見出し画像

短歌を詠んだら本当の自分がバレてしまいました

きのうは短歌の歌会だった。そこでなんていうか、わたしの短歌は本当にバッサリと斬られてしまいました。よよよ。
どういうことかっていうと、やっぱいい感じのとこと微妙な感じのとこがあるのが人間てやつじゃあないですか。でも、なんか自分の微妙なとこって自分で気づいてるようで実は気づいてない。わたしはそれと気づかずに「実は自分ってものすご深くものを考えているよ」みたいな短歌を書いて出しちゃったんですよね。短歌は作者名を隠してみんなが率直に講評するものなんで、「うーん、この短歌のこの部分、なんかいやだな」「わたしって熟慮する人なんで、というのが見えちゃってる短歌なんよね」…というふうに評してもらった。それを聞いたときわたしは「いや、そこまではわたし言ってないっすよ!」と反射的に思ったけど、作者は最後の最後までバラさないルールなんでちょっとしらばっくれて「うーん」「うーん」と唸っているだけだったのですよ。
そうして次から次へとみんなで和やかに歌を講評していって、最後の最後、時間がなくなって弁解する時間とかなかったよ笑それで、みなさんに笑顔でバイバイして別れたっす。

車を運転しながら思った…その通りです。「この道」で言えば「ああ、そうだよ」だな(関係ないか)。短歌に自分のいやなところが出てしまうまで正直この50年ちょい、自分でぜんぜん気づかなかった。それはうまくは言えんけど「わたしって考えが深い人なんだぜ」みたいに思っててそれを実は人に言いたいところだ。それに気づけたのは、これからのわたしの人生において収穫だったのではないか。
そして、講評されたのは短歌であってわたしじゃあないのだ。ストレートに言い合うからこそ貴重な歌会の場で、こういう「やられた…」みたいな気持ちを潔く受け入れ、オレは次に進むのだ。いや、オレの短歌は成長するのだ。とも思ったな。
その後こわくなった。この頃わたしはやたらこうやってnoteを書いてしまっている。自分で色々書いてると思いつつ、自分では気づかない言葉にならない思いまでばらしちゃっているようなものだ。バレてる。それって大丈夫なのか?とか思うと書くのがこわいかなと思ったり。
そやけどさ、自分を出さずになんか、生きていけないじゃん。例えば短歌せんかったら「斬られました…」みたいな気分になることもないんかもしれんけど、それでも毎月歌を持っていきたいなってなるのは、そういうふうに歯に衣着せぬ解釈が本当はわたしにとって大切だからだ。
あと、斬られるのイヤやけん次はウソで短歌書こうかなとも思ったよ笑。短歌ってフィクションだから、現実を書かなくてもいいのだ。自分から出た短歌だけど、自分から切り離すことも大事なんよなー。そうすればさ「オレの大事な短歌をそんなふうに言われた!!→オレのこと酷く言ってからもう、ぷんぷん」みたいな思考回路に陥らずに済むよな。短歌は短歌、オレはオレだ。

作品には否応なしに自分が出る。でも自分は作品じゃないから、どう評されても気にすんな。そうして羽ばたいてゆけ!!普通にしてろ。みたいな感じ。
そしてわたしは自分が入ってる歌会が大好きだ。現代であんな本音の場はなかなかないと思う。関わり合いをちゃんと作った中で、本音を言うのは大事。ありがとっすみんな。

あ、やば、出かける時間。今日は今から仕事に行ってくるよ!

※写真はなぜかコンビニに飾られていたガンプラです(本文と全然かんけいない笑)

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。いただいたサポートを糧に、学んだり動いたりして、よりよいものを書いていきたいと思います。これまでサポートしてくださった方にも、この場を借りてお礼申し上げたいです。本当にありがとうございました!