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「金曜日にステーキを買った」


 会社帰りに駅を出た所で、心の中の五歳児が「すてーきがたべたい」とつぶやいた。またかと思った。

 最近、スーパーで買いだし中に精肉コーナーを通り過ぎると「あれ、すてーきだ!すてーきたべたい!すてーきー!」ともうなにも我慢したくない五歳児の心がだだをこねる。ひどいときはコーナーの前で地団駄を踏むのでなかなかその場を離れられなくなるのだ。以前なら「おなかは空いてないでしょう。あなたが食べたいのは滅多に食べられないものという概念だよ」と言い聞かせながらなんとか足を引き離すけど、4月から始まった仕事生活に疲れているせいかそんな余裕は次第になくなった。スーパーに行くこと自体もおっくうなくらいだった。

 五歳児の自分が頭の中で「すてーきがたべたい!」と何度も声をあげるせいで他の思考ができなくなる。駅を降りたらコンビニで公共料金の支払いをしたいのに。

 ふとスマホを見ると家族LINE内の妹のコメントに気づいた。同じ一人暮らしの妹なら分かってくれるだろうか。そのまま指を動かし妹の個人LINEにメッセージを送った。

【脳内五歳児が「すてーきたべたい」ってうるさい】

【かわいい】

 脳天気な返事が返ってきた。確かに子供っぽい駄々は他人事な分には可愛いものだけど。

【毎日はまずいけど、甘やかしてあげても良いと思うのー】

 追加のメッセージが自分よりもよほど優しいものだったので思い出した。

 今日は金曜日だ。もうそこまでがんばったんだ。

【そうだね。週末だしね。ちょっと甘やかしてあげるわ】

 メッセージを返して、スマホを鞄にしまう。駅地下に肉屋があったはずだった。

 白トレーの中の赤身肉に20%引きのシールが貼られている。この手の肉を二つほど買って安くたくさん食べるのもいいかとは思ったけれど、それではまた近いうちに五歳児が泣き叫ぶような気が、なんとなくした。

 店の奥のはかり売りのコーナーに移動する。「黒牛」のシールのついた肉がいくつかトレーに乗せられているのをガラス越しに見た。グラムで980円とは書いてあるが目の前のこの小さな肉がそもそも何グラムなのかが分からない。この一番小さそうな肉一つで300グラムもあったらどうしよう、その時点でお手上げだと不安になっていた。

「お好きなものありましたら取り出しましょうか」

 カウンターの向こうから白い帽子をつけた店員が身を乗り出して話しかけてくる。少し慌てた私は、目測なんてあてにならないしと正直に聞いてしまうことにした。

「すみません、これで一番小さいやつは何グラム……いや、何円になりますか」

 店員のお兄さんは頷くとトレーを取り出し、私が見ていた小さなステーキ肉をはかりに乗せた。

「110グラム、1078円ですね」

 それならなんとかなる、それくらいなら出せる。

「ああ、こっちのが小さいかもです」

 安心したところで店員さんが下の方からさらに小さそうなものを取り出した。

「86グラム、843円です」

 少し悩んだ。でも1000円前後なら出そうとは思っていたので。

「110グラムの方をお願いします」

 選んだ肉がビニールに入れられ、値段シールが貼り付けられるのを見つめる。

「ミスジ、お好きなんですか」

 店員さんに話しかけられて、少し戸惑う。ミスジが肉の部位なのか種類なのかすら知らなかったからだ。

「ええと、今日はとにかくお高い肉が食べたかったんです」

 あ、お高いは余計だった気がする。言った後で後悔していると店員さんが少し笑ったのが分かった。

「これは赤身と脂身がちょうど良いバランスで入っていて良い肉だと思います。くれぐれも、弱火で。じっくり焼くといいですよ。ソースもつけておきますね」

 そう言って店員さんは一人分の使い切りステーソースを袋に入れてくれる。ソースもここで買う気でいたからそれはとてもありがたかった。肉一枚にソース一本買うのはどうにももったいない気がしていたからだ。

「ありがとうございます」

 カウンター越しに少し背伸びをしながら紙袋を受け取って、レジへと急いだ。

 塩をかけて、黒こしょうをがりがり削って。両面に焼き色をつけて余熱で仕上げるようにフライパンに蓋をした。チン、とトースターが鳴ったので扉を開く。中のにっこりマークのフライドポテトがうっすらと茶色がかっていて、一応確認しようと箸を入れると中のじゃがいもがほくほくに割れた。つけあわせにぬか漬けにしていたキュウリとなすを切って小皿でちゃぶ台に置き、そこで良い匂いに気づいた。

 フライパンの前で、ガラスの蓋ごしに中をのぞき見る。見た目には良い感じに火が通っている気がした。

 少し口元が緩んだ気がした。五歳児もきゃあきゃあと歓声を上げている気がした。

 そっと皿にもりつけて、ポテトもごとごとと乗せて、蓋の上で袋ごと温めたソースをかける。ナイフとフォークも添えて。

 ちゃぶ台にセッティングして、座布団の上に座る。左手のフォークで肉を押さえて、肉汁があふれるのが怖かったけれど大丈夫なようだった。右手のナイフを動かして、押さえつけないように、ぎざぎざの刃の部分を前後するように切っていく。中は薄いピンク色だった。

 ソースをつけて口元へ運ぶ。舌の上に乗った瞬間、ソースの塩辛さが先に来たので最初はかけない方がよかったのではないかと思った。肉を噛んだ瞬間、噛むというよりその抵抗がなさ過ぎて溶けるようだと思った。そうか肉が溶けるとはこういうことだったらしい。かりっとまぶしていた黒こしょうの欠片が崩れてぴりりと舌がしびれた。脂の感じも舌に広がっていたが、いつまでも留まるようなものではなく意外とあっさりしているなあと思った。とにかく美味しい。とても美味しいものを食べている。そんなふわふわと嬉しい気分でもうひと欠片切りだそうとして、五歳児がなにも言わなくなっているのに気づいた。

 五歳児はそのとき、穏やかに落ち着いていた。

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