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【ビューティフルマインド】統合失調症の天才が向き合った幻と現実、その果ての栄光

※このノートにはビューティフルマインドのネタバレを含みます。

 天才的な数学者である主人公は国防に関する高名な研究所へと入る。暗号解読に関するスペシャリストとして、スパイとしてアメリカとロシアの戦争を止めるべく孤軍奮闘していたがその全てが病気が生み出したまやかしであることを知る。一度は社会的地位も妻や同僚からの信頼もその全てを失った主人公が再起して学問における最高の賞を得る美しき物語。

 この映画の感想を伝える上で、まずは自分語りから始める。僕には昔から出来ないという感覚がなかったし、わからなかった。というと何でも出来る超人のように見えるがそこまで万能だったわけでもなく、頭を使うことや体を使うこと、手先を使うこと、昔から多少不器用ではあったし出来ることも人並み外れていたわけではないが月並みに全てが出来た。そのため常に、自分にはやって出来ないことなどない、という感覚があり他の人の「わからない」や、「出来ない」という感覚がイマイチ共感できなかった。月並みに秀才であるという思いを持っている僕は、自他共に認める天才でその才覚を使って社会的に特別な存在へとなっていく主人公に強く魅せられて行った。

 だからこそ主人公の統合失調症が発覚したシーンでは自分の足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。僕は今までの学生生活や人生において、自分よりも優れた運動能力や学力、特技を持っている人や面白い人、話が上手い人を沢山見てきた。ただ能力的に非凡ではなかったからこそ集団の中で、あるいは社会の中で一風変わった非凡な存在であろうとしてきた、ざっくりいうと人と違うことをしたり考えたりしてきた。そんな僕にとってスパイとして頭を使い続ける主人公は特別で憧れでもあり、ある意味で自己を投影したもう1人の自分でもあった。もう一度言おう、だからこそ主人公の統合失調症が発覚したシーンでは自分の足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。

 非凡な能力を持った主人公ですら特別ではなかったのだ、ただ特別な存在になりたいという、特別な存在でありたいという自分でも正確に認識していなかった願望が丸裸にされたのだ。自分が信じていた、見ていた、思っていたことの大半が実はまやかしであり、幻であり、他人に伝えることはできるが共有出来ないものであり、何より現実として病気であった。実際に僕が統合失調症という病だったわけではないが、あのワンシーンで受けた衝撃は大きなものだった、自分が病気ではないと言い張り続ける主人公の気持ちが痛いほど理解できてしまったのだ。

 その後のシーンはしばらく辛いシーンが続いた。もう一度自分は特別なのだというまやかしに縋る主人公を信頼できなくなっていく妻に元同僚、高名な研究所にいた頃の社会的な地位はなくなり常に統合失調病患者として苦しみ続けることになっていく。しかし彼をまやかしの苦しみから救ったのは妻と学生の頃の友人であった。特別を望む人に現実を見せ続ける行為は酷なことにも思えるが、あれは確かに救済で現実に居場所がなかった主人公が少しずつ現実へと復帰していく。

 元々天才的な数学者だった主人公は長い年月、赤子だった息子が立派に成人するまで、若かった妻がお婆さんになるまで、友人の大学の図書館で研究を続けた。言い方を変えるならば現実と向き合い続けた、特別な存在になりたいという思いを捨てたわけではなく、その思いを見ないようにして現実を見続けた。その果てに主人公を慕う学生が数人現れた、研究が完成してノーベル賞を受賞した。特別になりたいという思いを捨て、現実と向き合いつでけたからこそ主人公は特別な数学者へとなった。

 お分かりいただけただろうか、僕が主人公に自己投影出来たところは主人公の統合失調症が発覚した後までなのである。僕は今まで自分が現実から逃げ続けたとは思っていない、しかし一方で現実ととことん向き合い続けたという感覚もない。そして自分は今就活という人生における大きな岐路に立っている、やらなくてはいけないのは今目の前にある現実を頑張り続けることなのだろう、華やかな就活先を思い活動するのではなく、今目の前にある多くのやらなくてはいけないことや選択、それに最善をつくし続けること、それこそが現実を生きるために大切なことなのだろう。

 僕はいつかもう一度この素晴らしい映画を見たいと思う、その時には現実と向き合い続けている最中で自分にはやったことがあり、やり切ったことがあり、そして今やっていることがある、そんな人になりたい。その時に非凡な存在であるかどうかはわからないしどうでもいい、ただ長い年月をかけ一心不乱に研究を続ける主人公に自己投影できるようなそんな人でありたい。

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