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玉虫厨子・捨身飼虎に思う/追記24/3/7自己犠牲の寓話の破綻


国立博物館のレプリカ


捨身飼虎

日本人は仏教をどう受け止めたのか。理解というだけでなく、その感性を追体験できるか。

亀井水について調査を続けていて、四天王寺創建は、聖徳太子だけではなく、推古天皇の役割も大きかったと、考えています。

推古天皇の御持物であった、玉虫厨子から、何が感じられるのか。

無数の玉虫の羽をもぎって装飾したという話は、無慈悲なことです。しかし、人間はたえず他の命を利用して生きるしかない。あえて無慈悲を意識する方便かもしれません。権力を行使する立場の愚昧を、厨子の内部の光にこめる。

そして、両側面に描かれた、二つの、自己犠牲の寓話。特に、捨身飼虎図は、救いのない物語です。

若いころ、宮沢賢治に強くひかれました。特に、よだかの星、は美しい自己犠牲の詩編と受け止めていました。さねとうあきら、という劇作家と仕事をさせていただくようになり、彼が怒りをこめて、よだかの星を語るのは、衝撃でした。

よだかは醜い鳥です。なんてひどい書き出しなんだ。いじめられ、自殺する話のどこがいいんだ。

宮沢賢治は自己犠牲の話を書き続けました。病的な性癖と批判されれば、確かにそうです。

自己犠牲、それは表面的な仏教理解にすぎない。

無数の玉虫の羽をもぎって作られた、グロテスクな光。

この厨子を礼拝しながら、推古天皇と聖徳太子は、何を感じていたのでしょう。


飛騨の匠によるレプリカ

推古天皇御物、玉虫厨子、飛騨の工匠による近年のレプリカ。捨身飼虎図。


輪廻転生は、インドの民間信仰で、仏教本来の思想ではないことは、広く知られています。

似て非なる言葉かもしれませんが、食物連鎖、という現実認識は、仏教にとり重要なものではないかと、考えています。

私は、幼児期に屠殺場で見せられた、一頭の牛を一撃で殺し解体してゆく、緊張した時間の記憶に、生涯怯えてきました。答えは、安易に答えてはいけない、という自戒です。

捨身飼虎、というのは、釈迦の前世の物語として語られた一幕です。ですから、釈迦が仏陀になる以前の、迷いの姿であり、自己犠牲を賛美するものではありません。


人間を食うのは、猛獣ばかりではありません。病原性の、寄生虫、細菌、ウィルス、といった極小の生物も、食物連鎖の一環でしょう。

風葬、という習慣が日本にもありました。

川の上流の谷、初瀬、長谷、と呼ばれる場所は、遺体を放置し、野生の動物や虫、細菌により、食われることで、自然のふところに還る、という信仰の場でした。

細菌、ウィルスは宿主を殺してしまうと、自らも死滅する。だから、多くは共生というバランスをとります。水虫の研究者によれば、白癬菌は、共生になりかけて、まだ失敗している、進化途上の菌だそうです。やがて、共生すると、他の病原菌の感染を防いでくれるようになる。研究者は、白癬菌にもロマンを抱くんだと、感動しました。


人間は、食物連鎖の頂点に立つ、勝利者か。

否、です。断じて、否。

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