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上町しぜんの国保育園 園内勉強会03

上町しぜんの国保育園の阿部です。
いつもアーカイブを読んでいただき、ありがとうございます。

今回、第3回園内勉強会では、白梅学園大学附属白梅幼稚園の西井宏之さんをゲストにお迎えしました。

◎テーマ
子どものことがわかるということ~「わかる」と「わからない」の境界と保育者の自覚性~

・西井さんより
・発表をうけて会場から
・最後に

◎西井さんより
○ゲスト
白梅学園大学附属白梅幼稚園 西井宏之さん
年長児担任 子ども27名 担任1名(ほか保育補助1名)

遊びを中心の保育をつくってきた園で、その文化が形骸化していたそのことに疑問を感じ、外部に研修にでていくようになる。
それを基に保育を変えようと思っても、そんなにすぐに保育は変わらない。でもその過程のなかで自分が一番変わった。

○はじめに的な話…分かるということへの怖さ
雉の鳴き声から「子ども理解」を考える
言葉に出来ないものを言語として表すことは便利ではあるが、怖さもある。→言葉にすることで分かった気になるのではないか。
 分かろうとする営みをやめてしまう。
 言語化することで耳に入らなくなる、そのものを聞かなくなってしまう。
 正確には表すことができないという前提を忘れてしまう。
 分かりやすい表現は伝わりやすいし、表出しやすいけれど…
・言語化すること自体の両義性
・でも、言語化することは、保育者として避けられない。

○「わかる」ということの両義性
(1)分かるとしているときが、最も子どもから遠い
・保育者は「かもしれない」という姿勢を持ち「こうかな」「ああかな」と考えている。
 その一方で、子どもの言動の要因を環境や経験、家庭に求めてしまうこともある。
 ex)「年中の時なにしていたの?」「きっと家でこうなのだろう」とか
・分からないときほど、簡単な言葉にあてはめたくなる。
事例)
リレーが好きだと思っていた子どもが実は仲の良い友だちと一緒にいるからだった。

(2)「わからなさ」の主語はだれか
・子どものことを主語にしているが…?
ex) Aちゃん自身のことなのか、Aちゃんを分かろうとしている私が分からないのか
→「Aちゃん」と「私」の境界はしっかり切り分けられてしまっている
 「私」について考える対象になっているのだろうか
 予想外の行動などは、その境界がよりくっきりしてしまうのだろうか。
事例)Aちゃん
明るくてクラスの雰囲気もつくるAちゃん
でも5月ごろから周りとのケンカが増えてくる。
環境、遊びへのアプローチなど色々とやっているなかで、7月ごろからケンカに入ることに辟易としてくる私。
そこで、「もう!じゃあ金魚すくいでもやる!?」と聞いたら、楽しそうに始めた。
・自分の見方が変わる
 意識していなかった彼女の姿に気付くようになる。
 子どものことを外から見ている、応答関係になっていない自分自身。
 →自分に矢印を向けるのは痛いけれど、それをしないと成長しない。
・繋がっている感覚
 わかるという言葉では表現しきれないけれど、つながる感覚。

(3)「わかる」ということは「わからなさ」と共にある。
「わかる」(=子ども理解)という概念について
「わからない」と「わかる」は常に一体。
しかし、「わからない」ということにどれだけ重きを置いているだろうか。保育者は行為のなかから子どもを分かろうとする。
でも、その行為自体が「すくない」子は、何から理解すればいいのか。事例)Mくん(年少)
4月初めは動かなかったが次第に興味を広げ、子ども同士でのやりとりもでてきた。
しかし夏休み明け、絵本の場所から動かない、なにもしていないように見える。
どうしたものか…?
→この子の「なにもしていない」ように見える行為の背景には何があるのだろうか。
 Mくんの好きなポケモンの歌をきっかけに毒クラゲをつくり、周りを誘ってみる。
毒クラゲをつくりはしないが、気になっていて、ながめる。
そんななかで「こどものせかい」(作品展)がやってくる。
どうしたものか、彼の世界をどう考えたらいいかと悩んでいる。
すると、他の子どもたちの作品に興味を示し、思わず手が出た。
Mくんにとって「こどものせかい」
箱ひとつに込められた想い
つくったのは箱一つだが、文脈をたどると、自分なりのペースでの関心を広げ、距離を測っていくMくん自身がある。

保育者の「わかる」はどう変わったのか
「わかる」から「わからない」へ
「わからない」と意味の探索
 わからないことがわかるようになったわけではないが、分からなさのなかに
「わかる」にひきつけないで、子どもの行為の意味づけをしていく。

○まとめ
・子どもを分かろうとすることって、とっても大事、でも難しい時もある。
・そもそも子どものことってわかるの?
・「分からない」ということに、もう少しスポットを当ててみようじゃないか
・「わかる」「わからない」という戦場にいるうちは、子どものことは分からない。
・つながった瞬間は、「わかる」という言葉とは違うある種の恍惚状態。
・つながろうと思ってつながれるものでもなく…


お話をうけて、会場からは以下のような感想と質問が出ました。
◎感想と質問・保育者として分かると、個人・私として分かるって違う?分けて感じている感じがした。
・「わかる」「わからない」ではない、「なじむ」のなかで一緒に過ごしているという感覚。
・わかりやすい表現があるから、会話が成立するということもあるのだろうか。
・「わかる」と「なじむ」

・保育者の意味づけの支えについてもう少し話を聞きたい。
→保育者として「どうみたらいいのだろう」という迷い、揺らぎがある。
子どもの行為がその子にとって意味があると思った時に、それを意味づけていいのか?
日々の子どもの姿、見ようとしている視線が下支えになっている。

・「わかる」には時間が必要?
→保育者が違えば違うのかもしれない。
 安易に何かのせいにすることで彼との会話が終わってしまう。
 それを避けるために、悶々とするその時に時間をかけていく。

・「トラブルばかり起こす時、保育者は外にいる」
子どもがケンカしているときに「仲裁に入る」とき、外にいる感覚を感じるということ?
→トラブルが起こるときというよりも、その際に「またか」と自分が思っているとき。
「またか」という時には子どもの心に対して一方通行。
対話は言葉だけでなく、相手の言葉やしぐさや表情など様々なものから得ていく。
それは大人だけでなく、子どももそう見ている。



◎最後に
子どもと保育者である私の間にあるのは、「わかる」「わからない」というこの二者だけなのではなく、その間にある言葉にならない空気があり、その言葉にならない感覚を改めて考えてみたいと思いました。

次回は上町職員で栄養士の久保田の話題提供です。お楽しみに!

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