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図星のことほど怒れない

 図星のことを言われると怒りづらいからほんとうに嫌です。事実無根のことや気にもしていないようなことを言われても、ちゃんと怒るか、無視をすることで切り抜けることができます。

 だけれど僕の場合、図星のことほどぐっと飲み込んでしまいます。だって図星のことで怒るのって少し恥ずかしいじゃないですか。マジで気にしているみたいです。

 「あー、これで怒ったら格好悪いな」って自分に言い聞かせてそういうときはなんとか堪えます。「言われて嫌なこと」はちゃんと怒った方がいいのかもしれませんけど、そういうことで怒ってしまうと、後からさらに嫌な感覚だったり色々な想像に襲われるので、必死に堪えます。

 それにまず前提として、あまり「怒る理由」がないんですよね。だって、図星のことだから。大抵の場合そのようなときって、「自分が言われたくない」という感情だけが怒る理由であって、責任の所在は僕にしかないことがほとんどです。

 だから結局のところ、自分が変わるしか・そこを改善するしかないんです。「言わせない努力」よりも、「言われない努力」をするしかないと思うんです。

 子どもって、子どものときって、図星のことを言われたら怒っていました。

 「宿題やったの?」なんて聞かれると、あまりにも図星なもんだから、「うるさいな、今からやるよ」なんて言ったり。

 「〇〇ちゃんが好きなんでしょ~」ってからかいを受ければ、「ほんとうに違うからヤメて!」なんて言ってみたり。

 後ろめたいことや気に留めていることほど怒ってしまうのは、頭ではどうすればいいか分かっているけれど、身体がそれを実現できていないことで発生する一種のパニックなのかもしれません。

 宿題もはやく終わらせればいいだけですし、好きな子には想いを伝えればいいだけです。分かっているのに、できない・できていない。そんな状態が僕たちに「怒る」という一つの逃げ道みたいなものをつくるのではないでしょうか。。

 できない理由を他人に向かって理論的に説明することができれば、僕たちは怒ることがなくなっていくのかもしれないけれど、それができるならば苦労はしません。

 「いまは帰ってきたばっかりで疲れているからゲームをして、十分に頭が働くようになってから宿題をしようと思っていました」。

 これを子どもが言ってきても言い訳にしか聞こえませんし、理論的でもありません。理論的に説明ができるときは、主に責任の所在が自分にはないときです。もし仮に理論的に説明できるのならば、それはもはや図星ではないと思います。

 以前なにかで見た「頭のいい人は怒らない」という文章。僕はこれが絶対的に正しいとは思わないけれど、頭のいい人がたぶんそう言われるのは、「怒る理由を理論的に説明できる」からだとは思います。

 「怒る」という感情を無くすことはしてはいけないし、そもそも不可能です。しかしそのエネルギーの変換はできるはずです。

 つまり「怒る」というエネルギーを、「理論」というかなり「感情」からは遠いところにある素材で包みこむことによって、あたかも「怒ってはいない」ように見せているんだと思うんです。まるで「説明」をしているように。

 でもその「説明」も正体は「怒り」です。優しい言葉で理論的にもっともらしくて正しい言葉でも、その中心部には「怒り」という大きなエネルギーがあるから、それだけ相手を動かすことができる「言葉」を生み出せるのだと思います。

 以前、頭のいい友達が中学生時代に陰キャラだったとバカにされていました。たぶんだけれど図星だったと思います。彼はそれに対して、

 「たしかに勉強ばっかりだったからね。これからめちゃくちゃ稼いで、いいお嫁さんをもらうためには、賢い投資ではあったのかもしれないと思うけど、遊びまくっていたお前らも羨ましいよ」と言いました。

 たしかにいい返答だったと思います。その場の誰も嫌な顔をしていませんでしたし、少しの笑いもありました。だけれど僕はこの言葉になんとなくだけれど、「怒り」に似たようなものを感じました。

 ほんとうは「うるせーよ」で済ましてしまいたい。そんな話は別にしたくはないというような、そういうニュアンスをたしかに僕は感じとりました。

 言葉に騙されてはいけません。イエスの裏にあるぐっと堪えたノーにしっかりと目を向けてください。

 ちゃんと怒ってくれる。イエスの意味でイエスを使ってくれるかどうかということに、しっかりと注意を払ってあげてください。そこを間違えつづけると、いつか本当の意味で「怒らせます」。

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