AD39「バラエティプロデュース的霊性」

[水道橋博士のメルマ旬報 vol.204 2019年9月発行「テレビの果てはこの目の前に」より]

「ありがとう」って「有り難し」つまり滅多に無い、珍しいことだから感謝してるって意味だと思うんだけど、本当は感謝の気持ちって、いつも有る「有り易し」だから感謝したい時も有ると思うのだ。
そんないつも有ること、それが続くことへの感謝の言葉ができたらいいのに、なんてふと思った。

三和土と書いてたたきと読むのとか、独楽と書いてこまと読むのとか、仙人掌をさぼてんと読むのとか、煙草と書いてたばこと読むのとか、年魚と書いてあゆと読むのとか、麦酒と書いてビールと読むのとか、なんか好きだ。

最近想う。
自分の中での考え方がどんどん変わって来てる。
というか日々ばんばん変化する。
今まで良かったことが嫌になったり今まで嫌悪してたものが良くなったり。自分ですらそうなのだ、他の人だって考え方はどんどん変わる。
なので言った言わない論は空虚だし、過去発言を糾弾しすぎても意味ない。

「自分の言葉に責任を持て!」確かにその通りかもしれない。
でも実際考え方は絶対変わる。
ならば自分はこう変わったのだと、自分はなぜ変わったのかと、その理由をも表明するしかない。
つまりその考えに至った結果だけで判断するのではなく、その結果まで至った考えの変化のプロセスも伝えること。

知ったかぶりってのはうざいけど、知らなかったぶりってのも面倒だ。
あなたが知ってても知らなくても、いいもんはいいし価値あるものは価値がある。
それの価値を知られてるか知られてないかだけで判断する(される)ことはそれこそ価値がない。
さらに厄介なのは知ってるのにその価値がわからないこと。

明日締め切りの原稿は三つ。こもって書く。
一つ目は雑誌のエッセイ。エッセイって言われるとちょっと気取って書いてる自分がいて読み直すと恥ずかしい。そんな時は一晩寝かして明日朝再確認。
二つ目は「水道橋博士のメルマ旬報」
そしてあと一つ!

伊勢にて開催される全国高校生SBPフェアの審査員。
今年で3年目。
夜は商店街て夜市を開催。頑張ってる若者達は応援したくなる!

伊勢にてスリランカ出身、大分別府の立命館アジア太平洋大学卒の26歳・吉本社員のビレさんと知り合う。彼の夢はアジア1のエンタメ会社。あと別府の旨い寿司屋を教わりました。

伊勢の内宮に御参詣。
畏し神の森の木漏れ日に心が清められる。
宇治橋は昔はかかって無かったそうで、五十鈴川をじゃぶじゃぶ渡って、まさに身体を清めて境内に入ったそうだ。

草彅剛さんと映画対談!!
9月公開『台風家族』のお話から『ホテルビーナス』『黄泉がえり』『金スマ』の想い出まで色々話しました!楽しかった!
草彅さんは1本満足バー的ハイテンションて喋り捲り!
自分が監督した映画『げんげ』の話ししたら、撮影中はずーっとげんげのポーズ!

昨晩の草彅剛さんとの映画対談。
『台風家族』の宣伝スタッフさん達の諸々の対応が素晴らしかった!!
愛があるし、何をPRすればよいのか判ってるし、誠実だし、なにせ威張らない!
もう芸能村の人々が居丈高になる時代は本当に終わったんだと思う。
そこに気づかない組織から滅んでいくと実感しました。

今日の話。あなたの強みは何ですか?と質問された。
自分はこれに強いって自覚できることなど自分にはない。
でも自分の弱みはわかる。
強いて言えば、自分の弱みがわかってるってことが強みなのかもしれない。
その人の弱いところはその人の弱さではなく、強さを誇示することが実は弱さなのだと思う。

今日の話。「読もうとした本が難しくて読めない時はどうすれば?」
読めない本は捨てずに本棚に放っとけばいい。
そして何年後かに何気なく手にとって読んでみたら、急に読めたり、むしろすごくおもしろかったりするから。
その本を読める(おもしろがれる)タイミングと年齢ってのが人生にはあるのだ。
その本に書いてあることに意味があるのは、自分がそれを理解したかどうかとは関係がない。
その本がこの世界に存在してることに意味があるのだ。
そして、その存在の意味がわかるタイミングが自分にいつか訪れるってことにこそ、その人の存在の意味もある。

国立新美術館にて、ボルタンスキー回顧展『Lifetime』
夏の終わりに人生の存在と始まりと終わりを巡る。生まれて生きて匿名性を纏って人は消えていく。

角田陽一郎の9月の新刊『出世のススメ』(日本実業出版社刊)完成!!ステキなイラストはイタリア在住のイラストレーター・ワダシノブさん。嬉しい!
来週には店頭に並ぶと思います。皆さまぜひ「出世」しましょう!!

今日たまたまテレビ見てたらのんちゃんのユニクロのCMのあとにすぐガッキーのアロマリッチのCMが流れていた。。。某局の昼間のスポット枠だったけど、このたまたまのCM並びに何かざわざわしたものを感じた。
営業局スポット部の偶然と言う名の必然か。偶然と言う名目の故意か。

渋谷は大きいビルがいっぱい建ってますが、それって街の繁栄につながるのかな?
それぞれの雑居ビルに用事ごとに出入りする方が街がにぎわうのでは。
ノイズを除去し過ぎた街って魅力的なのかな?
自分もノイズを出してるんだから他人の出してるノイズにも寛容になればいいのに
うるさい街でもいいじゃないですか。
それが嫌になったら都会の喧騒を離れて静かな所に行けばいいんですよ。
昔、東アフリカで他人のノイズが気になって大陸から出た人が、はるか日本列島に来て日本人になったんじゃないだろうか。

文章を書くときは自分の想いに向き合わなくちゃ書けないんだけど、無性に自分の想いに向き合いたくないときがあって、そんな時はどうすれば書けるのだろう?
そんな時に自分の想いに向き合うとどんどん自分が嫌になってしまったりするし。
そんな時は校正とかは本当できない。
自分の文章読みたくない。
そんな想いを今日の夜の代官山蔦屋にて田中ひろのぶさんに相談してみよう。

『読みたいことを、書けばいい。』の田中ひろのぶさんと90分間ずーっと高速でトーク。
多分30個くらいのエピソードを高速で話したので、ひとネタ3分!
でもまだ話したいことの1%くらいしか話せてない!
またやりたいです!

昨日今日と話した素敵なおじさんたち。
松尾スズキさん
田中泰延さん
柄本明さん
なんていうか何の戦略も損得も脈絡もなくただ興味の赴くまま感じたことおもしろいことを話し続ける、笑う、頷く、得心する、感極まる、ただそれだけ。
ピュアに話すことの価値を知る。
おじさんになるのも悪くない。

例えば、なんか事件が起こった時に、その事件云々も当然問題だけども・・・広報部に事実関係を聞くと、「一般社員の人事案件や番組の制作過程についてはお答えしていません」と回答した・・・的な対応の方が実はより深刻な旧弊的で日本村的で問題を闇に葬る的な、本当に深刻な問題な気がする。

人はせっかちになるのは、ものごとを早くすませたいからだと思うんだけど、早くすませるためにはむしろせっかちにならない方がいい。
他人の話はちゃんと聞いて、いちいち丁寧に確認して、状況を把握して、ちょっと落ち着くのを待って、そこからはじめた方が結果物事は早くすませられる。

そりゃ丁寧な応対が一番いいけど、はじめから終始一貫いばられてるのはまだ全然いいんだけど、こちらがどういう人間かわかると途端に丁寧になるいばってる人に遭遇するとホント気持ちよくない。
いばってようが丁寧だろうが、人を選んで態度が豹変するのが、むしろこちらが恥ずかしくなる。

意地悪な人ってのがいる。
この人なんで相手に意地悪をするんだろう?って注意して見てると、相手への悪感情とか復讐心とかで意地悪することより、実は自分の我を通そうとして結果相手に意地悪になってることの方が多いと思う。
なので、その人は相手に意地悪してるって自覚症状がなかったりして厄介。

人にものを依頼するときに失礼な人って何なのだろう?
それを失礼だと理解してないのか?
相手をバカにしているのか?
人にものを頼んどいて自分の要求ばかり押し付けてくる。
その要求をなぜ相手が呑まなくちゃいけないのか?という想像力の欠如。
他者の行為は自者のフィードバックだという想像力の欠如。
昔だったらその失礼さを指摘もしてたけど、今は面倒くさいから、その失礼さとただ距離を取る。
近づかない。
つまりその失礼な人はその失礼さに気づくことは永久になく、「何で断るんだろ?断るなんてあいつバカだな?」とか思ってるんだろうな。
もうそいつの上履きの中に画鋲を入れたい。

今に比べて昔は良かったと好印象に感じる時があるけど、それは昔が本当に良かったからか?
自分が若かったからか?
それとも記憶は美化されるからなのか?
逆に未来に悲壮感を持つのは、世界が本当に悪くなってるからか?
自分が年老いていくからか?
想像が貧困だからか?
・・・逆だったらと思ったりもする。

大人になるとは、未来予測の統計とかグラフとか見て、その時に自分は生きてないだろうと実感することなのだな。
若い時は気付かんかった。
そんな自分がいない未来世界のことに想いを馳せられるか?
どうせいないんだからどうなってもと思うか?
前者でいたいけど後者になってしまう人の気持ちもわかる。

9月になりました。わけあって(本当はわけもなく)ひとり旅に出る。
北へ向かう。今朝、易をやったら吉方位は東北だったので。ドライブインにてカツ丼。

自分の苗字と同じ都市があることは何十年も知ってるけど、足を踏み入れたことはなかった。なので来てみた。宮城県角田市。

山形の山寺にやってきた。多分25年ぶり。
当時もすでに息ハーハーしてたけど、今回もハーハー。風が気持ちよい。

東北から車で戻る。
BGMは昔よく聴いてたアルバムを聴きながら。聴いてるとその時代を思い出すから、空間以上に時間もトリップできる。
DRINK!SMAPとMIJ、あの頃も最高だったけど、今聴いても最高です。
特に『SUMMER GATE』ってほんと好きだ。
完璧なアイドルソングでなおかつ最高のポップチューン。

長崎で潜伏キリシタンの話を色々伺う。
何かを信じぬくとはどういうことなんだろう?
信仰とは一体なんなのだろう?
そんな根源的な問いを問われてる気がした。
自分にはそうまでして信じられるものがあるのだろうか?
では無いとして、本当に無くてもいいのだろうか?
と感じたりする。

松岡正剛さんと打ち合わせ。
会話が知的遊戯のラリーだから毎回楽しいし、刺激になるし、まだまだ自分も頑張ろうって気持ちをもらえる。

何か本とか読んでテレビ見ておもしろいもつまらないも当然あるけど、「自分の知ってることばかりだった」でつまらないって判断されるのって、なんか残念。
つまり自分が知ってるか知らないかでしか、おもしろいかつまらないかを判断できないその人の生き方がその作品より退屈なんじゃないだろうか。

「AかBか」よくそんな選択を人生では迫られるけど、大体のことはどっち選んでも大差が無いのだ。
大事なことは、自分で自分が考えて選ぶことだと思う。
そして考えて考え抜くと実は結局AでもBでもどっちでもよかったりするから。正解だったら正解。
ダメだったらダメでむしろよかったってこと多いし。

人生の中で、あの時こうしてれば的な選択ミスって過去にたくさんあったと思うんだけど、もし別の方選んでても結局次々とやってくる選択を全ていい方選べるわけではないから、結果常にどっち選んでも結果は大して違って無かったのではないだろうかと、最近思う。
選択の際の努力と後悔には意味が無い。

4年前の2015年10月にいただいたきっかけを、今日2019年9月15日にようやくなんとかカタチにはすることができた。
会社辞め始めたのが2016年7月だから、実質三年近くかかった。
長かった。時間かかった。
それができるまでは、ずーっと頭のなかではこのことばかり考えてた。
やっと次に進める。

映画『ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD』楽しかったな。
なんか事件なんか起こらなくてもいいから、この映画を作る世界をいつまでも観てたいと思った。

うまく言えないのだが、なんか年年歳歳どんどん息苦しくなってきてる気がしてならない。
酷暑天災の自然環境とか、不条理な事件事故の社会環境とか、圧迫的な言論環境とか、気詰まりな経済とか、わだかまるSNS状況とか、忙しない人間関係とか、身体の老化加齢とか。このままじゃ窒息してしまいそう。

さてどう生きよう?
何のために生きる?
何をする?
何がしたい?
何を求めてる?
何が求められてる?
なんか息苦しいと、そんな問いも想うだけでもいちいち息苦しい。
息苦しいと、行き苦しくて、生き苦しいわけだ。
せめて深くゆっくり息を吸いたいなあ。生きてる限りは。

東京国立近代美術館にて、高畑勲展。
最高だった!制作過程を見てると作品が生まれる瞬間を追体験できて感涙。
『母をたずねて三千里』が僕のルーツなのだと知る。
『かぐや姫の物語』は本当にパクさんの集大成だったのだ。
中川大志さん=一久さんの音声ガイド最高。
そして高畑勲展で知ったパクさんの訳著『木を植えた男を読む』を朝から読む。生きることの意味が少しだけわかった朝。

「この悩みが解消したら」とかよく思うけどその悩みが解決するとまた違うジャンルの悩みが勃発する。
つまり悩みなんて大小深浅常時人生に伴う。
だから人生に勝ち逃げなんて無いのだ。
大小深浅な悩みとどう同居しつつそれでも日々楽しく生きるか?
悩みの解決をするのではなく気にしない術を持つこと。


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