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神宮、渋谷。街を残していくことについて。

 渋谷宮下パークは若者と外国人で溢れている。

 先日、宮下パーク並びに渋谷の街づくりが下手すぎるという話を聞いたばかりなもんだから、ついつい穿った視点で見ていたが、実際に足を運んでみると、ここには笑顔があった。

 渋谷は商業都市になっていて、多様さ、もとい喧騒がない。というような趣旨の話だったが、たしかにそれを否定することはできない。

 ただ、ここで楽しそうにしている人たちを見ていると、そのような言説は過去を懐かしむ老人たちの愚痴でしかなく。いまを生きる者たちはこの渋谷をスタンダードに捉えて、柔軟に適応と納得をしていくんだろうと感じた。

 人がつくるものだ。必ずいつかは古くなって、つくり直す時か壊す時がくる。

 そのときに、まったく同じようなものをつくり直す人間などいるだろうか。

 人間誰しも、やり直すことができる機会があるならば、より良いものへとしていこうと考えることが自然のように思う。(直し方が、問題なのだろうけど)

 そんな事を考えながら、ふと、神宮の再開発が僕の頭をよぎる。
 アレもまた、多くの議論を生んでいる「つくり直し」だ。

 歴史。というものを僕らはどこまで大事にするべきだろうか。
「残す」という行為は、同時に「手を加える」ということでもある。
 人間がつくったものを残すためには、そのものに何らかの手を加えていかなければ、残していくことができないのだ。

 しかし、その行為がほんとうに「残している」と呼べるのだろうか。

 「残す」とは、カタチに残って、目に見えてわかるような状態でないといけないのだろうか。

 むしろ、街に根付くレガシーや雰囲気のようなものがあるのならば、それを残していくべきなのではないだろうか。

 うむ。街づくりはおもしろい。

 「残っているモノ」は評価される。だけれど、なぜ残しているのかは、ちゃんと考えた方がよさそうだ。

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