日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ、シリーズ『神の御住まい(幕屋)』門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」⑧

日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ、

シリーズ『神の御住まい(幕屋)』

門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」⑧

『“神に召された一人の偉大な指導者”が誕生すると、奴隷状況にあった一つの民族が解放されて、神の使命に生きる偉大な民族と変わりゆきます。その最初の選びがイスラエル民族にありました』。

神に出会い神の力に加持されたカリスマ的指導者、神の人、モーセの秘密力こそホレブの山での神と顔と顔を合わせての出会いの経験でした。

後に出エジプトしたイスラエルの民はこのモーセを指導者として40年間の荒野生活を通ってきたことはこれまでで学びました。

このイスラエルを導くモーセが常に神と顔と顔を合わせて交わっていた霊的な磁場が幕屋の中の最奥部(神の至聖所)です。

幕屋の学びを続けて参ります。

か。

門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」) - 牧師の書斎

  1. 幕屋の門(入口)はなぜ東側なのか

門は東に.

わたしは門です

イェシュアは、「わたしは門です。

だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10:9)と言われましたが、それは幕屋に入って神と共に住む(交わる)唯一の門だという意味でもあります。

では、なぜその門が東側にあるのでしょうか。

「東」というヘブル語は「ケデム」(קֶדֶם)です。

「東の方、東側」は「ケーデム」(קֵדֶם)です。

いずれも名詞ですが、この語の元になっている動詞の「カーダム」(קָדַם)は次のような意味があります。

東は太陽が上って来る方角ですが、そこから「会う」「迎える」「出迎える」という意味を持っています。

しかも動詞の場合には強意形ピエル態で使われます。

たとえば、詩篇21篇3節では「あなたは彼(王)を迎えて(קָדַם)、すばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます」とあります。

同じく詩篇59篇10節では「私の神は、私を迎えに(קָדַם)来てくださる。」(新共同訳では「神は私に慈しみ深く、先立って(קָדַם)進まれます。」)。

つまり、動詞の「カーダム」は「先立って、出迎える」という神の先取的な恩寵的行為を表わす意味を持っているのです。

それゆえに、入口が東の方になければならないのです。

ヨハネの福音書3章に登場する人物に「ニコデモ」がいます。

彼はパリサイ人であり、イスラエルの教師です。

その彼がイェシュアのところに尋ね求めて来たのです。

ニコデモの方から尋ね求めて来たかのように記されていますが、イェシュアは「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6:44)とありますから、彼は御父に引き寄せられて来たと言えます。

その「ニコデモ」の名前をヘブル語では「ナクディーモーン」(נַקדִּימוֹן)と表記します。

これは「カーダム」(קָדַם)に、受動態の接頭辞「ヌーン」(נ)がついた形とみなすことができます(ヘブル語聖書にはそのように使われている用法はありませんが)。

つまり、神に「出迎えられた者」と考えられるのです。

事実、ニコデモはイェシシュアの弟子となりました。

その彼にイェシュアはきわめて重要な真理を語られました。

その真理とは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」ということです(同3:3)。

同義的並行法で換言すると、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(3:5)となります。

新改訳は「水と御霊によって」と訳していますが、「によって」の部分のギリシア語は「エク」(ἐκ)です。

この前置詞の基本的な意味は「~の中から」です。もしそのように訳すならば、もう一度「水と御霊の中から生まれること」が「新しく生まれること」だと理解できます。

「水と御霊(神の霊)」と言えば、創世記1章2節の混沌の状態です。そこからもう一度創造されることに等しいのです。

このことをパウロは、「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と表現しました。

この新創造が実際になされるのは、神のご計画における最終の段階において、古いもの(以前の天と以前の地)が過ぎ去って、新しい天と新しい地になってからのことです。

つまり「水と御霊(=神の霊)の中から」とは、再び、新しく創造されることを意味しています。

そうでなければ、永遠の御国(神の国)、すなわち「新しいエルサレム」に入ることはできないという真理です。

キリストを信じるということは、この永遠の御国に入ることが保証されたことを意味するのです。

神はその手付金として「御霊」を与えてくださり、そのことを信じて望みを持つことができるように、またその前味を味わえるようにしてくださっています。

しかしそれはどんなに求めたとしても、それはあくまでも「手付金」「前味」「おぼろげ」「からし種」程度なのです。

アダムとエバが罪を犯したために、人は、神と共に住むことのできたエデンの園の東の門から追放されてしまいました。

しかし、再び、今やその門がキリストによって東の方向に向かって開かれているのです。

「わたしはその門です」(「アーノーヒー・ハッパータハ」אָנֹכִי הַפָּתַח)。「門」(入口)はただひとつしかありません。すなわち、イェシュアという門以外に、救いの門はないのです。

広い道を行く多くの人々は、「宗教なんてみな同じだ。どんな道(宗教)を通っても行き着く所はみな同じ山の頂上だ。」とか、「そもそもイエス・キリストだけが真理だと言い張ることが、宗教対立を引き起こしているのだ。」と言うかもしれません。

しかしそうした考えに流されることなく、イェシュアの言ういのちに至る門が狭いものであることを信じて、そこを通って行くことがいのちを得る道であることを堅く信じなければなりません。

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