BC21「いまだ、夜明け前 Still Before the Dawn」

[水道橋博士のメルマ旬報 vol.68 2015年8月25日発行「オトナの!キャスティング日誌」より]

僕が赤坂のテレビ局に就職したのは1994年の4月でした。

大学では文学部で西洋史を専攻し、専門はフランス革命で本当は大学院に進んで研究したかったものの、「君のような成績じゃ受かんないよ」と指導教官に言われ、当時は4年生になって就職活動をはじめたものですが、特に何も考えておらず、いざ考え始めるとスーツを着て会社に向かう自分が想像できず、それでいて大学時代に少しだけかじった演劇で役者なり演出家なりで生きていく選択というのも考えには考えましたが、当時流行り始めたフリーターという生き方を選択しながら演劇に明け暮れている貧乏そうな先輩方を見て、そんな生活も嫌だなと思った時、ふとテレビ局に就職して番組でも作るのを生業にすれば、とりあえずサラリーマン的な安定的な生活もしながら、少しでも創作活動にコミットできるかもしれないと考え、複数あるテレビ局の就職試験を受けようと思うにいたり、OB訪問で話を聞いた先輩曰く「テレビ局の特に番組制作は激務で厳しいよ」と言われ、「言うなれば演劇の小屋入りする当日が毎日続くようだよ」とも言われ、「そりゃ小屋入りは大変だけれども、それが毎日続くのも悪くないな」と思い、「幕が上がる準備をする毎日も悪くないな」と決心し、実際の就職面接ではまさに就職氷河期で面接では無難なことしか言わない学生が多いのを尻目に、「入社したらエッチな番組が作りたいです!」の強気なのかよくわからぬ一点張りが功を奏したのか珍しかっただけなのか、なんと民放で一番お固い赤坂の放送局に内定をもらい、就職先が決まったら決まったで何もすることがなく暇で暇でしょうがない卒業の一月前に行った旅先で、歳上のメーカーサラリーマンと偶然知り合いになり飲みながら「君は卒業したら何をするのか?」と質問され、「エッチな番組を作る」と答えたら、「そんなふざけた職業を君は一生の職業にするのか?」と説教され、しかし血気盛んな若者は、「もし戦争になったらいらないって言われる職業こそ、真の文化を作るのだ!」とかなんとか生意気に反論したりして、どんな激務でもいいから早くとりあえず働きたいってうつうつとしていたのが23歳の僕の夜明け前でした。


入社して一ヶ月の研修期間を終え、制作局でバラエティ制作を志望したのは、演劇をやっていた自分にしたらやはりドラマ制作を希望するのが常套なのですが、ドラマは助監督から監督になるのに5〜7年かかると聞き、一方バラエティは3〜4年でADからディレクターになれると聞き、ならばさっさとバラエティで出世してプロデューサーになっちゃえば、「これはバラエティです」って言い張ってドラマも作れるんじゃないか!なぜならバラエティって“いろいろ”って意味だろ?とか勝手に邪推し、一番激務だと言われるバラエティ制作部を志望したところ、念願叶って配属されたバラエティ現場はそれはもう予想通りというか予想以上にものすごく激務で、配属されるまでは体育会的“しごき”が辛いのだろうと予想していたのが“しごき”などはほとんどなく、むしろそれは文科系的に紳士的にドサっと降ってくるいきなり大量の事務作業、果てしのない夜明けの見えないコピー取り、収録テープ整理、ロケ場所探し、弁当配り、タクシー配車等等等、まさにその仕事の“責任”に殺される寸前で、当時まだ珍しかった携帯電話は組織の末端の新人ADには持たされることもなく、常に居場所を出勤ボードに書けと先輩達に怒鳴られ身柄を拘束されながらも、適当に“おつかい”とか書いては、常に会社で寝る場所を探していたし、それで更衣室で寝ていると循環している警備員にまるでホームレスを排除するように排除され、確かに収録日にはそれまではテレビ画面で見ていたアイドルや歌手や俳優などの華やかな“芸能人”に会えたけれども、会ったら会ったでその“芸能人”はやっぱりただの人で、その興奮もやがては冷め、次第に“芸能人”はただの日々の取引先の相手に成り下がり、「なんだスーツを着て営業回りするサラリーマンとなんら変わらないんだ」と1年経ってようやく気付きつつも、そんな収録現場では弁当を食べる時間すらもなく、トイレに篭って弁当をこそこそ食べ、挙げ句の果てには職場を脱走し、連絡もつかぬまま実家に戻って近くの動物園で檻の中の猿をぼーっと見ながら、やめちゃった後でのさらなる闇を想像しながら、やがて先輩に説得され、また現場という檻の中にみじめに戻ったりを繰り返し、そんな休みもない闇の日々を猿のように過ごしながら、特に一番きついのが編集作業で、テレビ局舎から1キロほど離れたポスプロと呼ばれる真っ暗な独房のような編集室の中でキラキラ輝く複数のテレビ画面だけを見続けながら、後ろのソファーに寝そべりながら指をパチパチ鳴らして指示するボス猿のような先輩ディレクターの考え通りにひたすら画面に表示するテロップを猿のように入力する作業に明け暮れ、ちょうど出演者の喋り言葉をテロップでフォローするのが流行り始めた90年代半ばのバラエティ番組ではその作業時間はまさに三日三晩の不眠の編集作業になり、なんとか終わって完成したテープを1キロ離れた本社のマスター送出部に届けようと外に出た時、朝から始まって夜が来て朝が来て夜が来てぐるーっとぐるーっと繋がって三日目の朝の30時、いつの間にか夜明けが来ていたそんな赤坂の寒い冬の朝は、編集機器の放熱の熱さと編集室の暗闇に慣れた身体には殊の外冷たく眩しく、しかしその冷たい眩しさの中で、「もしこの編集済みテープを届けないままドブに捨てちゃったら、いったいどうなっちゃうんだろう?」とか闇の想像を抱きながら、そして自分の汗臭い臭いに辟易しながら、まだ明けぬ自身の夜明けの中を1キロ歩いて放送テープをなんとか届ける、そんな24歳の夜明け前でした。


「ADの夜明けはいつ来るのだろう?それはディレクターになればきっと明けるのだ」と、頑なに自分に信じ込ませてだましだまし日々を過ごすと、程なくして三年目にはディレクターに昇格し、ただの取引先相手だと思っていた“芸能人”は、実際自分で演出するための会話をするようになると、やっぱりそこら辺の一般人よりはるかに能力の高い“タレント”を持つ人たちで、そんなタレントさんに気に入られるように、そんなタレントさんを使って面白い番組が作れるように、そんな使命感という重石が、ディレクターを2年3年と続けると、ADのときに感じた身体的苦痛以上の精神的プレッシャーを感じるようになり、いつか視聴率を取って、有名番組を作って、華やかな業界人生活を送るぞ!とか決心しつつも、当時バラエティ番組では芸人がヒッチハイクしたり地方の田舎で素人さんが活躍するような“ドキュメントロケバラエティ”が各局で大ブームで、ご多分にもれず自分が配属された番組もそんなドキュメントロケ企画を日々作り高視聴率を稼ぎ出し、そのためディレクターになったらなったでフル回転で日々会議してロケハンして構成決めて地方にロケ行って、帰って来て寝ずに編集して、その編集Vを先輩の総合演出にチェックしてもらって、ダメ出しされ、修正して、収録スタジオでタレントさんの前で披露して、それがウケたりすると殊の外うれしくて、イマイチの時はかなり凹みながらも、そのスタジオ収録素材をまた独房のような編集室でまた三日三晩かけて編集して、その間に次の地方ロケを仕込みながら、ようやく完成して搬入してOAして、翌日朝9時に発表される視聴率に一喜一憂して、そうするとまた次の地方ロケに行ったりして、それでも夜明けが来るのを願いながら時間を見つけては構成作家と会議して新企画を開発しつつ、自分の好きな芸能人はむしろニッチなマニアックなタレントだから、視聴率取るためにはむしろ自分があまり好きじゃない他局でもよく出ている話題の芸能人がよいのだろうと、そんな人気タレントさんが出演するような番組の企画書をしこしこ夜が明けるまで寝ないで作って、それをボス猿だったり編成だったりに提出して、いつかは自分が総合演出をはるような、一国一城の主になるような、自分のやりたいことをやりたいだけ実現して、それでみんなにゲラゲラ笑ってもらって世界がぱーっと明るくなるような、そして視聴率もバカみたいに取って、「よ!人気ディレクター!」とかもてはやされたりする夜明けを夢見ながら、しかし実際はそんなうまく自分の企画が採用さることはなかなか無く、また結局寝ないで、地方ロケ、編集、収録、編集、OAという無限サイクルを繰り返す、そんな28歳の夜明け前でした。


まもなく21世紀を迎える世紀末の1990年代終わり頃に、同時に20代の終わり頃を迎えながら、1970年ちょうど生まれの僕は年齢計算が簡単だなと感じつつ、21世紀は30代か…などと来るとは思えない21世紀を想像していたのですが、それは子どもの頃話題になったノストラダムスの大予言の「1999年の7の月、恐怖の大王が降ってくる」という、滅亡説をなにげに信じていて、「きっとその1年前とかから徐々に滅亡に向けて世界は盛り上がってくるんだろう」って、というか「1999年の7月の直前の5月とか6月は人類はどんな状態になってるんだろう」って、子どもの頃から長年心配しつつむしろすごくワクワクしていたのですが、実際その直前になっても、テレビでも雑誌でも新聞でも、ノストラダムスが話題になることは皆無で、もしかしたらハリウッド映画のようにいつの間にか名もなきヒーローが自分の命を賭して恐怖の大王と戦って地球を救ってくれたのかと邪推するほど何も無いままいつの間にか恐怖の大王はいない者になっていて、代わりと言ってはなんですが2000年を迎える1999年の大晦日にはコンピューターがクラッシュする2000年問題が起こって飛行機が落ちたり原発がクラッシュするなどと盛んに叫ばれていましたが、それもまたSF漫画のように聡明な科学者が人知れず作業して頑張って僕らを救ってくれたかのように、大晦日には全く何も起こらず、無事2000年を迎え、同時に自分は30歳になり、20代は闇だったけどドキュメントバラエティブームに乗っかって毎週高視聴率を叩き出し、それもちょっと自分のおかげかと少しだけの優越感を持ちながら、これからはいよいよ夜明けを迎え明るく輝く21世紀の到来なのだろうと感じていたら、翌年の入社8年目の2001年秋には華やかな『人気アイドルを司会に迎えたゴールデンの大型新番組』をついに総合演出として任されることになり、そういう意味では一国の城持ちくらいにはなり、状況で言えば「長浜時代の羽柴秀吉だな」とか思いつつ、秀吉のように天下一統を密かに望みつつ、ならば自分が得意の、というか「あんだけ寝ないで作らされればそりゃ上手くなるよな!」って感じでいつの間にか得意になっていたまさにドキュメントロケバラエティをやろう!でもせっかくやるからには安っぽいフィクションではないもっと現実に迫ったリアルな新しいロケ企画をやろうと、あれをやろうこれをやろうとアイデアを出しながらしこしこ人気構成作家と会議していた夜分、その会議室の隅につけっぱなしで置いてあったテレビの画面では飛行機がビルに突っ込んでいました。

2001年9月11日の、決してフィクションではないはずの今までパニック映画のCGで見せられていたようなフィクションみたいな映像が、2000年問題では機械的な欠陥でもアンコントロールにならずにひとつも落ちなかった飛行機が、人間の憎悪にいともたやすくコントロールされた飛行機が、青空の中、高層ビルに突っ込むという戦闘アニメのような映像が、テレビという箱の中のブラウン管にNYから送られてきた電波が映し出したフィクションじゃないそのリアルのドキュメント映像が、僕らがしこしこ作ってるバラエティ番組のためのフィクションじゃないと言い張るリアルなドキュメントロケ企画なんて、なんてちっぽけで、くだらなくて、作為的で、それこそフィクション=作り物なんだってことを一瞬で僕らに悟らせて、僕らの積み上げたそのテレビの中のドキュメントロケブームという虚構が貿易センタービルと一緒にガタガタと崩れていった瞬間に、まさにそれを見た人気構成作家と僕はその事実に愕然としてその映像の残像がずーっと頭にこびりついて会議を続けられなくなり、ずーっとずーっと夜明けまでテレビを見続け、そしてきっとその夜、その残像はきっとテレビで普段ロケバラエティを見ていた日本国民全員の頭にその作為的な欺瞞さや空虚さを一瞬でインプリントして、程なくしてドキュメントロケバラエティブームはこの国から消え去った、そんな31歳の夜明け前でした。


ドキュメントロケバラエティブームが崩れ去った後、不況が続く日本国民がその次にテレビに求めたものは生活に役立つ“お得な知識と情報”で、お台場ではトリビアという単語が発掘され、汐留では日常で使える裏ワザがバシバシ発明され、六本木では学力知識を答えるスタジオクイズに発展して、おもしろさの中に何かしらのお得な情報を混ぜれば視聴率が取れるといった薄っぺらい味付けの番組が各局で増え、なんていうかそのお得情報に辟易しつつも、なんとなくこのまま天下泰平で「テレビは安泰な絶対的なマスメディアなのだ」的ゆるい雰囲気の中での各局の視聴率競争の中で、赤坂の自分が総合演出する薄っぺらい味付けの『ゴールデンのアイドル司会の番組』は、まがいなりにも一城の主として日夜寝ないで戦い続けた結果、次第に人気番組になっていき、「視聴率20%取れば天下を取れるんだろ!」って信じ続けた暗闇の20世紀の20代の男が、実際体感した華やかな21世紀の30代前半は、なのになぜか暗闇を抜けた感じが全くせず、きっとそれは一城の主にはなったけれども、もっと自分が誰かを蹴落として全権を持つ大ボスプロデューサーになって自分の国を持たなければ、そしてそんな番組という国を何国も束ねて本当に天下一統しなけりゃ暗闇が明けないのだという下克上的野望にいつしか変貌して、そんな天下取りの思いにうつうつしつつ、前にも増して企画書をしこしこ作り続けていた2005年の2月9日に、突然黒船が天下泰平のテレビの国たちを襲ってきたのは、幕末の浦賀ではなくなんと平成のお台場でした。

その日は深夜ひとりで社内のデスクで領収書の精算をしていて、その当時タクシーの初乗りは660円で、「この660円のタクシーの領収書、どこ行った時だっけな、全く覚えてない…もう精算あきらめるか」といちいち660円でもうんうん唸って悪戦苦闘していたら、その時突然テレビ画面に、ネット業界で話題の若手実業家が600億円でお台場の放送局買収とのニュース速報が流れ、その若手実業家とは当然面識はないのだが、実は大学の一年後輩で研究室は隣同士で、大学からずーっと、“フリとオチ”ばっかり考えていたら660円の領収書も切れないで悪戦苦闘してて、大学からずーっと“お金儲け”ばっかり考えていたら、600億円でテレビ局を買おうとしてるって、その600億円と660円の差にあまりに愕然とし、「この差は一体なんなんだよ!」って落胆してたら、今度はそんなネット界からの別の若手実業家の黒船が赤坂のお堅い放送局をも襲来するようになって、絶対だと思っていたテレビの世界は、人気番組を作れば天下が取れると信じていた天下は、実はなんて小さくて狭い世界だったんだと、そんな外圧を受けてはじめて此の期に及んで気付かされ、「ならばこのネットという黒船が本当に本当に夜明けのきっかけになるんじゃないか?」って、「だったら自分がやることは攘夷じゃなくて開国なんじゃないか?」って、でもそれは「むしろテレビ界の古い自分たちが殺されるってことを意味するんじゃないか?」って、ネットのこともよくわからずそんな莫大な不安の闇の中でかすかな小さな希望が灯ったのが35歳の夜明け前でした。


そんな外圧が襲って来て、次第次第に日本国民はネットという囲いの外に拡がる獰猛で自由な新たな世界を認知していき、それまで牧歌的だった日本のテレビという囲いの中は、こじんまりと収まった番組が益々多くなり、一応それでもテレビの中の人気番組の総合演出の自分は、2006年秋ついに新たに『人気芸人を司会に迎えたゴールデンの大型番組』のプロデューサーも兼務することとなり、それはまがいなりにも自分の国を複数持つことを意味し、それは長年夢見た天下一統という夜明けの姿だったのかもしれないけれども、囲いの外の世界を知ってしまった今となっては、それは全く闇の晴れないもので、夜はまだ果てしなく続いていて、そんな夜の中で今まで以上に悪戦苦闘して戦いに挑んだものの、その新しい番組はさして人気も出ず、「俺に任せりゃ人気番組なんか簡単に作れるぜ!」って鼻っ柱はポキっと折られ、囲いの外に出るまでも行かずに囲いの内のテレビの中で完膚なきまでに負け、2年ばかりで番組は終了し、国は召し上げられることになり、担当番組が無くなると通常はプロデューサー・ディレクター・ADはどこか別番組にシフトされるのですが、でも上役から「お前も大分ベテランになったし、それにどうせお前はまた自分で企画作るんだろ?だからとりあえずどっか別の番組にはシフトしとかないから」とかなんとか言われて了解し、部会で発表された担務の書かれた新しいシフト表には自分の名前が当然乗ってなく、まあそれは自分も納得したことなので文句はないのだが、今まで人気番組を作ってきて、自分では会社のエースだ!くらいの気持ちでいたので、自分の名前のないシフト表を見てかなり寂しくもあり、でも決して落ち込むことなく、「また新たな番組を作るぞ!」なんてある意味気合いが入っていたのだが、翌日、会社に行ったら自分の座席が無くなっていました。

会社の座席は番組ごとに分かれていて、各番組のシフト表を手にした事務方の担当者が、それを見て座席の配置を決めていくのですが、当然その名前のないシフト表を見た事務方の担当者は当然名前が無い事情も知らないわけで、なんの悪意も無く、ただ無自覚に誠実にシフト表通りに人員の席を配置して、そしてシフト表に名前の無い席は機械的に無くなり、仮にもエースと勝手に思っていた自分の席が無くなるなんて考えたことも無く、でも本当はエースでも何でも無く、会社は若いからポジションを与えてくれていただけで、そして若いからポジションをくれていたという事実に、それこそ若いから気づかずにいただけで、そんな若い頃から夜明けを目指して無心で戦ってきた若者は、いつしかその戦うための唯一の武器だった若さもやがて無くなり、若い後輩たちに取って代わられ、自らの闇はさらに深く暗くなり、もう夜は決して明けることなどないのではないかと思うようになった38歳の夜明け前でした。


番組が無くなり浪人になったことで、その間何本かの単発番組で飢えをしのぎつつ、それは今までの殺人的な忙しさから比べればだいぶ暇で、2009年の正月は初めて時間がぽかーんと空いたので、『夜明け前』の作者・島崎藤村の生まれ故郷で作品の舞台でもある木曽の山奥・馬籠宿を訪ねてみたら、生家の離れが一部残っていて、ここが藤村の父のことを題材にした『夜明け前』の舞台なのかと思うと、何か特別な縁を感じ、宿のはずれにある展望台に登ってみると、籐村直筆のニーチェの言葉が彫られていました。

心を起さうと思えば先ず身を起せ

この言葉を信じ続けて『夜明け前』を書いた島崎藤村は、きっと自らも自らが夜明けを迎えるために『夜明け前』を書いたんじゃないだろうか?などと勝手に自分の身上を重ね合わせ、そんな夜明けを迎えるための啓示を馬籠宿で受けて、まずは身を起こして新しい企画を日々ぐりぐり考え続けていたところ、ちょうどその頃黒船来襲を取り敢えず乗り切った赤坂の放送局は外からの再度の襲来に備えるべく、まるで幕末の江戸幕府が西洋式海軍を創設したように、社内ベンチャー事業の新企画募集をしていて、660円と600億円の違いに愕然となったあの黒船襲来から自分の脳内に灯ったかすかな光は、「テレビ番組レベルの動画をネットで独自発信して、番組制作力をテレビの中だけでなくテレビの外のネットでも存分に使えば、素人動画主流のネットの中で十分に戦えるのではないか?」という骨子の新たなネット放送ビジネスの企画書に結実し、締め切りギリギリに応募したところ、なんと採用され、それこそ脱藩した坂本龍馬が海援隊を作ったように、この企画募集で初めて出会った同じ志の何人かと、ネットで独自番組を作るネット放送会社を設立することになり、今までバラエティ番組しか作ったことないのに期せずして会社を作ることになり、それこそバラエティって“いろいろ”って意味だろ?って入社の時思ったいろいろがまさかネット会社設立にまでなるとは思いも寄らず、それこそこのネット会社で夜明けを迎えるのだと、いよいよ夜明けが来るのだと、まさにウェブの海に意気揚揚と漕ぎ出した39歳の不惑前の夜明け前でした。


設立したネット放送会社で独自のバラエティ番組をそれこそ毎日じゃんじゃん作り始め、ウェブの海に意気揚揚と漕ぎ出したのですが、開始当初は「この新たなネットビジネスがうまくいったら、幕末には開国が幕府を潰したように、テレビ界をぶっ潰しちゃうような倒幕運動になっちゃうんじゃないか!」なんて要らぬ心配をしたりもしたのですが、やがて1年もすると、それはやっぱり要らぬ心配で、和魂洋才とは昔も今もよく言ったもので、テレビ番組のノウハウという“魂”をネットという“才”で使ってみたところで、なかなかビジネスにはならないことをまざまざと痛感させられ、そんな中いよいよ“不惑”などと言われるのに、自分は惑ってばかりだなと自虐的な気分で40歳を迎え、そんな毎日で花粉症と肩こりがひどい春のある日、会社をサボって15時にマッサージを予約して、20分前くらいに局舎ビルを外に出ると、突然空が不気味にざわめくのでふと見上げると、カラスがとぐろを巻いていて、「これはなんなのだ?」と驚く間もなく、足の下の地の底から巨大な振動が襲ってきました。

2011年3月11日14時46分、その時からテレビは東北の火事と津波の惨状を夜通し映し続け、そして次の日のテレビ映像はいつしか原発がクラッシュする映像に切り替わり、バラエティ番組は原子炉建屋とともに吹っ飛び、翌日の日曜日にお笑いタレントと浅草で他愛もないくだらない“ぶらりグルメロケ”を予定していたのが、前日夜に会社からロケ撮影中止のお達しが来て、それは「そんなくだらないことやってる場合じゃない!」と言われたようで、そしてそう言われた瞬間に、入社直前の学生時代の卒業旅行での、「もし戦争になったら“いらない”って言われる職業こそ、真の文化を作るのだ!」と生意気に反論したことがフラッシュバックしてきて、それは実際は戦争でではなくて地震でだったけれども、バラエティ番組を作るこの自分の職業が、いざ実際に“いらない”と言われる状況になってみると、そのあまりの事実に愕然となりました。

その瞬間僕は気付きました。華やかなテレビの世界の中でカルチャーの波の上を上手に波乗りしながら波と戦い続けることで、いつか夜明けがやって来ると信じてやって来たけれど、しかし今、波乗りできないほどの巨大な津波が襲って来たとき、むしろその津波と戦わずに逃げたっていいんじゃないのか?逃げて逃げて、そしてまた生きる。僕が目指したバラエティというのは、テレビの中だけで波乗りするような閉じた世界の娯楽ではなくて、テレビの枠とか囲いとかフレームとか関係なく、もっといろいろの、それこそ人生すべての、すべての世界の、まさにあらゆるいろいろな楽しさや喜びやおかしみや暖かさを総動員して、いろいろ駆使して、それがひろまって、それをみんなが楽しんで、世界がぱーっと明るくなるような、そんな世界をめいいっぱい生きることなんじゃないか、テレビを飛び出して、ネットとかも飛びぬけて、本当にリアルにバラエティな人生を生きた時見えるその輝きが、それが本当の夜明けなんじゃないか。僕が待ちに待った夜明けなんじゃないだろうか。

働く前のうつうつとした23歳の夜明け前に、ADで死にそうだった24歳の夜明け前に、ロケと編集に明け暮れた28歳の夜明け前に、9.11のNYの映像で呆然となった31歳の夜明け前に、660円と600億円で愕然となった35歳の夜明け前に、会社の席が無くなった38歳の夜明け前に、新しい会社を作った39歳の夜明け前に、3.11の震災の日の41歳の夜明け前に、そして今45歳の誕生日を数日過ぎた夜明け前に、この文章を書いています。


夜明け前が、闇は一番深い。そして今の闇は深く暗い漆黒の闇だ。
だとしたら、だからこそ、それこそ夜明けは多分まもなくだ。
今は未来の夜明け前なんだ。

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