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片手、片足、ピットブル(2-Final)

  右腕が肩のあたりからなく、右足も半分くらい無い。若い頃、列車に轢かれて失った友人の話の続き。(その1)

 「ねぇ、ノブ。こっちに戻ってきてるって。覚えてる?」と、当時ボーイフレンドだったアルゴから言われたのは、ノブが違う街へと引っ越してから5年ほど経った頃だった。覚えているもなにも、あんな強烈な人を忘れられるはずもない。

「戻ってきてるって、誰かに会いに来たとか?」
「いや、こっちでまた暮らすらしいよ。明日か明後日に会うって約束してる」なんて聞いて、久しぶりに会うんなら、積もる話もあるだろうから、二人でゆっくりすればいいよ。ただし、飲みすぎないで。そう言って、アルゴを送り出した約束の日。「あ、言い忘れてたけど、ノブねぇ、酒辞めたんだって。あのノブがだよ?信じられる?」そう言ってアルゴは出かけて行った。久しぶりにあうんだし、遅くなるかなと思っていたら、アルゴは数時間して電話をかけてきた。

『あのさ、あのさ。ノブ、足、生えてんの。ウケる』
  バーにでもいるのか、やたら騒がしい。というか、足が生えるとは……?足が生えるってどういう意味よ?と聞いたら、だから足が!生えてんの!あははと笑う。お話にならない。アルゴは少しばかり酔っていた。困惑している私をスルーして、今からノブと一緒に家に帰るからまってて、とだけ言ってアルゴは電話を切った。

  20分後。私はドアの前に立って驚いていた。

「久しぶり」そう言ったノブは車いすには乗っていなかった。びっくりするぐらい厚底のブーツのような、スニーカーのようなものを履いて私の目の前に立っていた。

「え、あ……ひ、久しぶり。てか、えーーー。どうしたの?!何があったの?」
「だから、足、生えてきたんだってば!」とアルゴが言う。
「それじゃわかんないよなぁ。んでも、アルゴが言う通り、足ってかさ、骨がさ奇跡的に伸びたんだわ。」

……またも奇跡である……

 そろそろ「奇跡とか信じねーし」というスタイルを私は忘れた方がいい。今までは、切断してしまった足の長さの関係で義足を付けられず、義足を付けられる可能性は無いと言われていたノブ。そんな人の足を俺が意識を失ってる間に勝手に切り離しておいて、何をいってるんだと主治医と対立していたという。ノブは、主治医の言葉を無視し、無理と言われてもリハビリを続け、その結果、切った先が伸びたらしい。そんなことってあるんか……

 車いすに乗っていないノブはとても背が高かった。190センチくらいはある。ごっつい厚底の靴は特注なんだそうで、足りない長さをそれで補っているらしい。厚底は20センチくらいある。反対側の足は普通のスニーカーだった。

 なんでこっちに戻ることになったのと聞けば、こちらで付き合っていた彼女の一人がノブに何も言わないまま、彼の子供を産んでいたことがわかり、一緒に暮らしたりはできないが、その子のそばにいたいと思ったのが第一のきっかけで、もう一つは、飼い犬であったチャッキーとの悲しい別れがあったからだと言った。

  チャッキーはいつもノブと一緒にいたから、あれ?今日、チャッキーは?と聞いたらノブは力なく首を振った。

『交通事故でさ、あっという間だったよ。俺の目の前で轢かれちゃってさ。俺が出かけるのに玄関を開けたら、普段はそんなことは絶対にしないのに、いきなり飛び出してさ。あの時ほど、自分に足があれば、走れればって思ったことはなかったよ』そういったノブの目は少しだけ潤んでいた。『もう半年くらい前の話。俺、自分が泣けるってそれまで知らなかったよ。泣いて、泣いて、泣いてもさ、チャッキーはもういなくって。俺のミスであいつが死んじゃってさ。だからってんじゃないけど、同じとこに住み続けられそうになかったし、あっちで新しい家を探すのも面倒だからさ。住み慣れたこの街に帰ってきたってわけよ。だせぇよな』

 犬を飼ってみるまで分からなかったこと。それは、犬がものすごく大事になること。生活の一部、というか中心になる。何をしても、何があっても守りたいって思える存在になる。当時の私たちは犬を飼っていなかった。だから、ノブが愛犬を亡くした悲しみはなんとなくわかっても、完全には分からなかった。もしも今、我が家の飼い犬たち、リンゴ、マメ、大五郎に何かあったら私は正気でいられる自信は皆無である。得るものがあれば失うものがあるのかもしれない。それにしたってあんまりだ。

  ださくないよ、と私は言った。周りの人から狂犬と言われ、手の付けられないと言われているノブだったが、目の前にいたのはただの傷ついた男の人だった。あれほど飲んでいたお酒を辞めたのも、チャッキーの事故が起こる前。出かけようとしていたのは、お酒を買いに行くために家を出るところだったらしい。それ以来、飲む気がしないと言っていた。『まぁ、まだアイツも俺と一緒にいるんだけどね』そう言って、ノブはチャッキーの遺骨を詰めたという小さなペンダントを見せてくれた。

 ノブにとってチャッキーはかけがえのない存在だった。手も足も失い、信じていた友人も失い、怒りと絶望の中で暮らした日々をチャッキーは確実に支えていてくれていたのだ。久々にあったノブは、なんだかとても落ち着いている感じがした。ノブとの出会いや彼の話を聞くにつれ、私は思う。当たり前のことを当たり前と思ってはいけない、ということ。そして、あきらめない気持ちはこんな風に「奇跡」と呼ばれることを連鎖的に起こしていくということ。

 ノブとは今も変わらずたまに会って、たまに飲んだりする。一人だけとは決められないといっていた彼女も、今の彼女ができてからどうやら落ち着くことを決めたらしい。年上の彼女と一緒に暮らしている。アルゴもそうだけれど、二人ともいい年のオッサンになって、今では喧嘩や乱闘はさすがにしなくなった。皮肉なことに、散々、ジェイルか、死ぬか、と言われた彼らが生き延び、周りにいた『友人』たちの何人かが若いうちに亡くなった。それは撃たれたとか、ドラッグだったり、アルコール中毒だったり、自殺だったり。

 ノブを見ていて思うことは、当たり前のことは、当たり前ではなく。「当たり前だ」と思えることに感謝して生きなくちゃ、ということ。右手、右足、家族、家族で囲むごはん。私にとってそれらは当たり前にそこにあるが、そうでない人もいる。そして、当たり前が当たり前でなくなる日だっていつかは来るのかもしれない。そうなった時、私はノブのように強く生きていけるだろうかと思う。どんなに苦しいことがあっても、つらいことがあっても、結局は、生きたいと思う気持ち、立ち止まっていても前を見続ける姿勢、のようなものが人生を作り上げていくのかなぁなんて思う。

(終)




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