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❸ 国語1英語1だった私が50歳でニューヨークのコミュニティーカレッジを卒業し、現地採用された私が英語で日本語を教えるまでの道のり。

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 公民館のフランス語教室にいた生徒は老夫婦一組、アメリカ人のご主人を持つ中年女性二人、このクラスの主催者である人はかなり年齢を重ねたご婦人、麻布でスナックを経営している私と同年代の女性、定年退職したご婦人二人。
私には後がない、英語がダメなのだからフランス語で挽回しないと!という無茶な意地があった。
アメリカ人のおばさんに習っているときはテキストなしでとにかく会話重視の学習スタイルだった。しかも、素人の上に日本語は話せない人に習っていたのだから今思えば効率が悪すぎる学習方法だったと思う。それに比べて公民館ではちゃんとテキストを使い、インストラクターは日本語で教えてくれる。とっても解りやすい。そして、私はかなり必死で勉強した。仕事に行く前早起きして、自習をしてからヘアサロンに行っていた。公民館に行くと、学生の時では考えられなかったことだが、積極的に発言し、インストラクターに褒められ、他の生徒さんからもちょっと尊敬の眼差しで見られる快感を知った。

 27歳の時、自動車免許の更新に行った。新しい免許証をまじまじと見る。
「次の更新は30歳の時かぁ。」
56歳の私からみれば30歳なんて、まだまだ全然若い。20代から30歳になるからといって別段大騒ぎする事でもないが当時の私は
「30歳になる前に何かを成し遂げたい!」
と漠然と思ってしまった。
そして29歳の時一年間のフランス留学に行く事を本当に深く考えもせず決めてしまった。場所はペルピニャン。理由は生活費が安い事。と、フランス一日照時間が長い事。人口が14万の田舎町でフランス語クラスは国立大学の附属しかなく、授業料は半年で7万5千円だった。アパートはワンベットルームで3万円。当時の通貨はフラン。そして円が強かったので、エスプレッソが一杯50円位だったと記憶している。1997年。

 初登校日はクラス分けのテストがあった。そして私には良い点を取る自信もあった。しかし私の考えは甘かった。テストの質問がフランス語だったのである。分からなかった。もう全敗である。出鼻をバッシッと思いっきり強く殴られた感満載。勿論クラス分けの結果は「débutant」一番下のクラスである。


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