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スリランカ・ニゴンボの魚市場で出会う、生と死とその中間

舗装されていない道を自転車で走ること約30分、ようやく港に着いた。
前を走るバスや車、バイクから出ている白い排ガスを浴び続けたせいで、目がひどく染みる。

道路では、獣のように強い意志を持ち、目的地までまっすぐ駆けていく現地の人々の車やバイクの前では、私の自転車なんて食物連鎖の下位の下位に位置することになる。自転車スレスレを轟音と共に駆け抜けていくので何度も肝が冷える場面はあったが、私が出来るのは「お願いだから轢かないで欲しい」と心の中で祈ること、そして目的地まで自転車の錆びたペダルを一心不乱に漕ぐことのみだ。

船から上がってくる魚を待っている現地の人々

目的地である港のFish Marketは、人でいっぱいだった。ラッカディブ海ん面せいたスリランカ西部の港町・ニゴンボで一番大きなこの市場には、午前中から正午にかけて水揚げされた新鮮な魚を求めて多くの人が集まる。

市場にはこれまで嗅いだことがないほど強烈な生臭い魚の匂いが広がっていた。生臭い海の臭いや血の臭い、人の体臭や湿気に静かに圧倒されつつ、人混みをかき分け海の方まで歩いていく。

私は海を見ると毎度ホッとする思いがするのだが、ニゴンボの限りなくグレー色に近い海を見ているとどこか不安な気持ちが湧いてきた。ここのカラスの群れはなぜか皆甲高い声で鳴いており、その光景はヒッチコックの映画『鳥』を連想させた。

ふと浮かんだ心のざわめきを頭の中で振り切り、砂浜を歩いていると向こうの方に、キラキラした大きな絨毯のような光るものが何枚も見えた。深い砂に足を取られつつ、一歩ずつ近づいてみる。

近くで見てみると、光っているように見えたのは魚の干物達であった。砂浜の上、あたり一面に並んだゴザの上で、何百、何千、いや何万匹といった魚の死骸がずらりと隙間なく並べられている。その光景には死特有のどこか哀愁のようなものも漂っていた。

みんな揃って少ない日光を全身に受け、完全にその身が渇いてカラカラになるのを待っている。彼らはその時が来るまで、ここに大人しく並んでいるのだ。

現地の女性達がゴザにせっせと新しい魚を並べている横で、痩せ細ったカラスやサギが干物をつつき、薄汚れた野良犬はもう力が出ないといった様子で倒れている。そこには無数の死と生、そしてその中間があった。

勿論、日本では可愛がられることの多い猫達にも人間は構っていられない。今にも餓死しそうな犬や猫が倒れていても、別に誰も見向きもしないのだ。

それは当たり前だろう、ここの港には人間が生きていくための、海の生活と営み、市場があるのみ。ただ、それだけだ。

そこにある潔さと、言わば "どうしようもなさ"、そして「今そんな環境の中にいる自分」にどこか心地良い気持ちがしてしまうのは、私があくまでこの異国にお邪魔している第三者でしかなく、自己中心的な冷たい偽善者で、好奇心でしか物を見れない人間であるからなのだろう。旅先でも私はふとそういうことを考えて、自分自身に心底うんざりしてしまう。

ここスリランカでは、2022年の外資不足によって経済危機が起こり、一般市民の生活は以前よりも苦しくなっていると言う。確かに今回の旅で出会った現地の人の多くが「生活が苦しい」「税金の高騰がひどい」などと話していた。職を失った人も多い今、町中にも観光客を騙してお金を稼ごうとする人も増している状況で、ニゴンボの港にもその影が伺える。

市場エリアでは、水揚げされたばかりの魚の取引が進んでいた。最後の力を振り絞り微かにその身体を動かしている魚たちは、潔い包丁の入刀とともにその動きを一切に失う。机から落ちていく血は、全体的にグレー色をしたニゴンボの港の中で、一番鮮やかで絶対的な力を持った美しい紅だった。

ふと自分のTシャツの匂いを嗅ぐと、排ガスや魚たちの酸っぱく生臭い匂いや疲れがじっとりと重く染み込んでいる。一瞬すれ違った西洋人が、現地のツアーガイドに「Here smells good, I like it.」と言っている声が聞こえ、心の中で嘘だろと毒づきながら、再び人混みをすり抜けていく。

スリランカは湿気が多いので、少し外で活動をしているだけで上着まで汗でぐしょぐしょになってしまう。毎度パンツも絞れば水滴が落ちるのではないかといった具合だ。滴る汗を拭いながら自転車を停めた場所に戻る途中で、ふと唐突なぬかるみに足を取られ、足首まで濃いグレー色をしたヘドロがまとわりつく。まあいい、その内乾いて自然と町並みの中に剥がれ落ちていくだろう。

汗とヘドロまみれになった全身を引き摺りながら、私はまた自転車にまたがり港を後にした。

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