではなく、私たちひとりひとりが夢描く生活を送れるような社会になるよう、平和を希求する想いと実現されたい平和の姿を発信し、平和への連帯を広げていきたい。

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