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結論はまたいつか

7年前の今日

鉄道の関連会社に勤め、職場の近くに住んでいた私はしばらく会社に待機していた。鉄道が動く目処がついて会社をでると駅前のタクシー乗場の行列に並ぶ友人を見つけた。
不安で泣きそうな彼女に缶コーヒーを渡して、近所にすむ共通の友人が来るまで話をした。

家に帰ると炊飯器が床に落ちて壊れていた。その日は金曜日で、翌日はラジオやネットで、何が起きているのかを知ろうと必死だった。ラジオで中西哲生さんが泣きながら惨状を報じる声を今でも覚えている。

輪番停電のためのサーバ運用や、懐中電灯を灯した会議にも慣れたころ、東京都がボランティアを募集していることを知ってその日のうちに申込をした。
「自粛しろ」「自粛するな」「ボランティアが余ってる」「ボランティアが足りない」情報が錯綜し、当事者以外の主義主張がぶつかるばかりでよく分からない。何をして、何をすべきでないか。自分の目で見て判断したかった。

1週間活動して、そこで、その後の活動を共にする何人かの仲間と出会った。個性や得意分野も考え方も様々だったけれど、信頼できる仲間がいるのは心強かった。みなで情報を持ち寄って、話し合い、役割分担をして活動を続けた。それでも、東北各地の状況やニーズも、置かれている立場も人それぞれで、行く先々で何か一つ知るのと同時に、また一つわからないことは増えた。東北の地理に詳しくなったり、スコップの扱いは慣れても、いつも「これで良いのかな?」という問いは頭の中でぐるぐると巡っていた。

「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)」

という言葉が帰りの東北道では、いつも傍で囁いていたような気がする。

その後、東北以外でも災害ボランティアは、何度か経験した。ボランティアを受け入れるボランティアセンターの手伝いをしてみたり、原発や放射能、福島の社会学とか災害心理学、リスクマネジメントも学んだりもしたけれど、7年経った今でも、この3.11という日に発信するに相応しいような「結論」めいた適切な言葉は見つからない。

ボランティア経験のない友人から何か「教訓」めいたことを期待されることも少なくないのだけれど、知れば知るほどにどんな言葉でも不足に感じてしまう。それほどにあの震災は巨大な象で、私が話せるのはきっとその尻尾の先にも満たないだろう。

ただ年月を重ねる毎に、当時知り合った東北の人達や、仲間達と今でも連絡が取り合えて、結婚した、家族が増えた、仕事が上手く行った。というような近況が聞けるのが今は嬉しい。

結論はまたいつか。明日が来ることは、当たり前ではないけれど。

(Photo:南気仙沼小学校 2012.01)


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