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12月29日のお話

車窓から、まっすぐ正面に満月が見えました。
眼下には町の明かりが、地味に、控えめに広がっています。

新宿発の特急電車。
カイネが乗るのは右側の窓際の席です。
駅で買ったコーヒーを口に運びながら、彼女は地図を頭に浮かべながら考えます。

『冬やから、お月さんの昇る位置は東からすこしだけ北。
それが真横に見えるから、あぁ、この列車は北北西に向かっているんやわ。』

目的地の方向から、電車は最初、西側に進んでいると思っていましたが、
今は進路を北に変えているようです。

窓の横で、カイネと伴走するように輝き続ける満月をみているうちに、彼女は旅の供を得たような気持ちになりました。

『まさか電車の旅のお隣さんが、お月さんやなんて』

周囲では仕事納めの挨拶が交わされている年の瀬に、こうして一人列車に乗るなんてさみしいと思っていましたが、そんな先ほどまでの気持ちが、一気にふきとぶ瞬間でした。
ひとり旅も、この贅沢に気づかせてくれるなら歓迎です。
そんなことを考えて、カイネが思わず笑顔になりました。

「そんな風に思ってもらえるなんて、光栄です」

そのとき、急に窓とは反対の席から、声をかけられました。
カイネが驚いて隣の席を振り向くと、そこには美しい銀髪の女性が座っていました。白髪では無く銀髪、色素の薄い長いまつげ、瞳の色はよく見えませんが、見た目は西洋人。流ちょうな日本語が不自然に思えるような容姿の女性です。

「あの…」

女性を視界に捉えながら、どう返答したものかと逡巡していたカイネはふとあることに気づき、先ほどまで眺めていた車窓を確認しました。

「あぁ、やっぱり…」

車窓を見て、納得したカイネの独り言に、後ろから女性のクスクスとした笑い声が聞こえてきます。
それなのに車窓にはカイネの姿しか映っておらず、窓の向こうにあったはずの満月が姿を隠していたのです。
つまりそれは、

「…お月さん。」

女性の方に向き直り、そう呼びかけると、女性は満足そうににっこりと微笑んで「はい」と答えました。
そのリアクションを受けて、カイネは「はぁ…」と小さく息をつきます。別に珍しいことではありません。カイネの周りには、いつも不思議な存在が現れては通り過ぎていくのです。亡くなった祖母にはじまり、人の言葉を理解する動物や、語りかけてくる植物、いぶし銀のような存在感を放つ骨董品に呼び止められたこともあります。
自分はそういう存在なのだ、と幼い頃から認識しながら、周囲のそうではない人たちと話を合わせてきた人生でした。

それでも、「月」という存在ははじめてです。

「ご一緒しても?」
すでに隣に座っているのに、いたずらっぽくウインクをして、月と呼ばれた女性は首をかしげます。
断ることなんてできないのに、と思いながら、カイネは頷く動作で質問に回答します。

「片桐カイネです。」
一応自己紹介をしてみても、「えぇ、知っているわ」と流されました。
「お月さんとお呼びしたら良いですか。」と聞いても「えぇ、どうぞ」と肯定されるだけで会話が終わります。

こうして自分の前に現れる不思議な存在は、大抵何か、訴えたいことや話したいことがあってやってくるものでしたので、そうやって特に何もなく隣に座られることに、カイネはどうしたらよいか困惑していました。
そんな彼女をよそに、月と呼ばれた女性は、どこからともなく保温ボトルを取り出すと、良い香りの紅茶を蓋のカップに注いで香りを楽しんでいます。その香りは何かの記憶を呼び出そうとしますが、どこで出会った香りなのかまではわかりませんでした。でもいやな香りではない、いやな思い出ではなさそう、ということはわかります。
それから二つほどトンネルを抜けても、特に二人は会話をすることもなく、カイネはコーヒーを、月と呼ばれた女性は紅茶を飲むだけで時間が過ぎていきました。

不思議な”不思議な存在”もいるものね。と、その状況に納得しはじめたところで、カイネは眠気を感じました。
このまま、お月さんを隣においたまま眠ってもええんやろうか、と少しだけ迷いましたが、眠気はその迷いを打ち消すように強い波となって押し寄せます。コーヒーをこぼしてはいけない、と、窓辺に置き直して、カイネは長く吐く息と共に眠りに落ちました。
まぶたを閉じる寸前、お月さんがこちらを見て、にこりと微笑んでいる様子を、見たような気がしました。

それからどのくらい時間がたったのでしょうか。
眠りの海から浮上して、意識が海面に近づいたところで、カイネは自分のまぶたに当たる「光」の強さに違和感を感じて覚醒しました。
「え…!」
目を開けると、車窓の外はすっかり夜が明けています。
乗っていたのは夜行列車ではなく、普通の特急です。夜の間に、終点まで到着するはずでした。それなのに、いま、カイネが乗っている列車はまだ動き続けていて、夜明けどころか昼間の明るさです。
カイネを驚かせた車窓の外の風景は、明るいことに加え、もう一つ。
眼下に雲が流れていることです。遠くに山陵が見えるので、空の上ではなさそうですが、雲の上になるほどの高さにある線路を列車が走っていることになります。

ここはどこだろう…
そう思ったところで、隣から、月と呼ばれた女性に声をかけられました。

「よく眠りましたね。おはようございます」

にっこりと微笑む女性をみながら、カイネは、このお月さんに、どこかに連れてこられたのだと直感的に思いました。
あそこで、眠るべきではなかったのかもしれません。いえ、でもあの突然襲ってきた眠気もそもそもおかしいものでした。お月さんを隣に座らせてしまった時点で、自分は”何か”に巻き込まれたのでしょう。

「あの…これは一体…」

これまで、不思議な存在に出会うことがあっても、それらはただ”通り過ぎていく”だけでした。
彼らにどこかに連れて行かれることもなければ、眠らされたり、何か危害を加えられたこともありません。それなのに今回は…。

困惑を通り越して、混乱しそうになっているカイネに、月と呼ばれた女性は少し困ったように微笑んで言いました。

「うーん、やっぱりまだ、思い出せないのね。」

女性の話は、こうでした。
カイネは本当は日本人の片桐カイネではなく、別の世界のお姫様。
動物や精霊、妖精の言葉がわかる不思議な能力を持つため、魔法使いの居住地に修行に来ていたところで、別の世界に姿を消したのだといいます。
その世界の名前はアリアテッロ、姫の名前はカリクル・カテキスト、国の名前はノルダテッロ。
そう教えられてもキョトンとしているカイネに、月と呼ばれた女性は、ため息をつきながら「よっぽど、修行がいやだったのね」と肩を落とします。
その様子を見ていると、眠る前の紅茶の香りとともに、脳の奥に、じわっと暖かい光がともったような感覚がありました。

「思い出したくない…」

思わずそうつぶやいて、カイネは自分の言葉にはっとします。

「そうでしょうよ。自分の記憶を消して、別の世界に飛び込んで、別の人生を謳歌しているのですから…」

別の世界に姿を消したのは、自己ではなく自分から姿を消した。私が、自分で。

「ちょっとくらいの息抜きは大目に見ていましたが、もう潮時です。時間切れ。」

思い出しそうな記憶を、思い出したくないと言う意識が押し戻しているカイネの頭に、月と呼ばれた女性の指が優しく触れます。

「人体に作用させる魔法は禁じられていとあれだけ言ったのに。記憶操作も禁止よ。私以外は。」

そう言い終わるが早いか、指先から光があふれカイネを包み込みます。
記憶を呼び戻す魔法。カイネは自分にかけられている魔法が、どんなものかを理解しました。
そして徐々に、カリクルだった頃の記憶と、自分で自分にかけた忘却の魔法も思い出しました。

「あぁ、思い出しちゃった…。」

カリクルがそうつぶやいたところで、列車がスピードを落としはじめました。
車窓を見ると、呼び覚まされた記憶の方で覚えのある魔法使いの居住地の景色でした。

「おかえりなさい、カリクル姫。修行を再開いたしますよ。」

そう言われて、観念したようにカイネ=カリクルはうなだれながら頷きました。

「はい。師匠。マイストロ・ククノン」

続く

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