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読者の心を書く|心の言語化

上手な文章を書くというのは、一つの技芸、能力であり、経済的に、社会的にも評価に値するものです。それに対し、ありのままの言葉を連ねた文章にも、また別の価値があります。それは共感を呼び起こし、思考の手掛かりや気づきを与えてくれるものだからです。

ところで、全く価値がない文章とは、どのようなものでしょうか。

「何か、書かれている」ことは分かっていても、何かわからない。
例えば、大昔に捨てたガラケーの説明書を見つけたとき、
それを読んで操作方法を覚えようとは思いません。
全く価値がないからです。

しかし、手に取って読んでみると、「そういえば、こんな機能があった」と
思い出して、懐かしくなります。
この場合、なぜか、そこに共感が現れたように思えます。

共感というのは、文章を書く側が与えるのではなく、
読む側が文章に与えるものなのでしょうか。
それとも、懐かしさを掻き立てるような文章であれば、
書き手が意図した通りに、作用するのでしょうか。

先に紹介したような偶発的な事例ではなく、
意図的に懐古させる文を考えてみます。

「プールから帰ると、チューペットを二つに折って、弟と分けた」

「チューペット」は、一度、記憶から消し去った語彙です。
日常の中で、ほとんど取り出されることのない記憶の断片です。
恐らく、脳内の記憶の経路が再接続されて開通したときに、
人は喜びを感じるようにできているのかもしれません。

しかし、記憶はその場限りで、また、しまい込まれるでしょう。
だから、文章として書き残しておこうという動機になります。
読者からも忘れ去られているような記憶を発掘する。
特に、懐古に限ったことではなく、支持を集める文を書く方は、
このような意図的な操縦方法を抑えているように思います。

■心の機微

心の機微について書かれた面白い記事がありました。
心の機微が感じ取れない人との接し方として挙げている例が、
相手と同じ振る舞いを、そのまま返すという内容です。
結局、分かり合うことではなく、主張し合う方が楽なのかもしれません。


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