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【雑記R6】4/9 歌え奏でよ のびやかに「映画ドラえもん のび太の地球交響曲」

春の女神は俊足で駆け去って、若葉滴る四月、入学式を終え新たな生活が始まりました。
その直前の春休み、さるちゃん(娘)とその友人たちを連れてドラえもん映画を観てきました。


【あらすじ】

学校の音楽会のためにリコーダーの練習をしていたのび太が出会った歌の上手な長い三つ編みの少女・ミッカ。
ミッカに誘われて、音楽がエネルギーとなる不思議な惑星ムシーカから来た人工衛星のような<ファーレの殿堂>に足を踏み入れたドラえもんご一行。

廃墟となっていた<ファーレの殿堂>を蘇らせるためには、音楽の達人が必要ということで、秘密道具「音楽家ライセンス」を使ってそれぞれに向いた楽器を選び、演奏を重ねることで腕をあげていきます。それにともなって少しずつ息を吹き返すファーレの殿堂。
地球の著名音楽家に似たロボットたちも再び復活しました。

その頃、世界から音楽を消してしまうアメーバのような不気味な生命体が地球を狙ってあらわれました。
迎え撃つのはロボットたちの楽団とのび太たち。音楽での戦いの行方は、さあ如何に。

【音楽とは何かを考えた】

映画の良し悪しは、私にはよく分かりませんが、音で繰り広げられる絵巻物、映像と楽しむコンサートのように楽しみました。

クライマックスのファーレの殿堂の楽団とのび太たちの演奏もよかったですが、私は冒頭の、原始の時代の笛の音から始まり、古代の壺や壁画などに描かれた歌い奏でる人々の姿をたどっていく場面が美しく、印象に残っています。

音楽とは何か。
神々に捧げる祈りであり、英雄を讃え、友を寿ぎ、愛を伝え、死者を悼むetc.
音楽は 人の心を音で語るものであり、それは他者(神、動植物、人、死者)に想いを伝えるものだ、そんな映画の主題を示す幕開けでした。

映画の中で「音楽」とは、歌や楽器などに限定されるものではなくて、人の暮らしの中で発せられる音からも生まれてくるものとして描かれていました。
たとえば、町の雑踏の音、ドアベルの音、包丁で野菜を切る音、新聞をめくる音、はたまたトイレの水音まで、それらすべてで「社会」という交響曲を奏でているのだ、と「音楽」の概念の再発見につながりました。

そして「社会」という交響曲、すなわち、人と人の織りなす関係をより良いものにするためには「のび太のノの音」のような存在が必要ということも示されていたように思います。

「のび太のノの音」とは、クラスで練習しているリコーダーで、のび太のリコーダーが奏でる突飛に外れた「ド」の音をジャイアンやスネ夫に「のんびりのんきなのび太のノ」と揶揄された音のことです。

このおとぼけたノの音が物語の中で重要な役割を果たすのです。

のび太も「みんなと一緒に演奏したい」と練習を重ねて上達していきます。
その努力も周囲との協調も大切ですが「みんなと一緒でない音」もこの世界には必要だということでしょう。

すべてが調和がとれ一糸乱れぬ演奏のような社会、完璧な社会を求めるということは、少しでも遅れや緩みといった逸脱を許さぬ窮屈な社会です。

今、人が人の過ちを許さない、寛容性が極端に失われた社会になってきています。

ルールは守らなければならない
人に迷惑をかけるマナー違反はしてはいけない
日々新たなハラスメントが生まれてきて、うっかり口もきけない 

ひとつひとつは、お説ごもっとも、非の打ち所のない正論で否定はできないのですが、これらがすべて積み重なると息苦しいことこのうえない。

祖母はよく「他人様のことは片眼をつぶって見なさい」と言っていました。
お互い様なんだから多少の欠点をいちいちあげつらわないように、ということですが、こういうのも人の世を生きる知恵の一つだと思います。(もちろん、契約など取引をする場合は両目を見開いてしっかりみましょう)

脱線しましたが、私たちの社会は、少し外れた音もまるごと内包することでより豊潤で生きやすい社会になるということなのだと思います。

娘を含む三人の少女たちは、時に顔を見合わせたり肘でつつきあったりしながら夢中になって大画面を見つめていました。
この子たちが社会に出るときには、もう少し人が人にやさしい社会になってほしい、「のび太のノの音」が伸びやかに響く社会であってほしい、と願っています。

【音楽のない世界とは】

この映画の中で、のび太の言葉足らずとドラえもんの不思議道具が招いた「音楽がない」状態と宇宙空間に放り出されて感じる「音がない」状態の場面がありました。

「音楽が無い」と「音が無い」とは似て非なるもの

もし仮に、この地球上からすべての生き物が死に絶えたとしても、宇宙空間のように「音が無い」ということにはなりません。
命無き地球でも 波はささやき、風は吠え、大地は鳴動し、絶えず様々な音がしているはずです。
しかし、そこには「音楽」は失われているのでしょう。

「音」があってもそれを聴く(感じる)生き物がいなければ、それはもはやなんの意味をもちません。

捕食者の接近を仲間に知らせる足踏みの音、スズメバチが縄張りに近づくものへ発する警告の音、親と子が再会するための符号のようなペンギンの鳴き声・・・

発するものがあり、それを受けとめるものがあって、ただの音は「音楽」となる。
人の音楽が社会の中で響き合うように、生き物たちの音楽も生態系のなかで響き合っています。
今、人とそれ以外の生き物の間では不協和音が目立ちますが、この地球が「音楽の無い星」に成り下がってしまわないようにしなければ、そんなことも考えさせられました。

【これからも当たり前に音楽を楽しめますように】

映画の最後に、のび太たちが学校でリコーダーの演奏会を開き保護者がそれを聴いている場面がありました。
誰にでも経験があるようなごく当たり前の光景ですが、それが必ずしも当たり前でないことを今の私たちは知っています。

卒業後、学校用品の整理をしていたかめくん(息子)が「これ、全く使わなかったんだけど」と三年前に買ったままのアルトリコーダーを持ってきました。
入学式もままならないコロナ禍に中学校に入学し、飛沫感染を恐れ校歌の練習すらはばかられた日々。
リコーダーも息を吹き込んで奏でるという性質上、一度も授業で扱われることはなかったようです。
「みんなで音楽するって楽しいね(Byミッカ)」の機会を失ってしまった子供たちも、出番のなかったリコーダーも無念だったことでしょう。

感染症でも災害でも、当たり前の日常はあっけないほど簡単に失われてしまいます。
当たり前が当たり前にあることに感謝しつつ、今もなお日常を取り戻せずにいる方々に思いを寄せています。

4月、新しい学校、新しい職場、新しい立場に変わる方も多い季節です。
どんな立場であれ、全く一人で存在しているわけではなくて多くの人々との関係の中にあります。

最初はぎこちない演奏も、気になる不協和音もあると思いますが、その場でそのときでしか生まれない「交響曲」をのびのびと奏でていけますように祈りを込めて。

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