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花虹源氏覚書~第一帖桐壺(二)

昔々その昔、帝の御子に光君と呼ばれるお方がおられました。
源の姓を賜り臣下となられましたが、三人のお子様は、お一人は帝にお一人は皇后にお一人は人臣の位を極められたそうな。
そのお血筋の末の末、とある姫さまに教育係の女房が語る源氏の君の物語
第一話はこちら

むかしがたりをいたしましょう

桐壺更衣は、御祈祷の甲斐もなく宮中を下がったその日の夜更けにこの世を去りました

―――愛があってもめでたしめでたし、にはならなかったのね。
   教えて、それからどうなったの?

若宮はまだ幼く、母君が亡くなられたことはよくお分かりではございません
しかし、父君はじめ周りのものの嘆き騒ぐ様が尋常ではないので、ただならぬことが起こったと察し、心細げなさまが哀れでございます

大切にかしづき愛しんだ娘に先立たれた母君の嘆き惑う様はまた格別でございました
当時のならわしで、野辺の送りに親はついてまいりませぬ
ところが、娘御と別れがたき母君は葬送の場まで付き添い「娘とともに火葬の煙となって空にのぼってしまいたい」とそれは大層なお嘆きで、お側のものたちを困惑させておられたとか

帝は、愛しいひとを「女御」と呼ぶことができなかったのが心残りでせめても、と女御と同等の位である従三位を遺贈しました
この破格の待遇は、やはり多くの方々の心を波立たせることになったのです

亡き更衣の美しさや控えめで穏やかなご気性、情愛のある心ばえを懐かしみ、追悼する者たちも多くあったようですが、帝のご寵愛が目に余るものであったため、妬まれ、批判され、お味方となるものがなかったのはお気の毒なことでございました

―――本当にお気の毒だわ。
   教えて、それからどうなったの?遺された若宮は?

亡き人を弔う七日ごとの仏事を重ね、日々はむなしく過ぎゆきます

帝の悲しみは癒えることなく、何をする気力もなく、他のきさきがたをお側に召すこともなさいません

季節は移ろい、ただただ涙に濡れ、露に濡れる秋となりました

帝のお嘆きの深さを見るにつけ、弘徽殿女御は「亡くなった後までも帝のお心を悩ませる女よ」と桐壺更衣のことを腹立たしくお思いになります
帝は、女御の御子である第一皇子とお会いになっているときでさえ「あの可愛い幼い皇子はどうしているだろうか」などと上の空なのですから無理もありません
 
帝は、度々桐壷更衣のお里である二条邸に腹心の女房達を送り、若宮の様子を尋ねさせていらっしゃいます

とある激しい風が吹き荒れた後の肌寒い夕べ、野分のわきのお見舞いも兼ねて靫負命婦ゆげいのみょうぶをお使いに出しました

靫負命婦を送り出したのち、帝は物思いにふけります
野分の後の月影も清かなる宵、このような風情のある折には、更衣をお側に寄せて管弦や詩歌などの遊びをしたものでした

白い手で掻き鳴らされた妙なる調べ
ささやき交わした趣深い言の葉
今もなおありありと浮かぶたおやかな面影は手を触れることかなわぬ幻
たとえ顔も見られぬ真の闇の中であったとしても、命の通う姿でそこにいてほしい、癒えぬ苦しみは帝の御心を苛むのでした

―――亡くなった方とは、どんなに望んでも会えないものね、帝もお気の毒だわ。
   教えて、更衣の母君と若宮のご様子は?
           靫負命婦は二条邸でどうしたの?

二条邸は、宮中よりもさらに深い闇の底にありました
入内した娘が恥をかかぬように、と大納言亡き後も常に手を入れて綺麗にとりつくろっておりましたのに見る影もありません

庭の伸び放題に生い茂った草は暴しい風になぎ倒され濡れそぼち、月の光ばかりが冴え冴えと差しこんでいます

庭の姿は主の姿にございます
母君のご悲嘆のほど、そのおいたわしさは、朋輩から聞いていた通りだこと、そう思いながら命婦は帝のご様子を伝え御文をお渡ししました

帝は、若宮と母君の参内を望んでおられるのです

御文に曰く

時がたてばすこしはこの辛さも紛れるかと月日を過ごしてきたが、この痛みがまったく薄れないのはどうしたことか
悪い夢であれば覚めることもできようが、現実とあっては覚めることすらできないつらさが耐え難い
そのつらさを分け合えるものは更衣の母であるそなたの他にいない
寂しく暮らしているであろう幼い吾子のことも心にかかっている
若宮は朕にとってもそなたにとってもいとしい人の大切な忘れ形見だ
ともに育むためにも二人とも宮中にまいらぬか

宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩が本を思ひこそやれ

―――野分の風は草木に露を結ぶ。そんな風の音を宮中で聞いていると、小萩のような若宮はどうしているかと露のような涙があふれてくる
    お歌の意味は、こんなところかしら。
   帝は、更衣の忘れ形見の若宮に会いたいのね。
   教えて、母君は、どのようにお答えになったの?

若宮は父君を慕い宮中に戻りたいとお望みですし、若宮の行く末を考えても帝の庇護は欠かせませぬから、しかるべき時期に、とお答えになりました

しかし、母君ご自身は、御夫君も娘御にも先立たれた不吉の身で宮中に参内するのは、はばかりがあるとのお考えでおられます
若宮が宮中に参る時は大切な孫君との別れのとき
そう思うと帝のお誘いがうらめしくもあるのです

いとまを告げる命婦を引き留めて、母君は語り足りぬご様子です
繰り言が縷々るるとして尽きぬのは、子を思う心の闇というものでございましょう

―――心の闇。それは何?母君はどのようなことを語ったの?

母君は、娘御を入内させたことがはたして正しかったのか、答えの出ぬ問いに惑っておられたのでございましょう

故大納言は、心に期するものがあり、娘が生れたときからこの姫を入内させると決めて大切にお育てなさいました

その本意を遂げる前に亡くなりましたが、今際の際まで、自分が亡くなったとしても志を捨てるな、必ず入内させよと強く言い遺したのでございます

母君は、後見のない身では…、とためらいながらも、亡き夫の悲願をかなえたい一心で入内を果たし、精一杯女手で後見をつとめてまいりました

帝のありがたいご寵愛を受けたものの、かばってくれるもののない身のかなしさ、まともに妬み嫉みを受けることになり挙句の果てに寿命を縮めてしまうことになりました
いっそ帝のご寵愛なぞ受けなければよかったのか、とまで思われているのです

―――ねえ、教えて。なぜ父君の大納言はそんなに入内させたがったの?
   入内ってそんなに良いものかしら?

大切に育てた美しく賢い姫を入内させてきさきとなし、帝のご寵愛をいただいて皇子をもうけ、その皇子が帝位につくこと、これは多くの臣が望むことでございます

帝は、天津神の末にあらせられる尊い御身
されど、帝といえども人の子、母御の御腹からお生まれなさいます。
その母御がどの家門の姫であるかでまつりごとの潮目がかわるのでございます

この国の政は、帝を中心として朝臣たちが集い協議して行われます

政に携わるものであれば、誰しも、この国は如何にあるべきかの理想を掲げ実現のための策を心にあたためておるものです

しかれども、一つの策には光と影があるのが世の常
光をみて良しとするものあれば、影をみて否とするものもあり、朝議をまとめ自身の策を通すことは仮に大臣の地位を得たとしても難しいものにございます

その中で帝の御言葉には千金の重みがございます
幼い帝に代わり全ての政を掌る摂政、帝を補佐し百官を総て政をとりおこなう関白の地位にあれば、帝と近しく語らい、自らの策を帝の御意志として通すこともできましょう

―――自分の孫を帝にして好きなように政を行いたい、そういうことかしら?

帝をお支えするのは朝臣の使命でございます
しかし、その尊き帝がご自身の愛しき孫君と思えば、その御代を安らかに平らかにと心の底から精励いたしましょう
自らの栄達と民草の安寧が同時に得られるのであればそれはそれで悪いことではありますまい

―——なるほどね、わかったわ。
   大納言は、落ち目の家門再興の望みを姫の入内にかけたということなのね
   では、ご寵愛を受けて皇子を授かったのは、願いが叶ったということでしょう。
   でも、それがかえって大切な娘の命を縮めてしまったのでは、つらいわね。

母御の心の闇は深うございます
語りは尽きず、涙は尽きず、夜も更けました

月は西に傾き
空は清らかに澄みわたり
風は涼しく
草むらの虫の声は誘いかけるように鳴き交わし
立ち去るのがためらわれるような風情です

 鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな

命婦は母君にご挨拶の歌をおくり、名残を惜しみつつ二条邸を後にしました

―——鈴虫が鈴をふるように秋の長い夜を通して声の限りに鳴いております それと同じように私の涙の雨もふりやみません。
 聞くも涙、語るも涙。お見舞いのお使いも心が重いわ。宮中に戻った命婦はどうしたの?遅くなって帝に怒られたかしら

夜も更けておりましたが、帝は、心安い数名の女房と静かに語らっておられました
待ちかねたように、文使いから戻った命婦に二条邸の様子をこまやかにお尋ねになります

母君からのお返事の文には、帝への返歌がしたためられてありました

 荒き風ふせぎし蔭の枯れしより小萩がうへぞ静心なき

―——激しい風を防いでいた蔭が枯れてしまったので、小さな萩は翻弄されて頼りなく震えております、母である更衣が亡くなり頼るもののない若宮の身の上が心配ですというところかしら。
   父君である帝に守ってほしい、というおばあさまの願いね。

帝は、更衣の入内にかけた大納言夫妻の並々ならぬ決意を知り、また、若宮の行く末を心にかける母君の気持ちに報いてやりたいとお思いになります
「若宮の成長を頼みに長生きするがよい」と仰せになりました

さて、風の音、虫の声、何を見てもきいても鬱々と心沈む帝の耳に、弘徽殿から管弦の音が聞こえて参ります
月の美しい今宵、弘徽殿女御は人を集めて夜更けまで管弦の遊びを催しているのです

帝は、なんとも不愉快なことだと苦々しく思っていらっしゃいます。
近習のものたちも帝の胸のうちを慮り、気まずく弘徽殿のさんざめきを聞くのでした

月もさらに西に傾き山の端に入りました
帝は、寝所に入ってもまどろむことすらできず、眠れないから朝起きることもできず、朝政を取る気にもなれません
お召し上がりものもほとんど口になさりません

帝のお側近く仕えるものは嘆息し、「主上は即位以来、誠実に勤めてこられたのに、更衣への傾倒の甚だしさは則を超えて道理を失ってしまわれる。とうとう、政を軽んずるようなことをなさるとは」と、またもや玄宗皇帝の故事を引き合いに出してさわさわと噂するのでした

―——ひとりの女性を一途に思うのはともかく、政をおろそかにしたら、それは批判されてもしかたないわ。
  弘徽殿女御は、なぜ帝のお耳に入るのが分かっていて管弦の遊びなどなさったのかしら?目障りな桐壺更衣がいなくなって清々したということ?

そのようにことさらに悪めかした物言いは、外ではお控えくださいますように

さて、弘徽殿女御の心に桐壷更衣への憎しみがなかったとは申しませぬ
女としての誇り、母としての誇りを踏みにじられておりますゆえ

それ以上に、弘徽殿女御は右大臣家の家門を背負った姫であったということでございます

宮中で行われる詩歌や管弦の催しはただの風流のお遊びではございませぬ
人と人、その間柄をなだらかにつなぎ、情報を集め、有力者の意向をそれとなく探りあらかじめすりあわせることでつつがなく朝議が進むのでございます

右大臣の一派に連なるものたちの連携を密におこない、他の家門のものたちを牽制する宴を催したのでございましょう

殿上人の関心は、いまだ定められていない東宮位にあります
弘徽殿女御の催した遊びに多くの人が集ったということは、暗に第一皇子を東宮に推すものたちが多いということ

数多あるきさきのひとりが亡くなったからといって、宮中がいつまでも大仰に喪に服すことがあろうか、と帝の態度を批判し、第一皇子を東宮に推すものたちはこれだけいる、帝の愛する第二皇子を擁立するものはありや、と弘徽殿女御の帝への示威ともとれる管弦の響きでございました

―――ああ、それで帝は心が折れてすべてを投げ出したくなった、と。
   弘徽殿女御との仲もますますこじれてしまわれたわね。

弘徽殿女御はご自身の意見をはっきりとお示しになる方でした
才気もあり、権勢家にお生まれでございますから、自らの正しさを疑わず、周りの人の思いなど歯牙にもかけぬところがおありです
ご自身の振舞が帝の目にどのように映るかのご配慮に欠けていた点は否めません

帝は、桐壷の更衣の花にも鳥にもたとえられる麗しい容姿もさることながら、可憐で親しみやすいまろやかなお人柄を懐かしんでおいででございました

―――女は余計なことを言わずニコニコしてうなずいていればよいということ?
   そんなのつまらないわ

さあ、どうでございましょうか
これからむかしがたりにて、数多の女人の話をいたします。
姫さまは長じてどのような女人になりたいのか、ご自身の頭と心で、とっくりとお考え下さいませ

続く

岩波文庫源氏物語(一) 10ページから19ページ
見出し画像は「週刊絵巻で楽しむ源氏物語一桐壺」より

花虹源氏覚書についてはこちらをご覧ください


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