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好きな言葉を信じないで

 好きな言葉だとか、座右の銘を聞かれると困ります。だってその言葉の重みに自分が見合っていないんですもん。

 「好きな言葉は情熱です」なんて答えたら、日々情熱を持って生きていかなければ、誰かにケチをつけられてしまいそう。お恥ずかしながら、たまには情熱を持たずに、惰性的にやりたいときだってあります。

 座右の銘だって、「迷ったらカッコイイ方を選ぶ」という甲本ヒロトさんが言ったらしい言葉がほんとうは大好きだけれど、ふと立ち止まったときに、「俺って別にカッコイイ選択ばかりしていないな」って思っちゃいます。

 そんなこんなで、聞かれたところで結局いつも、当たり障りのないものだったり、思ってもいないようなことを言います。

 そして僕思うんですけど、こういうときに選びたくなる言葉たちってだいたい自分がある程度達成できているものだと気づきました。

 たぶん僕たちって、知らず知らずのうちにか「自分を正当化」しようとしていて、いまの自分に合った言葉たちを好きだと言っているんじゃないかなって。

 「正当化」自体はまったくワルいことではないですし、たぶんもともと正しいです。でもなんというか、そうやって他人に教えてあげる言葉。いわば、自分のプロフィールみたいなものだからこそ、あんまり自分と相手にも気を遣って選択していると、ほんとうに自分が求める「生き方」みたいなものがブレてきてしまうんじゃないかなと思うんです。

 こんなことでブレないよと思いがちですが、やっぱり僕らはセコい人間で、見られていないとサボりますし、勝手にコロコロ意見を変えます。そうやって周囲だとかに気を遣っているうちに、いままでの僕だったら到底許すことができなかった「ナニカ」でさえも許容していくようになっちゃうんじゃないかなあ。

 情熱を持って生きたいと願っていたのに、それはムリだと言ってみたり。カッコイイ方を選びたいのに、そんな基準はくだらないと言ってみたり。そうやって、どんどん冷めた論理主義者になっていく。

 まあそれも悪いことではないさ。その方が頭を使っています。でもたぶんだけれど、言い続けていかないと達成できないものもあるから気をつけてほしいんだよね。

 なにかを頑張りたいって宣言すること。まったくもって要らぬ宣言ではないからね。

 不言実行もいいけれど、僕は有言実行する人がカッコイイと思う派です。


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