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絶望と光と。(前編)

今の私は派遣社員のかたわら、ブロガーになって1年。

ずっと憧れていた、"私の文章がお金になる"ところまで成長しているのを、少しずつですが実感しています。

今日はそんな私が、ブログを始めるきっかけになった過去の出来事をセキララにお話しようと思います。

*****

今でこそ、自分の書いたブログなどの文章を、

「読みやすい」

「わかりやすい」

など。

お褒めの言葉をいただく機会が多くある私ですが、実は……

計算(数字)が大の苦手。


文章を書くことに自信はあっても、唯一、算数や数学だけは、家庭教師や塾で何度教えてもらってもできるようにならず、かなり苦労しました。


小学生のころに、たしか夏休みまでに一学期分の計算ドリルを全て終わらせる、というようなものがありました。

……お恥ずかしながら終わらず、私を含む数人が、夏休み中に学校に来て、ドリルの残りをやらされたことまでありました。


中学生になると算数が数学に変わり、私にとって、数字や計算がますます苦手なモノになります。


小学生のときから、得意分野である国語の文章題テストは100点満点を取れていたこともあり、中学へと学年が上がってもそこそこいい点数を取れていた私。

ところが、中学生以降の数学のテストは赤点ばかり……。

それどころか、授業中は寝不足もあいまってウトウトばかりしていました。


高校は、偏差値が低めな学校に入学。

その高校に入って、最初の1年生の先生は若いやさしい数学担当者だったため、私がウトついていても、私の席を通りすがりに

「〇〇起きろよ〜」

と小声で声をかけてくる程度だったのですが、高校3年生になると、同じ数学担当者でも定年退職を目前とした、考え方が古風な(少々失礼ではありますが)担任に当たりました。


高校3年というのはご存知のとおり、将来の進路について真剣に考えなくてはならないとても大事な時期で、担任と母と私の3者面談がよくありました。

どんな話をしたのか?

などの具体的な内容はさすがに覚えていませんが、

・数学の成績のこと

・高校卒業後の進路について

を話していたような気がします。

数学の成績の話は、てっきりめちゃくちゃ指摘されると思っていたのに、

「もう少し頑張ったほうがいい」

みたいな軽い話で終わりました。


なぜ拍子抜けしてしまったのかというと、授業中に突然その担任からの説教タイムが始まることが多かったからです。

授業中、なにかをきっかけに突然説教が始まり、決まって

「計算が出来ないと将来絶対苦労する」

「算数だけはできるようにしておいたほうがいい」

といったことを、1人で延々としゃべり続けて平気で授業時間を潰すこともほとんど。

「高校3年の大事な授業時間を説教で潰すなんて……!」

と思う人もいるかもしれません。

でも、この担任の言っていたことは正しく事実。


私の計算が出来なさすぎる問題は、のちに、自分の自己肯定感を大きく下げることになろうとは、このとき私はまだ、そこまで考えていませんでした。



高校卒業後の進路に私は、調理系の専門学校でお菓子をメインに学ぶコースに進むことを決めました。

本当は、ゲームの影響もあって(『私の人生を変えたゲームの話』参照↓)、この頃から文章を書いて表現することが好きで、そういう分野にも興味があったけれど、


「大学行けるレベルの人間じゃないと文章に関わる仕事はまずムリだろうな」

という気持ちと、当時パティシエの作り上げた豪華な飴細工やチョコレート細工の素晴らしさに魅了されたり、料理や食べることが好きな母が喜ぶだろう仕事に就きたくて、(もちろん、お菓子を食べること・作ることに興味があり)私は専門学校へ進学しました。


計算や数字が苦手な私は、高校3年のときの担任から言われたことを社会人になってはじめて痛感したのが、はじめての職場でのことです。


一年制の専門学校を卒業後、数ヶ月間の就職活動のすえ、アルバイトとして就いたはじめての仕事先は7割が手作業による洋菓子の工場。

私の配属先は、リーダーから同僚までがパートのおばさんばかり。

人見知りで、二十歳前の当時は家族や仲のいい友達以外の人と自分から積極的にコミュニケーションを取ったことがほとんどなく、とてもおとなしかった私はそのパートのおばさん達で構成された部署で、恰好の的。


はじめて就いた職場のため、動き方がまったくわからず、教えてもらった手元の作業しか出来なかった私に、その部署の30代のパートリーダーと、同じく30代のパートのおばさんは私にイライラを感じるようになりました。

「〇〇さん!それは◇◇に持っていくって言ったでしょ?!言われなくても動く!!!」

そんな小さな積み重ねが、いつしか、パワハラという形に姿を変えたのです。


当時配属されていた、私の部署で作っていたお菓子はお昼中も作業を止めることができないので、パートリーダーと30代のパートさんの2人がいつも14時まで作業に入ってお昼をずらしていました。(その2人は幼い子持ちのため、出社時間と退社時間も時短勤務のため)


ある日のお昼前から、パートリーダーの指示で、パートリーダーと同じく30代のパートさんとわたしの3人で休憩時間をずらすことに。

13時から休憩時間なので、他のパートの人はもちろん。

となりの部署の社員さん達まで、お昼休憩で全員いなくなります。

すると、残ったのは必然的にパートリーダーと同じく30代のパートさん。

そして、私の3人だけ。


残された私は、手を止められない作業をしながら、パートさん2人からの質問に答えなければならなくなりました。

その質問の中には、個人的にどう答えてよいかわからない内容もあり、そのまま黙り込んでしまう(本人は答えを考えている)ことがあり、それに対して

「なんで黙るの?!」

「何か言いなさいよ!!」

しゃべりながらの作業も苦手だったため、返事の内容を考えこむと手が止まり、

「手は止めない!!」

などなど。

実に多くの心ない言葉を浴びせ続けられました。


そんなことが続いたある日、パートリーダーの人から時計の時間を尋ねられます。

時間がわからないわけではないけれど、

「ちがっていたら怒られるかもしれない」

と思い、何度も心の中で確認してしまい、結果的に黙り込み、それが

「私が算数ができない人」

という風に2人にイメージ付けされ(計算や数字が苦手なのは事実だけど……)、それ以降、3人で休憩時間をずらす度、 

「○+◎は?」

と計算式を聞かれるように。


最初の簡単な問題ならなんとか答えることができたものの、2桁+2桁のような計算は頭の中で混乱し、やはり途中で黙り込んでしまう。

黙りこむと決まって、手を止めるなと言われていたのが、その日からパートリーダーに

「計算が解けるまで触るな!!」

と怒鳴られ、でも仕事はやらなきゃと作業を続けようとすると

「答えが出るまでやらなくて結構です」

とキツく言われ、立ちすくむ私を無視してそのまま2人は作業に入り、また時々私に

「どうすんのっ!?」

と、答えを求める。


幸い、途中からそのお菓子を絞る機械の担当をすることになり、午後からその仕事が私の担当になっている日は午前中の担当者と交代しないといけないため、唯一逃げることができました。


側からみると、ニュースになるようなパワハラと比べたら大したことではないかもしれない。

でも、ものをキツく言われると萎縮して、どうしてよいかわからず、今にもあふれ出しそうになる涙をこらえるだけで、当時の私には精一杯。


その2人から、ふだんもいろいろ言われていることは周りのパートのおばさん達も知っていて、お昼を誘ってくれるやさしい方や、その2人以外はみんな

「さすがにあの2人は言いすぎている」

と言っていたり、私の味方についてくれていましたが、怒鳴られている最中は誰ひとりだって助けてくれた人などいません。

2年半我慢した結果、私は転職することにしました。



転職先は、都内にあるレストランのサービス業。

この会社はお菓子の販売・製造も行っている特殊なお店で、専門学校在学中の校外学習(大学のインターンシップのようなもの)の際にお世話になっていた会社でした。

そのため、面接官は全員顔を見たことのある人ばかりなうえ、上司の女性が私のことを覚えてくれていたようで、面接は面接、というより面談のような、過去に例のないぐらい気楽な面接となり、安心感を抱いたのを覚えています。


面接後、上司の女性から電話があり、

「応募した業務とはちがう仕事をやってみないか?」

と連絡があり、30代の2人から受けるパワハラから逃れるため、私は本来希望していなかったレストランのホールスタッフを、正社員で勤めることになりました。


無事、転職によってパワハラからの脱出に成功した私に待ち受けていたのは、異常な勤務時間と異常な残業時間。

そして、直属の上司からのパワハラでした。


『絶望と光と。(前編)』終わり。

『絶望と光と。(中編)』に続く。


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