AD36「バラエティプロデュースはメッセージである」

[水道橋博士のメルマ旬報 vol.195 2019年6月発行「テレビの果てはこの目の前に」より]

仮説だけど、マクルーハンが唱えた「グーテンベルクの銀河系」からの「メディアはメッセージである」に至るメディア論をアップデートできる気がする。
ネットはそもそもメディアなのか?という捉え方。
ネットの登場でメディア以前の世界に戻りつつある世界。
落合陽一が言った魔法の世紀の到来的な。

デモンストレーションには意味があるのだ。
自分の意見を言う、それを行動で示す。
意味が無いと言う人はいるけど、その表明が別の人を動かす。
それが歴史を作ってきたのは事実だ。
でもデモンストレーションは“見せかけ”では意味が無い。
物事が現実であることを示すこと。
事実であることを論証すること。

自分はすごいモノを作ってて、自分のアイデアは素晴らしいから、いつか誰かが人知れず認めに来てくれると思ってるクリエイター志望はクリエイターより多い。
それは宝くじに当たるような確率で、中には当たる人も実際いるから待っちゃう気持ちもわかるんだけど、実はそれでは宝くじを買ってすらいない。

仮にそれがすごいモノで、そのアイデアが素晴らしい(と自分が信じるならば)まずはデモンストレーションすればいい。
それが歴史を作ってきたのは事実だ。
でもデモンストレーションは“見せかけ”では意味が無い。
物事が現実であることを“自分”が示すこと。
事実であることを“自分”で論証すること。

文化ってよく知らないからおもしろいモノと、よく知ってるからおもしろいモノがある。
つまり出会う前の知ってる知らないという知識は、それがおもしろいかどうかには実はあまり関係が無いのだ。
それに気付くと、自分の人生や日常の中でおもしろいモノが格段に増える。
おもしろいかどうかは自分次第。
文化ってわかるからおもしろいモノと、わからないけどおもしろいモノがある。
つまり出会った後のわかるわからないという結果は、それがおもしろいかどうかには実はあまり関係が無いのだ。

難しいけどおもしろいに気付くと、自分の人生や日常の中でおもしろいモノが格段に増える。おもしろいかどうかは自分次第。
それでもなんか最近退屈なモノが多いのは、そのモノの供給者が知ってることとわかりやすいことばかり目指すから、それが儲かるから人気だからという理由で。
知らなくても難しいことでもおもしろいって世界にならないと、このままだと退屈なモノと人ばかりになってしまってつまらない。
この社会のおもしろさのレベルが下がってることがマスコミとか政治とか教育とか経済とかのレベルが下がってるのに繋がってると思う。
逆に言えばマスコミとか政治とか教育とか経済のレベルが下がってるからおもしろさのレベルが下がってるのかもしれないけど。
でもどこかにブレイクスルーがあるはず。
僕にとっては、そんなブレイクスルーを探すこと自体がとてもとてもおもしろいのです。

以前なら街ぶらぶらしたら、本屋さん行って並んでる新刊手に取って、CDショップ行って新譜チェックして、車買ったらカーショップでカー用品買ったりして、雑誌も何冊かよく買ってた。
そんな昔の買物エンタメ生活の方がなんか楽しかった気がする。
ノスタルジーかな?
歳とったからかな?
いや、違う気がする。

明らかに昔より買物エンタメ生活がつまらなくなってると思う。
昔は海外行ったらCDショップでジャケ買いでわからんCD沢山買って聴くの楽しかった。
変なの掴まされたり。つまり知らない段階から出会って買って体験するって価値がネットの登場で極度に減ったんだ。
知ることの容易さが退屈を増やす。

昨夜なかなか寝付けなくて、題名は知ってるけど読んだことない名作読んでみようと谷崎潤一郎「春琴抄」読み始めたら一気読みしてしまった。
かなりやばかった。
これ昭和8年に発表なのか。
やはり後世に残る作品には残るだけの意味があるのだ。
そんな読んだことない名作読むのに人生を浸かりたいと思う。

若い頃に買って読んでみても何度も挫折した折口信夫『死者の書』と『身毒丸』読了。
おもしろかった、というかやっとおもしろさが身に沁み入った。
最近むしろ古文調のリズムのある言い回しの方がラップのようで読んでいて心地よい。
大人になるのも悪くない。

最近読んだ作品。
折口信夫『死者の書』『身毒丸』柳田國男『遠野物語』カサーレス『パウリーナの思い出に』ガルシア・マルケス『フォルベス先生の幸福な夏』チェーホフ『犬を連れた奥さん』森鴎外『渋江抽斎』林芙美子『風琴と魚の町』中島敦『文字禍』『山月記』。
どれもまた半端なくおもしろい。

「私など本屋の娘なので、本を特別のものだと考えてる節があるのであるが、もうそう考えること自体いけないのか。…出版業界だけにある、ある種エレガントな空気『売れることだけがすべてではありません』というものだけは、絶対になくして欲しくない…」林真理子『実売数とサシメシ』文春6/6号

「この度は大変失礼致しました。次の新作はぜひ弊社でやらせてください、一丸で沢山売ります!」的な謝罪してたらカッコよかったのにって某社の敏腕編集者さんが嘆いていた。
やったことが意気で行き過ぎな行為でも、それを上回る粋で行き過ぎな謝罪で今まで業界を渡ってきてたのにと。

ある日の話。
芸能界は芸能界で放送局も放送局で既得権益を守るために、個人の職業の自由を束縛してる事例をまた聞いてしまった。
違法性はもとより、絶大な力を持ってた以前ならまだその行為の意味もわかるんだけど、もはや意味も為さない呪縛と拘束。その話が出るとこに出たら一気に崩壊しますよ。
もうちくっちゃおうかな。
あまりに気持ち悪いから。
あまりに旧態依然で、あまりに弱いものイジメで、あまりにバカバカしいから。

一般的に言って、闇営業をしたのにお金をもらって無い理由は2つある。
1つ目は、本当はもらったんだけどそのお金が帳簿に乗らない闇のお金でやりとりを無かったことにしてしまったか。
2つ目は、その闇営業先とお金をやりとりしない位の(友人のような)親しい間柄であったか。
いずれにしてやましい。

カフエマメヒコ井川啓央さんの言葉
「問題を切り取ってすぐルールで管理して解決すべきみたいなこと言うけどさ。
どんどん巧みにルールをかわす術ばかりがノウハウになって、
問題はかえって一見見ただけではわからない深いところに眠るようになってる。」

SNSはこう使え!使うな!とかビジネスはこうあるべきだ!という影響者とか識者の忠告を鵜呑みにする人がいるけれど、それはその影響者の影響力に於いて識者の経験に於いては正しいけれど、それがそれを聞いた人に当てはまるかはわからない。
成功も失敗も含めて自分でやって経験するしか無いと思う。


ワタナベアニ @watanabeani
インディーズバンドが「今回のライブには豪華なサポートメンバー、ササキさんとノグチさん!」と言ったりするが、全員まったく知らん場合がある。自分たちの影響力を過大評価する内輪ノリは痛々しい。狭い知人の領域を世界だと思わない方がいい。ナイル・ロジャースくらいが来たら言っていいけど。」

角田陽一郎 @kakuichi41
「皆は知らないと思うけど、有名な方で・・・」って説明されたりして、でもそれは有名では無いのでは、、、

田中泰延 @hironobutnk
私がいちばんきつかった仕事は、企業研修的な講演で、200人ぐらいのお客さんの前で司会者が「みなさんもご存知ないと思いますし、司会のわたくしもまったく存じあげない方ですが、きょうは、田中泰延さんという方に2時間お話をしていただきます」

角田陽一郎 @kakuichi41
逆に「皆さんもご存知の、ネットで有名な〜」ってご紹介された時に、皆さんのリアクションが全く無い時も仄かな悲しさがありますね。

・・・こんな感じに深夜の丑三つ時に、いい歳こいたおっさんたちが、ツイッターでやりとり。

田中ひろのぶさんのいつも楽しいおもしろ(くだらな)ツイートを見てるとにやけてしまうのだが、それに付いてくるリプをちょっと覗いたりすると見なきゃよかったと後悔するなあ。
おもしろとくだらなを理解できないリプの存在。
人は人の言葉をどう捉えるか?って文化資源学的サンプルではあるけども。
逆に言えば、ツイッターが無かった時代は、そんな受け手側の的外れクソリプは言葉の送り手側には滅多に届かなかったわけで、SNS以前以後で言葉の需要と受容の在り方が変化してるはず。
これ、今後の言葉文化の変容のきっかけではあって、産み出される作品も変わるわけだ。

よくバッシングを受ける今をときめく著名な起業家の方がある日こうツイートしていた。
「自分以外の他者のことをもっと想像して書いて欲しい。」
全くその通りだ。
でもそう心がけていても、人は時に、うっかり、無自覚に、忘れてしまったりする。
自分が気持ち悪くないように、他人も気持ち悪くならないように、何か行動を起こすのはすごく難しくてそれがSNSの登場でよりこんがらがる。

TAISHI IWAMI さんのツイート @TAISHI_IWAMI
「洋楽対邦楽一辺倒で話すほど両者の溝は深まる。国内の音楽がガラパゴス化しているというより”海外の音楽しか聴かない人たちの国内の音楽の嫌悪”も含めてガラパゴス。国民性や言語、音の特徴などで分類することは、ひとつのものの見方。洋楽邦楽って言葉自体をもう止めよう。」

これ本当そう。
で、どのジャンルでもある話。
小説、映画、テレビ、演劇、スポーツ、好き嫌いはジャンルじゃ無くてそのモノ次第を自分が好きか嫌いか。
そう思った方がおもしろいし楽しいしそうなった方がどのジャンルも活性化してどんどんいい作品が出てくる!
出会いをジャンルで縛っちゃつまらない!

講義『サスティナビリティと人文知』おもしろい!
開発という言葉は元々は“かいほつ”と呼ばれ自らの仏性を開く仏教用語。
それが江戸時代の新田開発から近代化で資源や鉄道など今のdevelopmentの意味に。
でも元々土地や自然にも魂が宿ると信じていたから“かいほつ”が“かいはつ”になったのか。根は同じ!

沼野充義教授『世界文学講義』翻訳論。
おもしろい!例えば英語国では「ライ麦畑でつかまえて」は1つしか存在しないし仏語国では「星の王子様」は1つしか読めない。
でも日本語ではそれらを時代が変わったら時代にあった文体の新しい翻訳で読むことが(も)できる。
翻訳で読むことに実は優位性がある!

おもしろい講義を受けると知の無限さと夢幻さに想いが馳せワクワクするけど、クソつまらない講義を受けると知の閉塞感と徒労感でヘトヘトに疲れる。
つまり映えや態だけでなく、どのように講義をプロデュースするか?ということ自体が物凄く大事な問いでありデザインなのだ。#問いを立てるデザイン

先日お会いした経営者の方があるグローバル企業の内部資料を見せてもらったのですが、その企業の資料では日本は中進国にカテゴライズされていたという。
さてどうするか、良くも悪くもその事実を念頭に社会とかルールとか教育とか組織とかの制度設計を見直す転換点なんじゃないだろうか。

これとあれは繋がっていてあれとそれも繋がってるんだけどこれとそれも繋がってる(かもしれない)って想像力が無い人と創造作業をすると大変だし億劫だし諸処でだいたい揉める。
利益と揉め事はだいたいどこかで繋がっているのだ。
その瞬間たまたまプラスだったりマイナスだったりしてるだけ。

これ何回か経験してるんだけど、何かのサービスの会員になっていて、そのサービスが売り上げが悪くなると、せっかくそのサービスをもっと使ってあげようと思ってるのに、従業員とかサービスとか仕組みとか色々悪くなって、結果どんどん既存会員の気持ちも離れてしまう。#この現象に名前をつけたい

こうしたら売れる、こうしたらヒットする、こうしたらお金が儲かる、的な話を聴くとへーとは思うんだけど、真似したいと思わない自分がいる。
なんか失敗してもいいからそれらを自分で見つけたいんだなとは思う、見つからないかもだけど。
解る事実より解るプロセスが生きてて楽しいんだと僕は思う。

日本は一切扱わない知らない国々に特化したニュース番組やってみたい(いつかやろう)
エンタメな学術雑誌を作ってみたい(いつかやろう)
司馬遼太郎『街道をゆく』21世紀版やってみたい!(いつかやろう)
美術館と博物館を廻る『館に行こう』やってみたい(いつかやろう)
言っとくと叶うから。

そっか。
潮目がやっぱ変わってきてるんだ。
SNSでのやりとり見ても、誰と仕事の話しても、なんかほんの2、3ヶ月前まで、よいと思われていたものことが途端に陳腐になり、こうすべきだとされていたやり方が急速にちんけになって来てる。
この潮目の変化に気づいてるか。
その潮流でどう泳いでいくか。

ふと想う。
文章を書くことは僕にとって仕事なのだろうか?
なんで書いてるのか?お金のためか?(そんなに儲かるわけでもない)
自己満足か?(多分にそうかな)
〆切があるから?(無いとやらないからね)
これでいいのだ。

つまり、バラエティプロデュースとは、メッセージである。

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