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【鎌倉殿通信・第8回】北条義時の親・兄弟姉妹

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条一族が大活躍していますね。今回は主人公・北条義時の家族を紹介します。

義時の父は、北条氏を率いる時政。伊豆の在庁官人(国衙こくがの行政実務を担当する役人)を務めています。母は伊東祐親すけちかの娘と考えられています。残念ながら、母親については史料にみえず、出産後ほどなくして亡くなったのかもしれません。

兄の宗時・姉の政子・妹の阿波局あわのつぼねは、義時と同じ母を持つと考えられます。宗時の生年は未詳ですが、父親の時政が20歳の時に政子、16歳で義時が誕生していることから、政子との年齢差は少なく、義時とは10も離れていないでしょう。宗時は北条氏の家督を継ぐ嫡男として遇されていたと考えられますが、石橋山の戦いで戦死してしまいます。

政子は、義時の6歳年長で、源頼朝との間に二男二女をもうけますが、子どもにも夫にも先立たれます。頼朝亡き後の鎌倉幕府を義時と共に運営し、源氏将軍が途絶えると尼将軍として采配を振るいました。義時死去の翌年、義時の墓所の造営や甥・泰時の執権しっけん就任を見届けて亡くなっています。

阿波局は生年未詳です。頼朝の弟・阿野全成あのぜんじょうに嫁して甥・実朝の乳母めのととなっています。後に2代鎌倉殿頼家から夫が謀反の疑いをかけられた際、彼女の身にも危険が及びましたが、政子の護により事なきを得ました。政子や義時との関係は良好でしたが、夫は頼家の命を受けた八田知家はったともいえに殺され、養君やしないぎみの実朝も暗殺されました。1227年に亡くなり、甥の泰時が喪に服しています。

弟の時房は、義時の12歳年下で、母は足立遠元とおもとの娘と考えられます。頼家の蹴鞠けまりの相手を務めるなど、京文化に通じていました。承久の乱の際には、泰時とともに東海道の大将として参戦。戦後処理にあたり、六波羅探題ろくはらたんだいとなりました。その後、鎌倉に戻り、父・義時に代わって執権となった泰時を連署として支え、幕府内に重きを成しました。

さらに、継母の牧の方がいます。牧の方は貴族の出身で、頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼いけのぜんにの姪にあたります。時政は貴族社会の事情に明るく、京都に人脈をもつ女性を後妻として迎えたのです。年齢は未詳ですが、政子と同世代の女性であったと推測されます。時政との間に。政範まさのり・平賀朝雅ともまさの妻・坊門忠清ぼうもんただきよの妻ら多くの子女を儲けました。武士だけでなく、京都の貴族に嫁した女性もおり、彼女たちの中には、義時や政子の亡くなる前後に、見舞いのため鎌倉に下向した者もいます。異母兄妹ではありますが、時政と牧の方が失脚し鎌倉を追われた後も、関係は途切れていなかったのでしょう。なお、牧の方は、時政の一三回忌供養を京都で盛大に行い、娘や孫娘とともに天王寺や東大寺を参詣しています。

今回紹介した人物全員が登場するかは分かりませんが、義時の家族にも注目しながら、ドラマを楽しんでください。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら令和4年4月1日号)