僕の「原体験ディグダグ」 その④の2

1:はじめに

こんにちわ、かくです。
今noteで連載中の「原体験ディグダグ」ですが、前回記事を投稿した後に以下のようなツィートを投稿しました。

 これは、「原体験ディグダグ」が完全に自己流でしたので、どなたか「原体験ジャーニー」を体験した方々のご意見を頂きたいなあと思って投稿したものです。
チカイケさんもご自身のツィートで、
「ペアでやるとより深く強くなっていきます」
と書いているように、要は
「気軽に質問してもらえればなあ・・・」
と思って投稿しました。

真っ先に反応してくれたのは、ゆたぽんちゃん(@20review_matomeだったんですが、そこに鈴木利弘さん(@tossy_Careeeerが以下のように返信をくださいました。

「あ~、こういう返信を待っていたのですよ!!」とばかりに、今回は
「父との関係で受け入れたい価値観」
について、掘り起こしてみたいと思います。

2:父の価値観

まずは一度前回投稿した記事を読んで頂ければと思います。
この記事には、正直に


「父の現状を受け入れることができない僕」

の事を書いています。

でも、記事内でも書いたように、親子関係がこんな冷めていたかといえば、そんなこともないなあと思います。
 「父の現状を受け入れ難くなった」のは、一緒に働き始めてからです。それまでは、諸事情で一緒に暮らしていない期間も長かったので、
「父の実情」
を知らなかったというのもまた事実です。

父のこれまでの歩みを知る限りで振り返ってみると、東京の大学医学部に入学。一時急性肝炎で留年していたようですが無事に卒業。その後、僕の祖父が現在の診療所を開業していたこともあり、卒業後は鹿児島へ帰郷。地元の大学で勤務したのちに30代で現在の診療所で働くようになっています。
 いい意味でも悪い意味でも、昔の典型的な医業継承パターンです。
 現在父は80歳になりますが、継承後は約40~45年くらいは現在の診療所を運営していることになります。

そんな中で、ひとつの大きな転機になったのは、

「母や姉、僕と離れて暮らす」

という決心をしたということが挙げられると思います。

この事情は前回noteを参考にして頂ければと思いますが、今考えると

「苦渋の決断」だったんだろうなあ

と思います。もともとが年代的には所謂「団塊の世代」ですので、「仕事優先」な面はあったと思いますし、実際に「仕事優先」でした。

僕が小学校低学年の頃は、まだ実家(現在の診療所がある場所)のある地域というのはそれなりの人口がありましたから(今では1800人程度)、実家診療所の他にも診療所が数件ありました。しかし、時が経つにつれて閉院していきました(要するに後継ぎ問題で)。そんな中でうちは後継ぎとして父がいることもあり、地域の医療を一手に引き受けざるを得ない状況になってきたと思います。

 ですから、おいそれと実家診療所を潰すわけにはいかない。だけど、子供により良い教育を受けさせたい。そんな葛藤があったと思います。
 そんな中での苦渋の決断だったと思います。僕でも同じような立場になれば悩むと思います。でも、もしかしたら家族(僕も含めて)優先の選択をして、父とは逆の選択をしていたかもしれません。これはどちらが正しいではなく、価値観の問題・時代背景の違いがあるからです。

 いずれにせよ、

「責任感」
「滅私しての他者への貢献」

ということは尊敬に値します。まあ、「滅私」だったのか、それとも「父自身がそこに幸せを感じていたか」は分かりません。でも、休みでも診療所に籠っていた父ですから、仕事がある意味「趣味の領域」まで昇華していたのかもしれません。正直「今の僕」には無理ですし、僕は「仕事」と「プライベート」は切り離したいです。

3:大学受験の時のこと

医学部受験の時のこと。
だいたいの大学では、「一次試験:筆記」、「二次試験:面接」って感じですかね?今は違う感じかもしれませんが、当時の医学部でもだいだい同じで「二次試験:面接+小論文」って感じでした。

僕が卒業した大学の小論文のお題ですが、今でもだいたい覚えてます。
たしか・・・

「超音波機器やCTといった最新医療機器が導入されている近年の医療で、人間が果たす役割はどういったものになると考えるか?」

って感じだったと思います。
今も「AIとの共存を如何に行っていくか?」などの問題がありますが、まあそれとニアリーイコールな問いですね。
んで、僕はこう答えました。

「医療の中でどれだけ機械化が進んでも、診察するのは人間であり続けると思います。治療することを「手当する」といいますが、まさに人間が「手を当てる」から「手当」というのだと思います」

みたいに回答しました。

「これ、絶対に受かるやん・・・(・∀・)ニヤニヤ」

って感じでしたね、当時の僕は(-_-;)

まあ、今でもこの考えは僕の中にある考えですし、この考えがなくなったら臨床医(患者さんを診る医師)ではないと思ってます。

じゃあ、医師でもないガキ高校生が「なぜ、こんな考えを持つに至ったか?」なんですが、これはもう

「父の影響」

としか言えないんでしょうね。

だって、大した病気もしたことない僕が触れ合う医師といったら

「父という医師しかいない」

んです。
 小学校3年までの期間に、無意識に

「医師としての父の背中」

をみていたんでしょうね。ほんとにまったく覚えがないんですけど。
こう考えると、

「子供はバカではない」
どころか
「幼少期の無意識の体験、すげ~~~!」

と思います。だって、

「無意識の体験が将来の職業にまで影響しちゃう」

のですから(-_-;)

そして、この試験の面接の時には、

尊敬する人物として「父」をあげていました(-_-;)

「原体験ディグダグ」その③で書いていますが、

「なぜ医師になったのか」
「なぜ内科医になったのか」
「なぜ呼吸器内科医になったのか」

というのも、認めたくない自分はいますが、なんだかんだで

「父の影響」・「流れる血の影響」

なんでしょうね。正直、「今の自分」は認めたくないのですが・・・(-_-;)

4:さいごに・・・

「今の僕」にとって、「経営者・医師としての父」は反面教師な部分があります。正直「あんな感じにはなりたくない」と思っているのも確かです。
でも、親子なので

「血は争えないなあ」

とも思わざるを得ないですね。

祖父が随分前に他界したのですが、その時火葬場まで向かうバスの中からの光景を今でも鮮明に覚えています。
霊柩車が通る道のいろんなところで、たくさんの地域の方々が霊柩車を拝んでいるのです。中には膝をついて頭を下げて拝んでくださってる

「あ~、じいちゃんはすごい人だったんだなあ」

と思いました。

まあ、もちろん父が亡くなる前に仲良くなれればいいに越したことはないんですが、物騒な話ですが、最悪父が他界した時に

「父のしてきたこと・父の偉大さ」

に気付くのかもしれません。あと「僕が経営者・医師」なった時に分かるのかもしれません。正直今は「これまでの父の偉大さ」を「今の父のいやな面」が完全に上回ってるので(-_-;)

今回は、ゆたぽんくんと鈴木利弘さんのご協力の元、こんな違った面からの「原体験ディグダグ」ができました。本当にありがとうございました。これを読んでくださった方も気軽にtwitterなどで「こんな掘り下げ方してみたら?」とご提案ください。

それでは、最後までお付き合い、ありがとうございました。
まだまだ連載は続きますので、よろしくお願いいたしまする。

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