台湾銀行救済緊急勅令案再考

第一次若槻内閣

はじめに

1927年4月17日、第一次若槻内閣が諮詢した緊急勅令案が枢密院にて否決され、内閣は総辞職した。枢密院の審査が内閣の更迭に直結するのは日本の歴史上、初めての出来事であり、世間では枢密院の陰謀や、枢密顧問官である伊東巳代治が幣原外交を嫌ったためだと噂され、昭和史の定説となりつつあった。

その後、当時枢密院議長であった倉富勇三郎の日記の解読(倉富の文字は難読である事で有名)が進むにつれ、若槻内閣と枢密院の間でどのようなやり取りが行われたか、枢密院において政府案の何が焦点となり、緊急勅令案は却下されるに至ったのかがある程度解明され、昭和史の定説がまた一つ覆されるに至った。

この記事は、台湾銀行救済緊急勅令案問題を再考する事で、枢密院と若槻内閣(引いては憲政会)の問題点を浮き彫りにし、昭和史の新たな知見を広めようと試みるものである。

1. 枢密院という新発明

枢密院は帝国憲法第五十六条に以下のように規定されている。

枢密顧問は枢密院官制の定むる所に依り天皇の諮詢に応へ重要の国務を審議す

枢密院を発案した伊藤博文は、憲法制定後に内閣と議会が対立し、天皇が聖断を下す事態が訪れると考え、その場合に天皇は「善良なる勧告」を行う顧問官からなる枢密院に諮詢し、その奉答結果を参考に聖断を下すことを想定した。
伊藤は枢密院を「新発明」であると述べ「内閣とともに憲法上至高の輔翼」を担う、天皇直属の諮問機関として出発させた。

一方、枢密院を政党勢力に対する防波堤に位置付けていたのが山県有朋である。この考えには天皇も同意していた。それを示すのが1900年に発せられた枢密院官制第六条第六項に対する御沙汰である。
第六条は以下のように枢密院の諮詢事項を定めている。

・皇室典範
・憲法条項・またはそれに付属する法律案
・憲法第八条・憲法第七十条に基づく緊急勅令(詳細は後述)
・列国との条約
・枢密院官制

そして第六項には「臨時に諮詢せられたる事項」と記されていた。
山県はこの曖昧な条項について、明治天皇の御沙汰によって、文官・教育・内閣官制・台湾総督府官制に関連する勅令を常に諮詢事項とすべし、と明文化してしまった。厄介なことに、この御沙汰は枢密院官制と同一の権限を持つとされた。
憲法学者の美濃部達吉は、この沙汰について

官制をそのままにしておいて、秘密の中に実際上官制改正と同一の効果を収めようとするのは、秘密の陰に隠れてて世論の攻撃を避けんとするものと批評せられても弁解の途はない

と論じ、枢密院官制に明記されている事項以外は、第六項の条項通りに臨時に諮詢されるべきであり、常に諮詢するように求めるのであれば、官制違反であると断じている。原敬も内務大臣になって初めて御沙汰の存在を知り、勅令違反であると憤慨しつつも、明治天皇の発した御沙汰の改正の困難さを認識していた。
結局、この御沙汰は1938年に枢密院の諮詢事項を拡大するという名目で枢密院官制が改正されるまで、30年間以上有効であった。

天皇の信任を得た山県は、1909年に枢密院議長に就任すると、枢密顧問官人事を掌握し、顧問官に自派官僚を次々と登用していった。本来顧問官人事は、天皇の任命大権を輔弼する内閣総理大臣にある。しかし山県は顧問官人事を内奏し、首相はそれを黙認して形式的な手続きだけ行うことが慣例化された。
もし首相が枢密顧問官人事に不満があっても、議長が既に内奏を済ましてしまっているので、それを覆すことは相当困難である。こうして山県は枢密院を完全に支配し、内閣から独立させ、藩閥政府の基盤を強化する機関とした。

この状況に原敬は

枢密院は全く山県系のものとなり居るも、国家重要の機関に対して如何にもその私を逞ふするものなりの言うべし

と、山県系の牙城とかした枢密院の実態を見抜いていた。

枢密院の政治化の温床であった枢密顧問官人事の慣例は、原内閣が誕生した際、枢密院議長より内閣に通報し、内閣の同意を得た上で内奏する形で改められた。

2. 緊急勅令

緊急勅令とは議会の審議を経ないで制定される立法の形式であり、憲法第八条と第七十条に基づいて制定される。

帝国憲法第八条
天皇は公共の安全を保持し、または其の災厄を避くる為、緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合において法律に代るべき勅令を発す
帝国憲法第七十条
公共の安全を保持する為、緊急の需用ある場合において、内外の情形に因り政府は帝国議会を召集すること能はざるときには、勅令に依り財政上必要の処分を為すことを得

以上の事から、第八条は法律的緊急勅令、第七十条は財政的緊急勅令と位置付けられる。緊急勅令は発令後、次回の議会に提出しなければならず、もし議会が承諾しなければ効力を失うとされた。
緊急勅令は議会協賛を経ずに発令出来る為、伊藤は憲法の説明書である憲法義解において、緊急勅令はあくまでも緊急事態のための除外例であり、濫用は戒めるべきだと説いている。特に、財政的緊急勅令は帝国議会の予算審議権に抵触する恐れがあり、それが議会で否決されたとしても予算を復元する事は困難(よって否決されることはない)という理由から、より慎重な運用を求めていた。

しかし、藩閥政府は円滑な政権運営を行う為、度々緊急勅令を用いている。
特に第二次桂内閣は韓国併合に際して緊急勅令を12件も発し、厳格に適用されるべき財政的緊急勅令も4件発令している。緊急勅令は枢密院の諮詢事項として扱われるが、藩閥政府の強化機関と化した枢密院において厳格な審査は行われた形跡はなく、これら全てを可決している。

3. 憲法の番人

このように枢密院は藩閥政府の御用機関、山県系の牙城と化していたが、それが変容するのは枢密顧問官の顔ぶれが一新されてからである。それまで維新の功労者の名誉職の意味合いが強かった枢密顧問官に、清浦奎吾や牧野伸顕ら有力な官僚が起用されるようになる。その中で特筆すべきは、伊藤側近として憲法制定に携わり、憲法秩序の維持に使命感を燃やす伊東巳代治と金子堅太郎であった。

伊東は枢密顧問官や臨時外交調査委員会の委員として、度々近代史に登場するが、その歴史的評価は芳しくない。今回扱う台湾銀行救済緊急勅令案やロンドン海軍軍縮条約に反対し、枢密院にあって度々政党内閣に立ちはだかってきた。
また、後藤新平が主導する関東大震災の復興事業に対し、銀座の大地主の立場から反対したという小者エピソードも、その悪評価に拍車をかけている。

その悪評価は伊東の人物像から現れている。
伊東は徒党を組むのを好まず、偏狭で頑固である。それと同時に闘志にみなぎっており、伊東自身「余とても老朽と侮って踏みつけると、古釘と同様に足の裏に致命的の傷を与えるくらいの勇気は未だ持っておる」と豪語するような人物である。
また伊東は議論となると滅法強かった。会議の席上で意見する際には予め演説原稿を作成して、それを手に陳述する用意周到な人物であったし、その舌鋒は鋭く、特に自身が制定に関わった憲法解釈に関しては理論詰めで迫る為、何人も太刀打ち出来なかった。このような人物であった為に、厄介扱いされ、敵を作りやすかった。

先の復興事業に対する反対も、大地主という私的な理由ではなく、憲法解釈(個人の所有権)から来る反対ではあったが、上述の人物像から誰も伊東を擁護する事なく、虚偽の反対理由がすんなりと受け入れられてしまった。

伊東と金子は、枢密院に諮詢される憲法条項や憲法附属の法律案、特にそれまでなあなあに審議されてきた緊急勅令案について、憲法秩序を維持する為に、より厳格に解釈しようとし、時の政府と対立してゆく。

4. 諮詢不奏請問題

枢密院の変容を象徴する事件が、第二次桂内閣が諮詢した衆議院議員選挙法中改正法立案に対する、諮詢不奏請問題である。

従来の議員選挙法には禁固刑以上を受けてから判決が出るまで、選挙権・被選挙権を与えないと言う条項があった。桂内閣は議員の公職を重んじて、この条項を削除する改正案を議会に提出し、衆議院・貴族院を通過した。衆議院議員選挙法は憲法に付属する法律である為、枢密院に諮詢された。

両院を通過している以上、枢密院がこの法案に修正を加えるのは、議会の持つ立法権協賛を侵害する恐れがある。しかし枢密院本会議は審議延期という処置に出た。本会議で争点となったのは、今回の選挙法改正案が諸外国の選挙法の真逆を行く所であった。
金子は「諸外国が日本は憲法国の通則に違いたる事を行うと言う時は、折角の我が帝国憲法制定の趣旨に戻ることとならざらむや」と述べ、憲法の理念に合致しない選挙法改正案に疑問を呈した。いくら両院を通過した法案といえども「憲法付属法律の改正を枢密院にして軽しく賛同することは如何かと思う」と述べ、この意見が支持されて、枢密院本会議は延期された。

事態は、選挙法改正案を審議する枢密院審査委員会に桂首相自らが出席する、異例の事態となる。桂は法案は両院を通過しているので、強いて反対すべきではないと了解を求めたが、金子は憲法の理念に反すると反論し、枢密院が諮詢を不奏請し、天皇が法案を不裁可する可能性があると論じた。伊東も

「我国において不裁可権を死物ならしめざる必要あり。故に憲法に署名せる大臣在世中に一度この権を行はしたしと考ふる」

と、諮詢不奏請による不裁可を提議している。
憲法上、両院が議決した法案といえども、帝国憲法第六条を根拠に、主権者である天皇が不裁可権を行使することは可能である。ただし現実に天皇の不裁可権は行使されることはなかった。
伊東の言うように不裁可権の行使の前例を作り、死文化させなければ、1941年に昭和天皇が不裁可権を行使出来ていたかもしれないというのは、余談ではある。

結局、衆議院選挙法改正案は政府と枢密院の間で円満解決が図られたが、ここに枢密院が諮詢不奏請を行う可能性があることが、初めて浮上した。これは藩閥内閣と枢密院の協調の歴史の終わりを意味していた。

5. 戦時海上特別保険・蚕糸業救済緊急勅令案問題

第二次大隈内閣における政府と枢密院の対立は大きな意味を持った。
それは政府が提出した緊急勅令案が、憲法解釈によって否決されたからである。

第一次世界大戦勃発により、戦時海上保険料が高騰し、保険契約が困難となった為に貿易に支障が生じる事態となっていた。これに対処する為、大隈内閣は戦時海上特別保険料制限に関する緊急勅令案を発して保険業法の不備を補おうとし、諮詢を受けた枢密院も承認する姿勢を見せていた。
しかし14年8月22日、伊東は憲法義解を持ち出し、この勅令案は「個人の利益を保護して幸福の増進を図るもの」であり、憲法第八条の緊急勅令案の要件を備えていないと疑問を呈した。
この意見に複数の枢密顧問官が同調した為、枢密院は大隈に再考を促す形となり、政府は諮詢を撤回し、臨時議会を召集して法律として公布するに至った。

この伊東の憲法解釈を基にした反対論に激怒したのは、有松英義枢密院書記官長である。有松は

不当なる反対論に遇ふて理由なく大権を制限せんとするの形勢を作りたるは、国家の為誠に遺憾に勝えず

と述べて辞職を切り出し、他の顧問官たちの慰留を受ける事態となった。

続いて問題となったのは、大戦によって輸出が激減し、経営難に陥った蚕糸業界救済のための緊急勅令案である。
大戦前は千円程度を推移していた生糸価格は、大戦の影響を受けて700円まで下落していた。大隈内閣は蚕糸業救済の為、日銀が生糸を担保に手形割引したことで生じた損害を補償する法案を議会に提出する。しかし法案審議中に議会は解散され、審議未了となってしまった。
若槻礼次郎蔵相は、蚕糸業救済の緊急性を鑑み、憲法第七十条を適用して蚕糸業救済を財政的緊急勅令案として枢密院に諮詢した。

この緊急勅令案に対し、枢密院議長であった山県は

蚕糸は国家の経済に大関係あり。今日の場合決して看過すべきに非ざれば広き意味においてとにかく救済の実を挙げざるべからず

と、政府案を支持する姿勢を見せていた。しかし伊東ら顧問官は、政府の憲法第七十条の解釈を問題視した。末松謙澄枢密顧問官は憲法第七十条は元々

第一案には国家の危機に当たり新鋭を興しまたは国債を起こす時に適用あること

であったのだが、政府との交渉の過程で現在のように修正されたとの制定過程を述べ、国家存亡に関わる極めて重大な事態以外には適用されるべきではないと主張した。その対案として1891年の濃尾震災の前例に従い、政府による責任支出(後述)を行うべきだと主張した。
若槻は公共安全を保持する為に財政的緊急勅令を行うことは何ら憲法違反ではないと主張し「国家の安危に係るの原案を改正せられたること立法者の用意の存する所なるべし」と反論したが、末松は憲法第七十条の適用は慎重であるべきと憲法義解に明記されており、決して軽々しく用いてはならないと反芻した。
審議の結果、枢密院は蚕糸業の窮状を認めつつも、他に救済手段(責任支出)はあるので憲法第七十条は適用する必要はないと結論づけ、全会一致で否決。これを受けて政府は諮詢を取り下げ、責任支出により対処することにした。

憲法を厳格に解釈しようとする伊東らの動きに対し、清浦奎吾は憲法第七十条を広義に解釈しない限り、行政は行き詰まると考えていた。山県に対して

枢密院或一派の言動には、内閣側もすこぶる憂慮憤慨の模様あり。これは尤もの事にて、小生等同僚より見ても、枢密顧問官としては余りに法制局参議官らしく、又或点は余り政党員らしく認められ窃に指弾候。何とか一沫吹かせ此弊を矯めざれば、枢密院の枢密院たる体面において如何と存候

と述べて、狭義に憲法第七十条を解釈する伊東を批判している。

6. 責任支出

予算超過、予算外支出に関して、帝国憲法は以下のように定めている。

帝国憲法第六十四条第二項
予算の款項に超過し又は予算の外に生じたる支出あるときは、後日帝国議会の承認を求むるを要す

その財源については、以下のように定めている。

帝国憲法第六十九条
避くべからざる予算の不足を補う為に又は予算の外に生じたる必要の費用に充つる為に予備費を設くべし 

予備費を使用して支出を行なった場合、議会の事後承認を必要とした。
それでは予算超過、予算外支出が予備費を超えた場合に、どうなるのか。そこで出てくるのが、国庫余剰金を財源とする責任支出という概念である。
1891年、濃尾地震の被災地救済として、第一次松方内閣は国庫剰余金の臨時支出を行なった。この支出に関して、政府の見解は以下である。

・予算超過・予算外支出は合憲である(第六十四条第二項)
・第六十四条と第六十九条は予算外支出を予算費額に限定していない

ところが、第二次松方内閣は余剰金支出の見解を、憲法に依拠せず、政府が責任を負って剰余金より支出した(この事から、余剰金支出は責任支出と呼ばれることになる)と答弁した。第三次伊藤内閣も同様の見解を踏襲した。
そして責任支出は自然災害の救済や軍事関係、伝染病対策など多岐にわたって行われることになる。

政府が追加予算を組みたい場合は、臨時議会を召集して、議会の協賛を経ねばならない。しかし、責任支出は議会を回避出来ることから、議会の予算審議権に抵触しかねなず、憲政の観点から、その存在に疑義が持たれ続けた。

前述のように、大隈内閣が提出した蚕糸業救済緊急勅令案に対し、枢密院は憲法第七十条の厳格な適用と、濃尾地震における責任支出の前例から、責任支出による解決案を提案した。しかし衆議院において責任支出の事後承認を巡り、責任支出は合法なのか、支出の内容は正しいのか、議論が噴出した。
責任支出の不承認を議会で主張した長島隆二は、明治時代の責任支出を

極めて善意なる、また極めて金額においても少ない、またその支出の目的に致しましても、極めてこれは狭い範囲のもの

と評価する一方、大正時代以降の責任支出は、その金額、形式、性質、全ての点において憲法を蹂躙するものだとし

予算に依って政府の財政に制限監督を加えんとする議会の機能は、根底より没却し了流

と政府を批判した。議会において責任支出は賛成多数で承認されたものの、与野党双方から、政府の憲法第六十四条第二項の曲解による責任支出は不当であり、憲法第七十条の適用範囲の拡張や会計法の改正、予備金の増額などの抜本的解決を求める声が上がった。
大場茂馬は責任支出は立憲的財政に反対しているものだと定義した。大場の言う立憲的財政とは、帝国議会の協賛を経た国庫の歳出である。それに対し責任支出は、議会を経ずに支出した後に、議会に事後承諾を迫る(支出してしまった事実を不承認とするのは困難)などと、明らかに矛盾している。立憲的財政に問題が起きた場合は、憲法第七十条に基づいて財政的緊急勅令を諮詢すべきである。それを行わずに責任支出を行うのは、枢密院や帝国議会の機能を無視するものである。

帝国議会にも諮らず、または帝国議会に代わる所の枢密顧問の諮詢を経ずして、独断専行したことは政治上の遺憾の上から見て適当の所為ではない

と、大隈内閣の態度を断じている。経緯を見れば分かる通り、責任支出は枢密院が憲法第七十条の適用を退けた結果であるが、議会の予算審議権を形骸化し、憲法の根拠も曖昧である責任支出というグレーゾーンに、与野党問わず疑義が噴出したのであった。

長島の発言通り、明治時代の責任支出は、議会の事後承認を得るために、政府は必要最低限の支出に留めたし、議会も支出に厳しい目を向けていた。しかし、いつしか責任支出は、憲法第七十条による財政的緊急勅令諮詢の手順を回避しうる安易な臨時対策として慣習化され、その適用に対する緊張感は薄れていった。第二次大隈内閣が蚕糸業救済を責任支出としたことで、議会の予算審議権を無視する責任支出の疑義が改めて取りざたされ、責任支出に依るのではなく、臨時議会を召集して追加予算を審議するのが妥当であると認識されていくのであった。

余談ではあるが、清浦内閣が流産したのは、議会で否決された海軍補充費を臨時議会を召集して予算を修正するか、責任支出によって復活するかを迫られ、臨時議会を召集しても衆議院の支持を得られる目算はなく、一度否決された予算を責任支出で復活させるなどは憲法違反であると清浦が考えたからである。

大隈内閣は責任支出の慣習があったことから、蚕糸業界救済について妥協した。予算外の支出は憲法第七十条財政的緊急勅令に依るのが正当ではあるが、大隈内閣は枢密院との憲法解釈を巡る全面対決を回避した。
この一件以降、伊東ら枢密顧問官はより一層憲法の解釈を厳格化し、憲法秩序を維持する憲法の番人としての性質を確立させてゆく。

7. 大正末期の政局

枢密院の歴史を振り返ったところで、話は大正末期の政局に立ち寄りする。というのも、台湾銀行救済緊急勅令案の問題を考える上で、当時の大政党間の政局というのは、政府の行動に非常に重大な影響を与えていたからである。

24年、貴族院を母体とする清浦内閣の誕生に対し、政友会、憲政会、革新倶楽部の三党は護憲三派を結成し、総選挙に挑んだ。しかし清浦内閣の与党化を目論む政友会の床次竹二郎一派が政友会を脱党し、政友本党を結成する。

24年5月10日、野党護憲三派(政友会・憲政会・革新倶楽部)対与党政友本党の戦いとなる衆議院議員総選挙が実施された。その結果、総議席464に対し憲政会151、政友会100、革新倶楽部30、政友本党116となった。これが絶妙であったのは、いずれの政党も過半数を制することが出来なかった上に、政友会・革新倶楽部が合同しても憲政会に及ばないという点であった。憲政会を率いる加藤高明は、この均衡状態を利用して見事な政権運営を行い、元老西園寺をして、本当の紳士だと言わしめている。問題は加藤没後であった。

加藤は議会会期中に倒れた為、若槻礼次郎が臨時首相代理を務め、そのまま大命が降下し、第一次若槻内閣が組閣された。この頃から議会において政策とは関係ないスキャンダル事件が取りざたされ、議会が空転するのが目立つようになる。

特に社会的にも政治的にも大事件となったのは朴烈怪写真事件である。
関東大震災の混乱の最中、朴烈と、その愛人である金子文子が検束され、その際爆弾を所持していたことから大逆事件に発展した。その取り調べの最中、予審判事が朴と金子が抱き合った写真が撮影され、それが北一輝の手に渡り、司法の腐敗と皇室への不敬を糾弾する怪文書とともに、報道各社にばら撒かれた。
若槻は立憲政治は政策の争いであり、朴烈事件など下らないと考えていたが、憲政会を切り崩そうとする政友会や政友本党が朴烈事件をことさら重大な政治事件のように喧伝し、政局を引き起こした。若槻は政府問責決議案を行う野党に対し解議会解散をチラつかせ、野党も倒閣の材料を揃えて、解散総選挙は必然だと思われた。

しかし、憲政会総裁の若槻も、政友会総裁の田中義一も、政友本党総裁の床次も、三者ともに解散総選挙となれば自党不利だと考え、水面下で妥協工作を繰り広げた。こうして1月20日、三党首が会談し、政治休戦が決定される。
政友会、政友本党は内閣不信任案を撤回し、政府が懸案とする予算と震災手形関連法案を通過させることとした。その見返りに若槻は議会終了後に「深甚なる考慮」を行うとし、暗に総辞職をほのめかした。

誰しも解散総選挙が行われると思っていた最中の三党妥協に、西園寺は「これでまた当分、低級下劣な政争を繰り返すのか」と嘆いたという。このように若槻内閣期の議会は、三党の議席が拮抗していた為に、熾烈な政治闘争が繰り広げられ、議会においては政策よりも衆目を引く疑獄や低劣なスキャンダルの暴露合戦が行われるに至っていた。

なお、この時期に壮絶な政治闘争が繰り広げられた理由は、首相奏薦のルールが確立されていなかった為である。全ては首相奏薦権を持つ元老西園寺の肚の中にあり、政友会や政友本党はどうすれば政権を獲得出来るのか、暗中模索の中で醜い政争を行い、いたずらに政局を拡大していた。特に政友本党の床次の迷走っぷりは失笑するより外ないが、彼は明文化されていない政権獲得ルールを手探りで探していたわけで、元老制度の功罪とも言えよう。

8. 震災手形関連法案

では、若槻が解散総選挙を回避してでも通過させたかった震災手形関連法案とは何であったのか。時は関東大震災まで遡る。

関東大震災により東京・横浜は大打撃を受け、経済は大混乱に陥った。井上準之助蔵相は、勅令で震災手形割引損失補償令を公布して、震災地の企業と銀行の救済を図った。というのも、第一次世界大戦後の反動恐慌以来、経営不良のまま生きながらえた企業が多数あり、当時の日本の金融市場には回収不能の悪質な手形が出回っており、それを警戒するあまりに銀行は融資を渋るようになっていた。それに加え、被災して信頼のなくなった企業の手形など、回収不能が目に見えている。しかし、被災地域の企業を救うには銀行が融資に積極的にならなければならない。
そこで被災地域で発行または支払われる予定の手形を銀行に持ち込むと、銀行は一定の割引(期限までの利息を差し引いて現金化する)を行い、それを日銀に持ち込むと、日銀はこの手形を震災手形として再割引(金利を差し引いて現金化する)した。それで日銀が損をした場合は1億円までは政府が補償とした。
つまり政府が最終責任者となるので、各地の銀行は不渡りを警戒せずに安心して企業に融資出来るという訳だ。

この措置により多くの企業が救われることとなったが、問題は、実際には被災と関係ない、経営悪化で不良債権化していた手形までが持ち込まれていた事であった。
特に酷かったのは、鈴木商店の震災手形であった。
鈴木商店は元は台湾の物産を扱う小さな貿易商であったが、大戦期の相場で巨万の富を築き、その規模は三井財閥をしのぎ、スエズ運河を通行する船舶積荷の一割が鈴木商店系であったと言われるほどの、世界最大の総合商社であった。しかし戦後になっても事業を拡大していたので、戦後恐慌の打撃をもろに被り、巨額の赤字を抱えるに至った。
鈴木商店の最大の債権者は、台湾の中央銀行である台湾銀行である。台湾銀行は鈴木商店が破綻したら債権を回収できなくなると考え、事業回復を期待して追い貸しを繰り返し、鈴木商店も半ば開き直って巨額の融資を得ていた。
27年当時、鈴木商店の借入金は4億円に膨れ上がっていた。当時の国家予算が16億円の時代の話である。その内、台湾銀行の債権は2億5千万であったが、台湾銀行は他の鈴木商店系列の会社の債権を3億5千万分抱えており、台湾銀行の債権の半分以上が鈴木商店関連であった。鈴木商店が潰れれば台湾銀行も破綻する。このような企業の銀行の腐れ縁は全国各地に存在していた。

鈴木商店は震災のドサクサに紛れて不良債権を台湾銀行に持ち込み、台湾銀行も返済不能である事を知りながらも日銀に持ち込んで、震災手形としていた。このような形で整理出来ていない2億円もの震災手形(内1億円は台湾銀行)の回収に着手したのが若槻内閣であった。
若槻内閣は金解禁を重要政策と位置付けていた。その際にネックになるのは震災手形である。震災手形の猶予は既に二回も延期されていたが、回収の目処は立っておらず、かといって再延期となれば経済界が動揺しかねない。まさに経済界の癌のような存在であった。そこで若槻内閣の片岡直温蔵相は、この際震災手形を整理してしまおうと考えた。それが震災手形関連法案(震災手形損失補償公債法案と震災手形善後処理法案)である。

政府が震災手形を打ち切れば、政府が補償する1億円を超える損害について、日銀は銀行から回収し、銀行は未回収の債権を業者から取り立てるだろう。しかし実際は取り立て不能なので、業者も銀行も倒産するしかない。いくら鈴木商店が不良企業とはいえ、台湾の中央銀行たる台湾銀行を破綻させるわけにはいかない。
そこで政府は日銀に対し、当初の予定通り1億円の損失を公債で補償する。残る1億円の震災手形については回収不能として処理する。震災手形の当事者である銀行(主に台湾銀行)に対しては、政府が1億円の公債を貸し付け、当座を凌がせつつ、10年年賦で1億円を返済させる。つまり、不始末を起こした企業(主に鈴木商店)と銀行(主に台湾銀行)のために、政府が1億円を支出するという案である。

若槻はこの法案を議会で無事通過させる代わりに、議会閉会後の総辞職を仄めかして、政治休戦を勝ち取った。この法案を真面目に審議するならば、回収できていない震災手形を誰が振り出して、どの銀行が震災手形を抱えているのか、という当然の質問がされる。これに正直に答弁すれば、台湾銀行が大量に不良債権を抱えていることが暴露され、台湾銀行への取り付け騒ぎが発生しかねない。

片岡は三党首会談後、念には念を入れて独断で田中総裁と面会し、震災手形関連法案を通過させることの意義を話し、政友会の協力を取り付けた。
しかし3月2日、憲政会と政友本党の提携が新聞紙上に漏洩した。これは三党首会談の明確な不履行である。田中は片岡に対し、約束を反故にすると宣言。そして衆議院本会議に移された震災手形関連法案は政友会の猛攻撃を受けることになる。

9. 失言恐慌

政友会は震災手形関連法案に対し、猛攻撃を仕掛けた。不始末を起こした企業を救済する法案ではないか。震災手形を決済した人が損をし、決済を怠った者が得をするというのはおかしい。この法案の裏には、損をした時に政治家と結託して国民の血税を使い、それを補填する政商の存在を認められる。という一連の指摘は、強烈な正当性を持っていた。
更に政友会は、この法案によって最も利益を受ける、震災手形を抱えている銀行と手形の発行者の名前を明かせと激しく詰め寄った。政府は銀行の信頼に関わるのでそれを隠し通そうとするが、ある議員などは独自の調査結果として、事実や噂を織り交ぜて、震災手形を抱える銀行名を名指しまでしていた。

法案は何とか衆議院を通過したものの、今度は貴族院にて同様の質問が繰り広げられた。議会において経営困難な銀行の存在が明らかになりつつある中、世間では金融不安のムードが醸し出されつつあった。もともと評判の悪い銀行に預金者が殺到し、預金を払えなくなった銀行が店を閉める、大規模な取り付け騒ぎが起きつつあった。その中で、東京に渡辺銀行という、多額の融資を無計画に行い、関連企業の放漫経営のためにいつ共倒れしてもおかしくない、典型的な不良銀行があった。

3月14日午後1時ごろ、渡辺銀行専務が大蔵省に出頭し、今日にも支払いが停止しそうだと告げてきた。大蔵次官がいつ発表するのか問いただすと、本日発表とのことであったので、次官は事の重大さから直接片岡に伝えた。
折しも議会では、通過した震災手形法案を政友会が執拗に攻撃している最中だった。銀行の営業時間も終わっていたので、片岡は

いやしくも大蔵大臣の地位にある者が、財界で破綻が起きた場合はこの救済に務めるのは当たり前である。現に今日正午ごろ、東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました

と、政友会がいたずらに震災手形の内容公開を迫ったので、銀行の破綻という不祥事が発生したという意味で述べた。ところが渡辺銀行は資金調達に成功しており、午後3時ごろには営業を再開していたが、それを大蔵省に報告し忘れていた。渡辺銀行は翌日の新聞の大臣の発言を見て、これを口実に本当に店を閉めてしまった。

渡辺銀行が休業すると、議会において震災手形を抱えていると名指しされた銀行を中心に取り付け騒ぎは拡大し、6つの銀行が閉店した。新聞は片岡の失言が原因で恐慌が発生したと書き立て、失言恐慌であると揶揄した。
片岡から失言を引き出した政友会は、発言は軽率であり、その影響力は甚大であると糾弾した。政友会の三土忠造は

蔵相たる者が軽率にも破綻という言葉を用いたところに責任がある。しかも休業を指して破綻と称したのは明らかに蔵相の失言であって、国民に対して陳謝すべきである

と追及する。片岡が発言の責任を認めないと、片岡発言は失態であるという決議が行われた。決議の趣旨について東武は、一国の蔵相が破綻も営業停止もしていない銀行に対して破綻したと言明すれば、どのような銀行も取り付け騒ぎが発生するのは当然であるし、無責任も甚だしいと指摘

破綻とは何であるかと問えば、大臣は綻びのことであるという。実に人を愚にするものである。安部貞任の所謂『衣のたては綻びにけり』は一時の風流韻事である。大臣がこのような風流韻事を用い、綻びを纏うあらわざる状況に立ち至らしめたということは大なる無責任の極と言わなければならない

と糾弾した。果たしてこれを失言と考えてよいのかは疑問ではあるが、官僚の言うことを鵜呑みにし、議会にて誤った情報を報告し、経済界に悪影響を与えた責任の所在は何処にあるのか。なお、この決議は反対多数で否決された

23日に震災手形関連法案が貴族院を通過したことで、一応騒ぎは収まった。この期間中に11の銀行が休業に追い込まれたが、その内8行は震災手形関連の中小企業であったことから、むしろ札付きの銀行が潰れて、整理されたという強気の見方さえあった。
しかし、これは金融恐慌のほんの序章に過ぎなかった。

10. 昭和金融恐慌

震災手形関連法案が貴族院にて審議される中「台湾銀行」の名前が出てしまった。これは暴露の意図があって行われたものではないが、台湾銀行が危ないという噂の裏付けとなった。更に震災手形関連法案は、台湾銀行調査委員会を設けるという付帯決議を付けて可決されたことからも、台湾銀行に対する不安は広がってゆき、市中の銀行は短期貸付金の回収を始めた。

議会閉会後の3月27日、資金繰りがつかなくなっていた台湾銀行はついに鈴木商店に対して新規貸付の停止を通告し、関係を打ち切った。この報告を受けた片岡は、鈴木商店の倒産は免れないにしても、台湾銀行は救済せねばならないと考え、日銀に打開策を立てるように望んだ。しかし日銀は台湾銀行に対する融資の損失補償を、法的に規定するように求めた。
台湾銀行の救済方法を協議している最中、4月1日、新聞紙上にて鈴木商店と台湾銀行の関係が明るみになり、鈴木商店に対する台湾銀行の巨額融資の実態が公然のものとなった。この事から株式市場は暴落し、経済界の混乱に拍車がかかる。
4月5日には鈴木商店が不渡り手形を出して倒産。鈴木商店系列であった神戸の銀行で取り付け騒ぎが発生し、数日後には休業に追い込まれた。取り付けの風聞が全国を回り、全く関係ない福岡の銀行が取り付けを恐れて二週間休業するなど、金融恐慌の第二波が襲来した。

台湾銀行の破綻は渡辺銀行の破綻とは桁違いの影響力を及ぼす。片岡は日銀から2億円の緊急融資を行って台湾銀行を救済しようと考えた。これに対し日銀は台湾銀行に無担保で特別融資を行うが、台湾銀行には既に多額の融資を行っており、これ以上の貸し出しには政府の損失補償が必要であると主張した。
日銀に損失補償を行うならば、臨時議会を開いて法律案を提出するのが筋であるが、若槻内閣は臨時議会を開いて審議する時間はないと判断した。
そこで若槻内閣は、台湾銀行を救済する緊急勅令案を枢密院に諮詢し、緊急勅令を以って、この金融恐慌を乗り切ろうとした。

11. 台湾銀行救済緊急勅令案・枢密院審査委員会

4月14日、若槻内閣は以下の緊急勅令案を枢密院に諮詢した。

・台湾銀行に対する日銀の無担保特別融資案(憲法第八条、法律的緊急勅令案)
・日銀損失補償案(憲法第七十条、財政的緊急勅令案)

若槻は倉富勇三郎枢密院議長を訪ね、今回の緊急勅令案は「現下に処する唯一の方法」と説明し、一刻を争うので、枢密院において支給審議するように求めた。
倉富は平沼騏一郎枢密院副議長に、緊急勅令の審議委員長を務めてくれるように依頼した。この際平沼は、委員長を応諾したものの「自分が委員長となるは能いが、自分がやれば否決するかもしれず、それでも宜しきや」と釘を刺している。
こうして開催された枢密院審査委員会。若槻は緊急勅令案について

本件は台湾銀行の救済のみを目的とするに非ず。これを救済せざれば一般の財界の混乱を生ずる恐れあるに付、これを予防する為の緊急処分

と説明した。しかしこの緊急勅令案についても、伊東ら枢密顧問官は憲法違反であると主張している。
憲法第八条については、台湾銀行の危機的状況は数週間前まで開会していた議会において明らかになっており、緊急の要件を満たさない。憲法第七十条については、天災などで議会を開くことが出来ない場合に限りられ、今回の時間的切迫は緊急処分の必要に該当しない。諮詢案はいずれの憲法にも該当しないと解釈した。

この指摘を受けた若槻の以下の発言が、審議委員たちの態度を硬化させる。

議会を開き議員より種々の議論を為せば、その為に財界の不安を来す恐れあり。第五十二議会にて震災手形を議する時も議員の言論の為に財界の不安を生せしめたる結果を生せしめたり

議員の言論の自由が厄介であるというのは、議会政治を否定するかの発言である。委員達の態度は一層硬化し、若槻は議会を召集できるのに召集せずに財政的緊急勅令を諮詢した(明白な憲法違反)という意見に収まりつつあった。倉富も

議会にて承認せざる故、緊急勅令にて処分することとなり、その不当なること極めて明瞭なり

と、述べるに至った。審議委員達は、若槻が面倒な議会の審議を回避するために憲法第八条、第七十条を適用しようとしていると理解した。当然、そのような不純な理由で緊急勅令を諮詢するのは不当行為である。
その後、審査委員会は委員のみの議論となり、若槻は退出する。その際、倉富は、政府案が委員会を通過することは困難であると指摘した。ただしここで倉富は政府案を単に拒否するだけでなく、以下のように対案を提示している。

該案に代するに、支払猶予の緊急勅令を以って然して臨時議会を開き特別融通及び日本銀行に対する損失の補償を議せしむることとなりたらば、支払猶予の緊急勅令ならば多分本院にても通過するならん

つまり、政府原案を撤回した上で支払猶予令(債務の支払いを一定期間猶予する)の緊急勅令を諮詢し、日銀による台湾銀行特別融資は臨時議会を開催して審議するように提議した。支払猶予令は憲法第八条の適用であり、財政処分を伴わないので枢密院も可決するだろうと見解を披露している。
しかし若槻は次善策なしとし、承諾しなかった。後年、若槻はこの態度に出た理由を

彼は枢密院の中心勢力ではなし、うっかりそのようにして、枢密院がそれでも承知しなかったら、始末にいかん

と述べている。加藤高明内閣において、枢密院を弱体化するために枢密院議長には政治野心を持たない、学者系顧問官が選ぶ方針を立てていた。倉富も一般的に政治力を持たないと見なされており、そんな彼が海千山千の枢密顧問官たちの意見をまとめ上げれるとは、若槻も思っていなかった。

審議は翌日にまでずれ込んだ。伊東はなおも違憲論を振りかざし、他の顧問官たちも憲法論については伊東に同調していた。ただし委員の田健治郎が「台湾銀行が閉店する様なこととなりてはその影響重大なるにつき、この点は十分考慮する必要あるべし」と述べるなど、顧問官たちは台湾銀行救済措置の必要性も認識していた。
倉富も、台湾銀行の破綻が財界の混乱を生ずる恐れがある以上は、その救済手段について枢密院が考慮する必要があるとし

例えば緊急勅令を以って支払猶予のことを定め一応取り付きを防ぎ置き、臨時議会を召集して根本の解決を為すこど出来るならん。この方法ならば憲法第七十条に依らず第八条のみにて宜しからん

と、持論である支払猶予令案を披瀝している。倉富にとって第八条による支払猶予令は、政府と枢密院の落とし所であった。しかし、伊東は倉富案に対し

憲法第八条は積極的処置を許す趣旨に非ざる

などと違憲論を振りかざした。それだけでなく、政府に配慮する倉富の態度を叱責すらしている。これに対し倉富は

委員中には財界の混乱はこれを防がざるべからずというべきあるに付、予、支払猶予等もその一方法ならんと思い述べたる訳なり。勿論この方法は政府に強いる訳には非ざるも、枢密院は政府の提案以外には何の方法もなくして、これを否決することは適当と思わざる

と反論した。政府案に反対する以上、国政に関わる者として対案を出すべきだという主張である。これは枢密院の審査手続きの慣習に基づいている。

そもそも枢密院が諮詢される政府原案を全否定することは稀である。審査の過程において政府案に問題があると認められた場合、枢密院は政府案への修正意見を出す。これを受け政府は諮詢そのものを諦めるか、原案を一旦撤回した後に、枢密院の修正意見と政府原案をすり合わし、新たな修正案を再諮詢するというのは、枢密院審査において何度も繰り返されたことである。枢密院が修正案を提示せずに政府原案を否決することは制度上あり得ないのである。
支払猶予令という倉富の穏当な対案は審査委員会の大勢となり、伊東も

政府が決議前にこれを撤回することが穏当なるべく、是非ともこれを否決するには及ばざるならん

と述べて、審査委員会の形勢を若槻に内報し、原案撤回を促し、別案諮詢の余地を与えるというふうに軟化した。こうして若槻に見くびられていた倉富は伊東ら顧問官を説き伏せ、枢密院の総意をまとめ上げることに成功した。

12. 台湾銀行救済緊急勅令案・陰謀論

審査委員会の話し合いを受け、倉富は若槻に対し原案撤回交渉を行った。
もしここで若槻が緊急勅令案を撤回し、修正案を作成して諮詢するならば、総辞職は回避出来たであろう。しかし若槻は

政府にては千思万考の結果、原案より外に財界を救済すべき方法なしと思い、緊急勅令を奏請したるものにして、この案を外にして他に施すべき方法なし

と述べて、原案に固執した。その後、若槻は原案撤回を閣議に諮り、その結果、内閣の総意として緊急勅令案を撤回せずに、枢密院本会議に諮ることを選択した。
何故、若槻内閣はここまで強硬的であったのか。
その理由は、若槻が緊急勅令問題を極めて政治的な問題だと捉えていたからであった。つまり、枢密院の中に政友会と結ぶ顧問官がおり、緊急勅令問題の審議の中に倒閣の陰謀があると観測し、初めから対決姿勢を以って臨んでいたのだ。

そもそも若槻は伊東ら枢密顧問官たちに良い印象を抱いていない。

枢密院の人たちは、世間の実際にはほとんど無頓着で、理屈ばかり並べる。その理屈も、憲法論だけでなく、不純な空気もある。いろいろな思惑の人がいる。ことに私の内閣に対して好意を持つている人はいない

このように述べたのは、若槻が第二次大隈内閣の蔵相時代に、何度も枢密院の厳密な憲法解釈に苦しめられたからであろう。

更に政界には、実際に政友会の倒閣運動が噂されていた。
山県の政治秘書として政界で暗躍していた松本剛吉は、政友会に親しみを持つ一方、日記の中で若槻を「嘘つき礼次郎」と断じ、若槻内閣倒閣を画策していた。震災手形問題が政治問題に発展すると、松本は貴族院研究会の馬場鍈一と結んで政局を起こそうとした。そして、緊急勅令が枢密院に諮詢されると、枢密顧問官に働きかけ、平沼がこれに応じたという。このような動きがあったので、伊東・平沼・馬場が政友会内閣のために策動していると噂されるようになる。
27年6月の中央公論に、若槻内閣倒閣の真相として、この陰謀論が紹介された。記事によると、台湾銀行の窮状を耳にした馬場が伊東に伝え、内閣は一突きすれば倒れると意見した。伊東はこの意見を容れ、以降、伊東邸には平沼や、平沼の弟分である鈴木喜三郎(政友会代議士)が集まり、密談を活発にしたという。この記事がどこまで事実に基づいて書かれたかは不明ではあるが、馬場はこの記事を読んで苦笑したと言われている。

後に衆議院において、枢密院と政友会の陰謀の証拠として、審査委員会が原案を否決した後、平沼が鈴木に対して「枢密院否決内閣瓦解ノ兆アリ直グ帰レ」という電報の存在が挙げられた。枢密院副議長である平沼が政友会の一政治家に対してこのような内容を伝えることは政治上の陰謀であるが、この電報が実在したのかは明白ではなく、平沼は全くの虚構であると新聞に語っている。

このような倒閣の噂があったからこそ、若槻は臨時議会召集を頑なに拒んでいた。前議会は朴烈事件のような虚実不明なスキャンダルを野党が叩いて国会を空転させる、非常に低レベルな政争が繰り広げられていた。そのような所に台湾銀行救済法案を上程すれば、倒閣を狙う政友会が利用するのは目に見えているし、政局がどのように転ぶのか想像もつかない。審議が長引けば、それだけ恐慌は長引く。若槻が議会を回避しようとした理由も理解は出来る。ただし、議会軽視の誹りは当然受けるであろう。

枢密顧問官たちへのネガティブイメージと、政界の裏における策動が重なり、若槻は枢密院において政治闘争が行わていると思い込んだ。憲政会の重鎮である桜内幸雄は戦後の回想の中で、若槻が台湾銀行救済を緊急勅令に依ろうとしたのは、捨て身の戦術に出たからだと説明している。

緊急勅令案が、未だ上奏裁可を経ぬ矢先に、早くも枢府方面に、次期政権についての陰謀が起こって居ることを耳にしていたので、少なからず不快を感じていたのと、枢府の党派癖を粉砕して、最も公明なものとするには、絶好の機会であると考えた

若槻は緊急勅令が容易に枢密院を通過しないと予期していたが、この切迫した状況で国民の利害を無視する訳がないとも考えていた。しかしそれでも枢密院が倒閣の為に緊急勅令案を潰すのであれば

その時は、自ら憲法の番人を以って任じしかしながら、かえって憲法の基礎を危うくする枢密院の態度の正邪曲直を国民大衆に訴えて、輿論を喚起し、延いて枢密院の改革を断行せねばならぬ。これ我が憲政の癌を除く所以の道であって、これが為には自分の内閣の命脈などはどうでもよい

天皇の諮問機関であり、国家の重大事を審査する枢密院において陰謀を巡らせた者たちの存在を国民に訴え、総辞職を選択して輿論を喚起し、枢密院改革に邁進しようと考えていたとは、勇ましい限りではある。しかし、枢密院に陰謀があると決めつけ、諮詢奏請の段階から対決姿勢を取っていたというならば、財界や国民の一般生活を守る責任を放棄し、その責任を枢密院に転嫁していると言わざるを得ない。
戦後の回想であり、内閣総辞職後の若槻の動向を見る限り、台湾銀行救済をダシに枢密院の悪行を暴き、総辞職して枢密院改革をするなどというのは多大な脚色であるとは思うが、若槻内閣が枢密院に何かしらの陰謀があると思いこみ、冷静な判断を失っていた可能性は高い。

13. 台湾銀行救済緊急勅令案・審査報告書

原案撤回交渉を拒否された審査委員会は、政府案の不承認を決定した。
その審査報告書において、台湾銀行救済は公共の安全の保持や災厄を回避する為の緊急の必要には当たらず、憲法第八条は適用されない。また、単に時間的余裕がないという理由で帝国議会を召集せずに第七十条を適用することも出来ないと断じ、政府原案の違憲論を指摘している。
また、審査委員会内では、憲法第八条について憲法義解の註釈として

政府にしてこの特権に託し、容易に議会の公議を回避するの方便となし、また以って容易に規定の法律を破壊するに至ることあらば、憲法の条規はまた空文に帰す

とあることから、若槻の議会回避の姿勢はこれに反するとの意見も出ていた。

ただし、審査報告書内には

刻下財界の安定を目的とする措置に至りては他に適法妥当の途を採るべきものとす

とあり、何かしらの経済対策の必要性は認識されていた。その適法妥当の方法こそ、支払猶予令を緊急勅令で発布し、財政上の処分については臨時議会を開いて付議すべし、というものであった。

このように諮詢直後こそ、平沼が政府案を否決するかもしれないという強硬意見を示したものの、審査委員会は支払猶予令提案や原案の自発的撤回勧告など、政府との破局を極力回避しようと努力していた。

倉富は後に西園寺に対し

内閣更迭はやむを得ずとするも、その原因が直接に枢密院にて緊急勅令案を否決したることに在りたるを遺憾とす

と述べている。
倉富は枢密院と政府の調和を図ろうとしたが、若槻は聞く耳を持たずに妥協点を得れなかった。その結果(内閣総辞職)の責任を枢密院が負うことを遺憾だと感じていたのだ。

14. 台湾銀行救済緊急勅令案・本会議前夜

政府が原案を撤回しなかったことで、枢密院本会議が開催されることとなった。
その日程について、二転三転する。当初倉富は、政府が緊急の要件だと主張していたので、翌日の16日に本会議が開催される可能性があると告げた。
若槻は前言を撤回し、否決を急ぐ必要もないと述べて、本会議開催を先延ばしにしようとしたが、これには倉富も

これまでは一刻を争うと言うて急速の手続きを請求し、委員会の形勢不可なりとて、なるべく緩にすることを望むと言われては、枢密院は全く政府の意のままになることとなる

と述べて、若槻の提案を断っている。その後、枢密院内部で日程の調整が行われる中で、若槻が評決を急いでいないとの情報から、開催を急ぐ必要もないとし、4月23日に調整された。ところが同日夜、急を要すると閣僚に突っつかれた若槻が再び前言を撤回し、17日開催の希望を伝えてきた。このやり取りに倉富は相当困惑したという。

ところで、政府が原案撤回ではなく枢密院本会議の開催を選択したのは、勝算があってのことであった。枢密院本会議における諮詢事項の評決は単純な多数決である。本会議に出席する枢密院議長以外の顧問官と、各閣僚に一票ずつ与えられた。
当時、枢密顧問官は議長を含めて24名、閣僚は12名である。顧問官のうち、5名は病床にあって出席の目処が立っていない。つまり枢密顧問官を4名切り崩せば、緊急勅令案は可決される票読みであった。
この票読みから、本会議の評決で多数決の勝負に持ち込む事を主張したのは、浜口雄幸内相であった。浜口は閣僚や大蔵官僚に対し、枢密顧問官を戸別訪問し、説得するように指示している。
浜口はこの多数派工作が成功すると見込んでいたが、それはとんだ見当違いであった。露骨な切り崩し工作に、顧問官たちは反感を覚えていた。しかも多くの枢密顧問官と縁故がある渋沢栄一を使って説得させるというやり方は、不味かった。
枢密院事務規定には、枢密顧問官は閣僚とのみ公務上の交渉を持つと定められており、閣僚でもない渋沢が枢密顧問官と交渉を持つのは、枢密院の政治的独立を脅かすものであった。こうして切り崩し工作は逆に枢密顧問官の結束を強める効果をもたらしたのであった。

若槻内閣は、審査委員会の提案を受けて緊急勅令案を精査するのではなく、顧問官切り崩しの政治工作を選んだ。枢密顧問官が政友会関係者と結びつき、緊急勅令案が却下された…そのような主観に支配された若槻内閣は、本来やらねばならない政策議論や原案修正を疎かにし、見当違いの政治闘争を行い、ありもしない陰謀論を喧伝したのであった。
そのような、ズレた態度を取る若槻内閣に対する反撃が、枢密院本会議で繰り広げられようとしていた。

15. 台湾銀行救済緊急勅令案・枢密院本会議

4月17日、若槻内閣が諮詢した緊急勅令案を巡る枢密院本会議が、天皇臨席の下、開催される。枢密院側は逆転可決を回避するために、病床にあった枢密顧問官を出席させて人数固めを行うなど、強硬姿勢をもって本会議に臨んだ。

若槻は伊東らの憲法論に対し、もし緊急勅令が出されない場合

公共の安全の甚だしく害せらるべきことは言うを待たず。しかも台湾銀行の資金枯渇は事情すこぶる切迫し、これが救済は到底帝国議会の召集を待つこと能わざる

とし、現状は「内外の情形により議会を召集し能わざる場合」であると解釈して、合憲であると主張した。また本件の前例として日清日露戦争や、韓国併合時の憲法第七十条適用の事例を挙げた。若槻の主張が終わると、例の如く演説原稿を用意し、準備万端の伊東巳代治の反撃が開始される。
伊東は諮詢案をあらゆる方面から攻撃した。

現内閣は、台湾銀行の破綻に因る恐慌を口実として、巨額の負担を国庫に強いむとす。然れども今、世間に起れる恐慌は、一台湾銀行の為に非ず。現にこれに関係なき不確実なる若干の銀行破綻の為、幾万の預金者、悲鳴を挙けつつあり、関西地方に於ては、此の形勢、一層甚しからむとす。

伊東は緊急勅令案の経済方面の穴を指摘した。
若槻内閣は、金融恐慌の原因は台湾銀行の抱える鈴木商店の不良債権であり、それを処分して台湾銀行の破綻を防げば事態は沈静化すると考えていた。しかし伊東は、全国の銀行の状況を踏まえれば、ただ台湾銀行を救済するだけでは金融恐慌を収拾することは出来ないと述べている。(よってまずは支払猶予令によって取り付け騒ぎを沈静化し、台湾銀行の財政処分については臨時議会を開くべきという意見)
そもそも緊急勅令案は恐慌対策としては不十分である、という強烈な指摘である。

次に伊東は得意の憲法論の指摘に移る。憲法第八条について

その目的は専ら消極的事項に限り、利益の伸長幸福の増進というが如き積極的事項にこれを使用するを許さず

であるとし「一銀行一会社の利益保護の為、日本銀行条例に特例を設ける」とする政府案に憲法第八条は適用できないと述べた。
憲法第七十条については「公共の安全を保持する為、しかも内外の情形により議会を召集すること能わざる時」に限られて適用されるとし、台湾銀行救済はその「公共の安全保持」には該当しないと断じた。更に憲法第七十条の要件について「議会の召集不能は事実上の不能の謂なり」と解釈し

今日国内の情形においては現内閣員を除くの外、誰一人臨時議会を召集し能わずと思うもの無し

と批判している。若槻の挙げた日清日露の前例については

何も国家応急の場合にして、これを一銀行破綻の場合と同視し難き事は諺に言う提灯と釣鐘と類なり

と政府解釈を否定し、憲法第八条、第七十条ともに不適用であることは明瞭であると述べた。

それだけではなく、審査委員会における政府側の、臨時議会を開くと議論が沸騰して恐慌が深刻化するし、台湾銀行の破綻は切迫しているので議会を開く余裕もない、と言う説明に対しては

議会において議論沸騰することは内閣に取りて不便ならむも、これが為に議会を召集し能わずと言うべからず。また恐慌は既に到来せり

と述べて、議会を軽視する政府の姿勢を厳しく非難した。

続けて伊東は、政府の体面を考慮して原案撤回の勧告を行ったがそれに応じなかったこと、本会議開催の日程を二転三転させたことを挙げ連ね、それに一つ一つ丁寧に非難を加えた。特に顧問官切り崩し工作については余程怒りを覚えていたのか「卑劣極まる手段」と断じて、以下のように述べた。

枢密院は天皇の至高顧問府にして、その職責極めて重し。この如き誘惑に陥る者は我顧問官中一人も無きことを記憶せられたし

ここで伊東の矛先は幣原外交批判に向けられた。

一銀行の救済の為に前後合わせて四億七百万を人民の膏血の結晶なる国庫の負担に帰せしめ、他方においては数万の支那在留邦人の窮状を無視して顧みず

これは、幣原喜重郎外相が南京事件に対して不干渉政策を取った事への皮肉である。これに対し幣原は、これは詳しくは弁明しないとしつつも「同顧問官の御意見は畢竟対支問題を理解せられざるに因る」と言い返したが、逆に

対支外交に付、現内閣の無方針なることは他日機会を得て充分開陳したいと思う。ただし現外務大臣が引き続きその地位に在らるるやを疑う

と痛烈にやり返した。これに黙っている幣原ではない。伊東が、政府が南京事件の報道を禁じたと放言したのを捉え、枢密院本会議後に幣原はこう述べた。

よく調べもなさらずにご自身一個の憶測により、虚構の事実をもって論断せられるのは、甚だ迷惑千万です。陛下の前で、虚言をもって私を中傷されるのはどういうわけですか。如此くして世間を惑わす責任はいかにお考えになりますか

もはや売り言葉に買い言葉である。幣原は余程腹に据えかねたのか、袖を捲り上げて、伊東を殴ろうとした逸話まである。

さて、伊東が枢密院本会議という場で、諮詢案に関係ない幣原外交を難じた為、宇垣一成陸相は緊急勅令案の否決に政変の意図であると理解した。

枢府の反対は表向は憲法擁護なるも裏面の消息によれば軟弱外交の政府を倒すの目的より一致反対に出しなりと

ここに伊東ら枢密顧問官が幣原外交を嫌って、倒閣運動を働いたという説が浮上した。当然、宇垣は若槻内閣の閣僚であり、多分に主観的であるが、この資料が何の疑いもなく採用された為、伊東陰謀論が永らく定説となった。
しかし、伊東の幣原外交に関する発言は、それほど重要な意味を持っていない。枢密顧問官としては職権を逸脱していると言わざるを得ないが、幣原外交批判は一連の緊急勅令案批判の文脈の中にあり、これによって若槻内閣を倒し、政友会内閣を成立させる意図は見受けられない。

伊東の舌鋒は、若槻内閣の責任論にまで及んでいる。
若槻内閣は前議会において震災手形関連法案を議決し、政府当局がこれを以って財界を安全にすると言明したにも関わらず、議会閉会後間も無く、この緊急勅令を発布しようとしている。その声明に対する責任は何処にあるのか。

朦朧杜撰の計画を立て、与党の多数に頼りて議会を通過せしめたるも、その失敗の跡を蔽はむか為、重ねてこの如き御諮詢案を奏請せられたるは実以って容易ならざる

最後に伊東は、このような強烈な文言で締めくくった。

昭和新政の初頭に方り、この如き案を闕下に奏請したる内閣の責任軽しと言うべからず。内閣がこの如き朦朧杜撰なる案を立て上陛下を欺き奉り、下議会を欺くの責任を感じ、この案の終局として如何なる挙動に出てらるるかを刮目して見むと欲す

伊東は政府の台湾銀行処理に関する一連の失策を批判し、憲法解釈についても斬り捨て、政府の責任問題まで踏み込んだ。この場にいた田顧問官をして「枢密院開始以来所不曽見なり」と言わしめたほど激しい演説であった。

他の顧問官は伊東ほど厳しい言葉ではないが、政府の台湾銀行処理の失策を指摘し、憲法擁護の立場に立って、政府案に反対した。これに対する政府側の答弁は要領を得ず、枢密顧問官たちの政府攻撃を真正面から受けることとなった。
採決の結果、全顧問官が審査委員会の報告書採用(緊急勅令案拒否)に賛成票を投じ19票となり、台湾銀行救済勅令案は否決された。

15. 若槻内閣総辞職

若槻は本会議の帰り際に、帝大の同期であった荒井賢太郎枢密顧問官から

何でもないじやないか。すぐ臨時議会召集の手続をして、モラトリアムの緊急勅令案を出せば、枢密院はきっと通すから、そうせい

と忠告を受けた。荒井は大蔵省で主計局長を務めたほどの財政通であり、荒井こそ緊急勅令案の問題点に気づき、支払猶予令(モラトリアム)による解決を望んでいた人物であった。伊東や倉富ら経済論を支えたのは、荒井である可能性が高い。
しかし、若槻はこの時、かなり興奮しており、聞く耳を持たなかった。天皇臨席の枢密院本会議において、あれほどまでに論難されたのだから、仕方がない。

緊急勅令案が否決された若槻内閣が取るべき道は2つあった。
一つは反対上奏である。
枢密院は天皇の諮問機関に過ぎず、本会議での採決の結果は、国家としての最終決定を示すものではない。仮に否決となっても、政府は天皇に上奏して裁可を仰ぐことも出来た。これを指摘した宇垣は

枢府の否決に対して反駁的緊急意義を上奏して聖断を仰げ、枢府の意見に屈服するは将来に悪例を貽すもの

と若槻に進言し、閣内において反対上奏論は優勢であった。

これに対し、強固に総辞職を訴えたのが片岡と若槻であった。
反対上奏とはつまり聖断を仰ぐという事である。政府の所信を問う為に、即位まもない昭和天皇を悩ませるのはあまりに恐れ多いことである。天皇を政治の焦点とするような事態は何よりも回避すべきであった。
それに反対上奏となれば、どれほど時間が想像もつかない。何よりも優先されるべきことは、昭和金融恐慌の沈静化である。それを為すには死に体となった内閣ではなく、次の内閣に託した方が良い。
このようにして若槻内閣は総辞職を選択した。総辞職後、若槻は

憲法上政府と対立せる他の機関が政府と見解を異にし、反対の態度を表明する時、政府は断然辞職してその是非を国民に訴えるの外、取るべき途はないのであります。私どもはかく信じて骸骨を請いました

と述べている。最終的な政治的決断を天皇に委ねるといった事態は、選択肢には無かったのだ。

辞表提出後、片岡はその足で日銀に出向き、台湾銀行が破綻すればその余波は日銀に降りかかると述べ、台湾銀行救済問題について傍観の立場にあった日銀の当事者意識を喚起した。その上で解決策として、各銀行とシンジケートを組んで台湾銀行を救済すべきだと提案した。仮に政友会内閣となっても、憲政会は台湾銀行救済に賛成するので、そのシンジケートが損をすることはない。

私は朝に在ると野に在るとを問わず、誓ってこのことを実行する。私一人で安心できぬというなら、官邸に全部の閣僚が待っているから、全部ここに呼んで私の言ったことを裏書きさせよう

と熱弁を振るった。事実、片岡は若槻内閣の閣僚の面々を首相官邸に足止めさせていたのだ。これに対し日銀は「それには及ばない」と述べた。片岡はこの言葉に安心したが、この意味は日銀は不良銀行を見捨てるという意味であった。

内閣総辞職翌日、金融恐慌の第三波が到来する。片岡の提案を無視して日銀が救済案を立てなかった為、台湾銀行が休業を決定し、それに連動して中小銀行が次々と休業に追い込まれた。
21日には大銀行の一つ、十五銀行が休業した。十五銀行は宮内省が大株主であり、宮内省金庫番と称され、皇室の預金も扱っていた為、政府から手厚い保護を受けていた。十五銀行が駄目なら他の銀行も危ういと流言飛語が飛び交い、中小銀行だけでなく、安田銀行や三井銀行などの大銀行でも取り付け騒ぎが波及。経済界だけでなく一般の預金者を巻き込んだ大混乱が生じた。

16. 裏白二百円札

4月19日、元老西園寺は政友会総裁田中義一に大命を降下した。憲政会内閣が失政で総辞職したので、次の政権は反対党である政友会に移譲するという憲政の常道が、ここに完成した。

田中内閣がまず真っ先に取り組まねばならないのは、昭和金融恐慌対策である。
そこで組閣の大命を受けた田中は、その足で高橋是清を訪問し、大蔵大臣として入閣してほしいと告げた。
高橋はこの時、すでに74歳。山本内閣や原内閣で大蔵大臣を歴任し、政友会総裁を務め、総理大臣まで経験した大人物である。田中は金融恐慌を収めるためには権威のある人物が信用ある政策を行うことが重要だと考え、高橋を起用した。
高橋は金融恐慌を収めるのに自信があったようで

私の見込みでは3、40日あれば一通り財界の安定策を立てることが出来る

と豪語している。高橋の就任には前任者の片岡も安心したようで

私の心境は、高橋君を後任に迎えたことによって、明るく、かつ朗らかであった

と述べている。

高橋は金融恐慌を収束させる為、直ちに臨時議会を召集して安全策を立てること。閉会までの応急措置として、二日間、銀行に自発的に休業してもらい、その間に三週間の支払猶予(給料の支払い、一日500円以下の銀行預金の支払いを除き、金銭債務の支払いを21日間延期する)の緊急勅令(憲法第八条適用)発布する方策を立てた。

この方法は倉富らの私見と合致している。しかし倉富は、以前伊東が支払猶予令にも反対していたことを不安に感じていた。この緊急勅令案に反対すれば枢密院の体面に関わる。案の定、伊東は憲法第八条の適用に反対の意見を持っていた。倉富はこれに対し

それは困る。どうしても承知せざるならば、この節はやむを得ず数にて通過せしむるより外に致方なからん

と述べ、顧問官に根回しをしてでも多数決にて原案通過させる強硬姿勢に出た。平沼も、倉富が従来主張してきた支払猶予令が諮詢されたならば反対する理由はなく、一般国民をも巻き込んだ経済の混乱を前に、杓子定規な憲法論をなおも振りかざす伊東に苦言を呈している。

ここを見るだけで、伊東が政友会の陰謀に乗っていないのがわかる。伊東にあるのは純然たる憲法論であり、田中内閣が諮詢する支払猶予令をも潰そうとしていたのだ。伊東は結局、枢密院の大勢を前に説得を受け入れた。

4月22日、田中内閣は支払猶予令緊急勅令案を枢密院に諮詢。何ら反対意見はなく、僅か80分で可決した。
なお、若槻内閣の時は拒否した緊急勅令案を、田中内閣の時はあっさり可決したと、その党派性は度々指摘されるが、ここまで読んでいただければわかる通り、若槻内閣が諮詢した緊急勅令案と、田中内閣が諮詢した緊急勅令案は、そもそもその中身はまるで違う。

この審議において審査委員長を務めた平沼はこのように述べている

前内閣に於ては、台湾銀行の破綻の影響を恐れ、これが救済の為、緊急勅令の発布を奏請し、其の案が本院に御諮詢ありたる際、本院に於ては同案は憲法七十条に適合するものと認め難しとの理由に因り、更に内閣に於ても審議を尽すべきものと為し、其の旨を上奏したるが、当時審査委員会に於ては固より銀行救済の必要を認めざりしに非ざるか故に、之が為、他に適法妥当の方法を講すへき旨を表明したり

この発言に、若槻内閣の緊急勅令案に対する枢密院の提案が集約されている。枢密院は台湾銀行救済緊急勅令案については憲法上否決するが、台湾銀行に限定せずに一般銀行の救済(支払猶予令)について考えるように求めていた。
支払猶予令緊急勅令案に対し、伊東も

此の緊急勅令案は単に一銀行の為に積極手段を執らんとする違法のものに非ずして、汎く全国一般に亘る警戒の為、消極手段を執らんとするもの

と述べて賛成した。

この支払猶予の間に、高橋は日銀に印刷機をフル稼働させて、紙幣を印刷して各銀行に貸し出した。印刷だけでは足りないので、当時廃棄が決定し、永らく金庫にしまわれていた旧十円札(通称イノシシ)までもが動員された。
十円札を刷っているだけでは間に合わないので、五十円札、二百円札を新造した。この新造紙幣は実際に使用されない、預金者を安心させる為の見せ金で、二百円札に至っては大急ぎで刷ったので片面刷りの裏が白いままだったという。
うず高く積まれた十円札を期待して銀行を訪れた預金者が、机の隅っこにちょこんと置かれた二百円札を見て、拍子抜けした逸話もある。(余談ではあるが、未発行であった五十円札がなんでも鑑定団に出され、その評価額は一千万円であった)

各銀行は猶予期間終了後の取り付けに備える為、店頭にこれ見よがしに札束を積み上げて、いくらでも預金の引き出しに応じる姿勢を見せた。預金者もそれを見て安心したか、銀行が再開する25日には取り付け騒ぎは収まっていた。
恐慌を収束する為に、支払猶予令が効果的であるという枢密院の指摘が正しかった事が証明された。(それを高橋のような信頼がある政治家が行う事で、より効果的であった)

17. 昭和金融恐慌後始末

5月3日、田中内閣は支払猶予令の事後承認と、日本銀行特別融通及損失補償法案(日銀が損失を受けた場合に5億円を限度に政府がその損失を補償する)と台湾銀行に対する資金融通法案(台湾銀行に対する二億円を融通する)の協賛を得るために、臨時議会を召集した。この時、衆議院において憲政会の議席は政友会を上回っていたので、これを否決して田中内閣を倒閣することは出来た。憲政会の安達謙蔵を始め、内閣不信任案の提出を主張する強硬派もいた。

しかし、国会で再び泥仕合を演じれば、落ち着きを取り戻した金融界が再び動揺するのは明らかである。若槻は高橋に使いをやり、法案に対して憲政会は必ず賛成すると明言し、なるべく早く断行するように依頼した。

5月8日、法案は衆議院を通過して貴族院に通されたが、会期終了まであと6時間となっていた。会期延長となれば金融界がどう動くかわからない。しかし質問が延々と続き、高橋もイライラし始めたところ、大蔵大臣経験者の阪谷芳郎が突然立ち上がった。

本案は完全無欠とはいえない。しかしながら、我が日本は今やまさに、怒濤逆巻く海の中へ乗り入れた船のようなものである。高橋という老船長が舵をとって、今や一所懸命にこの波を乗り切り、彼方の岸に達せんと苦心苦労している。かような場合に、この船長の耳のそばに行って、あっちへやれこっちへやれと色々指図することは、断じて面白くない。この際よし多少の不満はあっても、我々は高橋蔵相の人格と手腕と徳望とに信頼して、一言半句の修正を加えず絶対に翻案に賛成の意を表したい

この大演説により質問の嵐は収まり、夜11時を過ぎた頃にようや法案は成立した。

実にこの日の貴族院ほど緊張し、そして感激に満ちた光景は、私の経験中稀に見たところで、私は非常に満足であった

高橋はその日の出来事をこのように回想する。
銀行、金融市場は完全に落ち着きを取り戻した。高橋は最後の仕上げとして、危機管理がない日銀総裁を更迭して、井上準之助に総裁を引き受けるようお願いした。こうして全ての難問を片付けた高橋は6月2日に蔵相を辞任した。

この金融恐慌で全国で44行の銀行が破綻し、8億円の預金が失われた。預金がフイになったことに悲観して命を絶つような悲劇があちこちで起きていた。

18. 枢密院弾劾決議案

5月3日、憲政会と政友本党が合同し、新党クラブ(後の民政党。便宜上、民政党とする)を結成した。民政党は枢密院によって若槻内閣は倒閣されたと考え、この臨時議会において枢密院を弾劾する動きが生まれた。ただしその形式には意見が割れた。血気に逸る若手中堅議員は弾劾を上奏すべきと主張するのに対し、若槻ら幹部連は上奏は不穏当であるので議会にて決議とすべきと主張し、民政党内は枢密院の行動に関する決議案を衆議院に提出する事で決着を見た。
対して政友会は、天皇の諮問機関を議会が弾劾することは適法とは思えず、若槻内閣が二億円の負担を緊急勅令で国民に負担させようとした際に、枢密院は民意を尊重して臨時議会を開くべきと進言したのだから、衆議院が枢密院を弾劾することは議会の自殺行為であると指摘し、反対の意向を表明した。

5月6日、衆議院において、以下のような枢密院弾劾決議案が提出された。

前内閣が財界の動揺を防止し、公共の安全を保持し緊急の需用に応ずるが為、緊急勅令案を奏請せるに枢密院がこれに反対の意見を奉答し、財界空前の動乱を惹起せしは不当なりと認む

5月7日に枢密院弾劾決議案の説明演説に立った民政党の中野正剛は

責任なき者が、国民に対して責任を負わざる者が、責任ある内閣に向かって事実の認定を争い、政治に干与するにおいては、立憲政治の責任の帰着点が明白にならない

とし、枢密院がその職権を越えて、枢密院官制第八条の施政不干与の規定を犯したと主張した。なお施政不干与の規定を、政府の政策を一切議論出来ないと解釈するのは誤りである。施政不干与とは枢密院が直接政治を行わないという意味であって、天皇の諮問機関に過ぎないと規定したものであり、枢密院が諮詢事項について政府と意見を戦わせることは自由である。

中野が枢密院官制を理解していなかったのは置いておいて、問題は台湾銀行救済緊急勅令否決に伴う政治の責任の帰着点であった。その観点から枢密院制度の問題を浮き彫りとし、枢密院改革に繋げることが、責任内閣制を確立するために必要だと主張している。中野の主張は的を得ている。国民に選任された訳でもない枢密顧問官たちが、国民に選任された代議士たちからなる政府を掣肘し、その結果、経済界の大混乱を引き起こした。その責任は誰が取るのであろうか。

この主張に対し、政友会は若槻内閣が枢密顧問官の罷免奏請や、聖断を仰がなかったことを批判した。弾劾の対象となっていた伊東も

枢密院は陛下の御諮詢に奉答したるものがなるが故に、もし若槻内閣がその奉答を不可なりと思惟するにおいては、堂々これに対抗して自己の所信を上奏し、聖断を待って後進止を決すべき

であり、それを行わずして弾劾決議を行うのは無法であると批判した。この言い分も尤もではあるが、仮に天皇の聖断を仰ぐようなこととなれば、責任内閣制から遠ざかってしまう。

結局、枢密院弾劾決議案は可決されたが、肝心の枢密院改革は行われなかった。田中内閣は枢密院改革を行うつもりは毛頭なかったし、民政党内においても、具体的に枢密院をどのように改革するのか、殆ど議論は進んでいなかったのだ。

弾劾された枢密院側は当然反発する。倉富は、若槻が枢密院会議の内容を漏洩し、しかも事実と異なる事を述べて、自分の非を隠していると憤っているし、平沼に至っては弾劾決議案に何かしらの措置を講ずる必要があると感じていた。
だが、枢密院は制度上、能動的に動ける機関ではなく、倉富はむしろ一切関係しないほうがいいという意見であった。これに伊東も同調し、枢密院側から何ら弁明が公表されることはなかった。
これ以降、枢密院は民政党に対する批判と警戒心を示すようになり、これが後のロンドン条約批准問題の伏線となる。

一方、言論界は枢密院の非を訴える民政党に厳しい目を向けていた。そもそも憲法第七十条の適用は、議会の権限を軽視するものである。東京朝日新聞は

緊急勅令と緊急財政処分を濫用して、議会協賛の機会を奪い、国民の負担を増し、財政計費を覆す如き事を、議会の承認無しに断行するの暴挙に反対しなければならない

と批判し、議会を開ける状況にあったのに、それを行わなかった若槻内閣を批判している。
もっと厳しい目を向けていたのは憲法学者の美濃部達吉であった。美濃部は元来、枢密院改革論者であったが、この一件に関しては枢密院の立場を擁護し

もし緊急勅令案が憲法違反であると信ずるならば、たといその結果が内閣の更迭を引き起こすことになるとしても、その憲法違反なる事を上奏するのは、敢えて枢密院の権限を濫用したものとは言われない。何となれば憲法の蹂躙を防ぐことは内閣の運命を保持するよりも、枢密院に取りては遥かに重要なる職責であるからである

と述べて、政変の責任は枢密院ではなく、適当な手段を講ずることのできなかった若槻内閣にあり、枢密院弾劾決議案については

議会の権限の範囲外に出づるもの

と断じている。
枢密院の違憲判断についても、相当の理由があると信じていると擁護し、以前から知られていた台湾銀行の窮状に措置を取らず、臨時議会を開かずに、憲法第七十条を適用するという行為について

臨時議会も召集せず政府の単独の権力を以って実行せんとするのは、いかにも乱暴な処置であって、憲法上到底忍容し得らるべきものとは信ぜられぬ

と、厳しい口調で批判している。

まとめ 憲政会=民政党の問題点

憲政会=民政党は衆議院に基礎を置く政党内閣による議会政治の発達、責任内閣の確立を目指していた。その為に、政党内閣が責任を以って諮詢した緊急勅令案を枢密院が是非する権限はないと考えていた。それに加え、政友会が枢密院において倒閣の陰謀を企てていると観測したこともあり、枢密院に対して強硬的な姿勢を取るようになる。

しかし台湾銀行救済緊急勅令案に関し、枢密院の言い分は、憲法を狭義に解釈していたとはいえ、的を得ていた。それは高橋是清が実証したことである。
確かに、松本が政友会とともに若槻内閣倒閣の策動をしていた可能性は高いが、それが枢密院の審議に影響を与えていたとも言えない。にも関わらず、若槻たちは枢密院のありもしない陰謀に立ち向かい、内閣もろとも玉砕してしまったのだ。その結果は、44の銀行の破綻と、8億の預金の喪失であった。

もう一つ付け加えるのであれば、その議会軽視の姿勢も目に余る。議会が空転していたとは言え、議会の審議を回避したいが為に緊急勅令案に依ろうなどとは、議会政治の発達を口にする者の取るべき立場ではない。

憲政会=民政党の態度は、総じて言えば剛直かつ議会軽視である。この問題ある態度はこの後の民政党を象徴する浜口内閣において散見された。

例えば統帥権干犯問題がそれである。
統帥権干犯問題とは、条約によって決められる兵力量が、憲法第十一条に規定された統帥権に属するのか、つまりは軍令に決定権があるのか、憲法第十二条に規定された編制大権に属するのか、つまりは軍政に決定権があるのか、という憲法論議である。これを指摘した犬養毅や鳩山一郎が現代において指弾される事は多いが、問題は浜口内閣にもあった。というのも浜口は統帥権干犯問題については不答弁主義を貫き、議会における憲法論議を徹底的に避けた。
仮にこの時、毅然として兵力量は編制大権に属すると政府見解を披瀝すれば、後の統帥権の暴走は無かったかもしれない。

もう一つは昭和恐慌である。
浜口内閣は金解禁を断行したが、それにより日本経済は大打撃を受けていた。しかし政府は一過性の不況であると断定し、抜本的な恐慌対策(失業対策や企業救済)をおざなりにした。これに対し政友会は代議士を全国に派遣して実地調査を行い、不況に対する解決策を立案し、議会において政府の責任を追及した。しかし金解禁を絶対正義と見ていた浜口内閣は、活発な政策議論を歓迎しつつも、それに耳を傾けて政策を修正することは無かった。
抜本的な対策が講じられなかった不況が大恐慌に発展し、その後の日本の政治に暗い歴史を落とすのは周知の通りである。

浜口内閣の事例は、台湾銀行救済緊急勅令案で見られた剛直さと議会軽視の姿勢が引き継がれたものであった。

まとめ 枢密院の問題

台湾銀行救済緊急勅令案に際し、枢密院の態度は至極公正であった。
しかし中野正剛が指摘したように、国民に対して責任のない枢密院が、憲法をあまりに狭義に解釈する伊東ら一部の顧問官の暴走を統制できないまま、政治上の重要な決断を行うという問題は放置されたままであった。そして台湾銀行救済緊急勅令案に対しては誠実であった枢密顧問官も、常に公平で公正な審査を行うとは限らないという根本的な問題も残されていた。

その問題は田中内閣になってすぐに浮上する。
28年4月25日、治安維持法改正案が閣議に提出された。この改正案の主眼は二つある。「国体を変革することを目的として結社を組織したる者または結社の役員その他指導者たる任務を担当した者」を最高で死刑に処する厳罰主義と、「情を知りて結社に加入したる者又は結社の目的遂行の為にする行為を為したる者」を有期刑とする目的遂行罪の導入である。
しかしこの改正案は会期末期に提出されたことから、審議未了で廃案となった。

そこで田中内閣は、治安維持法改正案を緊急勅令(憲法第八条適用)として成立させようとした。これは非常に問題がある。治安維持法改正案は直前の議会で廃案となっており、それを議会を回避する緊急勅令によって制定しようなどとは、その場しのぎも良いところであり、議会軽視も甚だしい。

しかし倉富も平沼も治安維持法改正案に緊急性を認め、その成立に腐心する。現行法では党員以外の共産主義者を処罰できず、目的遂行罪の必要性を強調する政府の言い分はあるし、倉富も平沼もそれを認めている。
ただし枢密院が議会で廃案となった法案を可決した前例はない。そこで倉富らは、法案審議中に議会が解散となり、法案の効力が失効することを防ぐ為、政府が同法案を緊急勅令として枢密院に諮詢して可決された例を持ち出し、審議未了(議会で否決されていない)の法案を枢密院に諮詢しても違憲ではないと解釈した。しかし、この法案は衆議院にて多数を占める民政党が反対したことで可決の見込みはほとんど無かった。議会の意思は示されていないという倉富・平沼の見解は恣意的であり、田中内閣に有利な解釈である。

治安維持法改正案の審査過程については省略するが、枢密院が台湾銀行救済勅令案の緊急性を否定しながら、治安維持法改正の緊急性を是とする憲法解釈はあまりにも都合が良すぎる。枢密院は党派的であり、憲法審査機関としての正当性は低下したと指摘されても仕様がない。

このように枢密院もまた問題点を抱えながらも、改革されることなく、ロンドン海軍軍縮条約の諮詢にて再び政府との破局を迎えるのであった。

参考文献

「枢密院の研究」 由井正臣 編
「昭和初期の枢密院運用と政党内閣」 萩原淳
枢密院について。

「金融恐慌をめぐる枢密院と政党」 望月雅士
「台湾銀行救済緊急勅令問題と枢密院」 川上寿代
「政党内閣期の財政的緊急勅令と枢密院」 小山俊樹
台湾銀行救済緊急勅令案問題の定説を覆していった論文たち。

「昭和金融恐慌と緊急勅令」 宮地英敏 西尾典子
台湾銀行救済緊急勅令案問題についての最新研究。

「大正初期の「剰余金支出」問題」 国分航士
責任支出について。

「昭和戦前期の政党政治」 筒井清忠
大正末期〜昭和初期にかけての政争に焦点を当てた、ド定番の一冊。

「治安維持法」 中澤俊輔
治安維持法について知りたいならば、まず初めに読むべき。

「昭和経済史 」 中村隆英
「大蔵大臣の昭和史」 大谷健 
「蔵相 時代と決断」 一木豊
昭和金融恐慌について。


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