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第8話 導きの神様

「ナマステ〜メガ〜」

聞いたことのある男性の声がドアの外に響いて、私は青い木のドアをそっと開けた。

「ナマステー?」

ヨガマットを肩にぶら下げた、彼の聖者のような穏やかな笑顔がそこにはあった。

このアシュラムに泊まっている旅人のイスラエリーのラニだ。

「ナマステ〜 This is from Maya」

そういうとラニはクッキーとメモを一枚渡してくれた。

「、、、Thanks」

メモを受け取り開いてみると、そこにはSorryという顔のかわいい絵と共に、チャイ屋の子どものところへはNext Time!とマヤの字で書いてあった。

何か理由があって来れなくなったらしい。

なんとなくこうなることは、どこかで感じていた。

残念そうに見せたくなくて、ラニにわたしは何の問題もないよという表情で笑ってみせた。

するとラニは独特の柔らかな英語でペラペラと話だした。

わたしが聞き取れたのは、身体に優しいものを食べに行くからもしよければ一緒にどうか?というようなことだった。
マヤからわたしが体調を崩していた話を聞いていたようで、気にしてくれているようだった。

わたしは昼間の体調の悪さは治っていて、すっかりお腹ぺこぺこだったけれど、辛いスパイスの効いたカレーを食べる気分ではなかった。

リシュケシュをよく知るラニとならば、きっとカレー以外の何かにありつけるような気がして、わたしはOKと言うと、彼は自分の部屋にヨガマットを置きに帰った。わたしは壁にぶら下げてあったショールとバッグを持ち部屋に鍵をし、先に表へ出た。

外へ出るとリシュケシュの独特の藍色の夜の香りがする。スパイスとお香と、ガンガーの匂い。アシュラムの前の道には、まだ人がうろうろしている。

旅人たちもインド人も夜は冷えるからセーターやダウンを着ている。ニット帽をかぶっている人もいる。

日本にいる時、インドって暑いイメージしかなかったから、なんだか今でも不思議な感じがする。冬の北インドは夜は意外と冷えるのだ。インド人のパンジャミ姿にセーターやショールを巻く姿はなんだかチャーミングに見える。

ラニが軽やかな表情で出て来た。
こっちだよと顔を傾げ、静かに歩き出す。
足の長いラニは一歩が大きい。

わたしは彼の横で彼のペースに合わせて少し大股で着いて行く。

ラニとはデリーからリシュケシュまでのバスで出逢った。
デリーのバス乗り場で、先に窓際に座っていたわたしの隣に彼は座った。

彼は大きなスラッとした身体をしていて、白いターバンを巻いていた。色白で日焼けした肌にはシミがてんてんとしていて、青く清い大きな瞳をしていた。
歳は30大半ばくらいだろうか。

彼は小さな座席がとても窮屈そうだった。
長い足が収まらず、膝を立てて座っていた。
あまりにも暑そうで窮屈そうだったので、わたしは窓辺の席を彼に譲ってあげた。ラニはすごく嬉しかったようで窓からの風を感じながら何度もお礼を言ってくれ、持っていたナッツをくれた。

それが私たちの出逢い。

デリーからリシュケシュまでは約8時間ほど。

その中で彼は自分がインドに来るのが5回目であるということと、ヨガをしていること、ビーガンであること、リシュケシュとガンガーを愛しているということ、旅するカメラマンであるということをわたしに熱く語ってくれた。

足元に置かれた手持ちのベージュ色の使い古されたリュックには、大きな一眼レフのカメラが大切そうに、でもいつでも世界の美しいその瞬間を捉えることができるよう置いてあった。


何枚か旅中に撮った彼の写真を見せてくれた。

インドの物乞いの子供たちの目の輝きとか、美しいサリー姿のインド人女性の凛とした横顔だったり、リキシャーを漕ぐインド人男性の力強さだったり、そこには旅の中で彼が出逢った美しい世界が広がっていて、どれも共感できる素敵な写真だった。

でもその写真より何より、ラニのこれからリシュケシュへ帰るんだ!という魂の喜びのエネルギーの方がわたしにはビシビシ伝わってきていた。

彼をそんなにも魅了するリシュケシュってどんな場所なんだろう。
ガンガーってどんな川なんだろう。

まだ知らないその土地への旅。
私の魂も喜びを隠せなかった。

それにしてもインドのバスはどうしてこんなにもスピードを出すんだろう。ビュンビュン追い越すし、クラクションもよく鳴らすし、心の中で何事もないことを神様に祈りながら、気づけば疲れてすっかり眠ってしまった。

何時間が経ったのか。

隣にいたラニが急にわたしの肩を揺すった。

眠い目を開けると、窓からの風がひやっと心地よく頬を撫でた。

空気が変わった。それは首都デリーの空気感とはまるで違う、どこか地元長野の山の中を思わせるようなひんやりとした空気だった。

「wow ガンガー!!」

ラニが窓に身を乗り出した。
そこには朝の霧に包まれた聖なるガンジス川が、朝日を浴びて流れていた!バスに乗っていた旅人たちがみんな歓声を上げた。

小さな窓の向こうに、雄大に流れるガンガーをこの目で見た瞬間。
なぜか涙が頬を伝った。

なんて美しいんだろう。

なんて、なんて、美しいんだろう。。。

わたしをずっと愛してくれていたお母さんと久しぶりに逢えたような、そんな不思議な再会の感動が魂から込み上げてしまった。

隣にいたラニのその青い目の中にも、ガンガーが映り込んでいた。
彼は喜びに震えながら、カメラを取り出しシャッターを切った。

そのシャッターの音はまるで、彼の瞬きのようだった。
そうカメラはきっと、彼の魂の目なんだ。

そのシャッターの音と、このバスに乗るみんなの歓喜がわたしの魂を揺さぶる。

そして早朝のリシュケシュにたどり着いたわたし達。

長いバスの旅で硬くなった身体を伸ばして深呼吸するまもなく、今日はどこに泊まるんだ?とリクシャーの運転手たちが声をかけてくる。わたしは宿も何もまだ決めてなかった。

右も左も分からない、なんにも決まってない。

立ち尽くす私を前に、ラニはリクシャーとささっと慣れた感じで値段交渉し行き先を伝え、一緒においでよと手招きした。

言われるままにリクシャーにバックパックを突っ込み、流れる景色を見つめながら朝のリシュケシュの空気を吸い込む。

そしてこのアシュラムに導いてもらった。

このアシュラムで出逢う人はみな面白く、わたしはこのアシュラムがとても気に入っている。導いてくれた彼に心から感謝した。

あれから何日が経った?

居心地のいいこの場所での毎日が好きすぎて、わたしは次なる旅を忘れてしまった。

ラニは黙々とガンガーの流れてくる山の方へと歩き続けた。
レストランがある街へと続く道とは逆方向だった。

こんなところにレストランがあるんだろうか?
呑気な気持ちでフラフラと着いてきて良かったんだろうかと、この夜の深さと共に急に心配になってくる。

するとわたしの不安を感じたのか、ラニがにっこり笑って
「ダイジィウブ〜」と急に日本語で言ってみせた。

ラニはいつものリュックからヘッドライトを取り出し、頭に付けた。そして落ちていた一本の木の棒を拾うと、これで野犬に会ってもオッケーだと笑った。


ど、どこへ連れて行かれるんだろう、、、。

しばらく歩くと、ひとりのインド人が近づいてきた。オレンジ色のルンギを腰に巻き、白髪混じりの黒い髪の毛は長くドレッドになっている。サドゥと呼ばれるインドの修行僧のようだ。

ラニは彼の前で立ち止まり、サドゥも私たちの前で立ち止まり、お互いにナマステと深々挨拶をした。

ガンガーが雄大に流れる音が、木々の向こうから聞こえてきていた。

そして仲良さそうに何やら語り始め、サドゥはわたしたちにこっちだよと道案内を始めた。

生い茂る林に入っていくラニとサドゥ。着いていくのを躊躇うわたしの心を見抜いたのか、サドゥが一言

「come」と言う。

その一言がわたしの魂を掴む。


もう、流れに身を任せるしかない。

わたしは闇に消えていく彼らの後を追いかけた。

それはまだ見ぬ新たな世界へと続く第一歩だった。

続く


















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