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【読書感想】『あの日、松の廊下で』(著・白蔵盈太)

かの有名な江戸時代の大事件にして数多の創作の題材となった「忠臣蔵」。本書の舞台は忠臣蔵ではなく、その事件の発端となった所謂「松の廊下」事件。そして主役は斬られた吉良上野介でも斬った浅野内匠頭でもなく、「殿中でござる!」と浅野内匠頭を取り押さえた実在の人物、梶川与惣兵衛である。

あの前代未聞の事件は、どのような因縁の果てに、何故あのタイミングで発生してしまったのか。唯一人、その真相を知る梶川与惣兵衛が事件を回想する形で物語は進んでいく。松の廊下事件の真相については現在も謎に包まれており、諸説が入り乱れている。本書で示される真相は、「本当はこんな感じだったのかも・・・」という説得力があって面白い。当事者の二人ではなく、浅野内匠頭を取り押さえた男にスポットライトを当てるという発想もユニークだ。

主人公の梶川与惣兵衛は、吉良上野介や浅野内匠頭に比べて格下の下級旗本で、いわば一介の役人に過ぎない。彼から見て、吉良上野介も浅野内匠頭も方向性は違えど、人格的にも仕事に対する姿勢にしても、素晴らしい尊敬すべき上役だった。事件の日は幕府にとって朝廷の接待という最重要な儀礼の日であり、何カ月も前から各部署を巻き込んだ一大プロジェクトとして準備が進められる。その中で、現場を理解しない上層部の無策な人事、文書によるやり取りでの認識のずれ、無能で足ばかり引っ張る老いた上司、言われたことしか出来ない部下・・・プロジェクト内の各所で発生する摩擦が吉良上野介と浅野内匠頭の間に溝を広げ、二人の”方向性の違い”が少しずつ問題となって表面化していく。

実直な人柄と仕事への強い責任感があるがゆえに、梶川与惣兵衛は尊敬する二人の板挟みになって苦悩する。その様が読んでいて何とも痛々しい。心労で彼の胃にいつ大穴が開くのかと心配になる。今現在のビジネスの現場でもありそうな、地獄のような状況だ。自分であったら絶対に経験したくないし、すぐに心が折れるだろう。そのような状況でも、葛藤しながらも二人の間を取り待ちながら責務を全うするために奮戦する与惣兵衛にとても好感がもてる。自然と応援したくなる。

自分は、目立たないが縁の下の力持ちとして裏方で組織を支えているような、中間管理職的な苦労人の雰囲気を醸し出しているキャラクターが好きだ。その手のキャラクターに共感するものがあるのか、もしくはそういう人達にスポットライトが当たることを、真っ当に報われることを願っているのかもしれない。とにかく梶川与惣兵衛に感情移入しながら読み進めてしまった。

与惣兵衛だけではなく、吉良上野介も浅野内匠頭も素晴らしい人達として描かれている。だからこそ、読み進めていくうちに心がざわついていく。各々が良かれと思ってプロジェクト成功のために邁進していたはずなのに、何故松の廊下事件という破滅へと向かってしまったのか。すべてが終わってしまった後で語る、与惣兵衛の「もう一度あの日に戻ってやり直したい」という慟哭のような台詞が心に残る。

松の廊下事件の解釈の一つとして、ビジネス小説として、そして大組織の片隅で働く一人の男の数奇な運命を描いた小説として、とても楽しめる歴史小説だった。


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