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無意識に人を傷つけているかもしれないと立ち止まる

仕事終わりのわたしです。
今日は早番でした。映画を観て心を浄化させていました。

タイトルの通り、最近これに悩まされています。
今日はこの悩みに対する対処法を考えてみたので書き記します。

自らの発言が誰かへの言葉の暴力になっている可能性を考えたことはありますか?
自らの発言で傷つけているかもしれない、逆にきっと相手は無意識に放った言葉に傷ついていること。社会人になった直後ぐらいから感じていましたが、とりわけ感染症が流行りだしてから感じるようになりました。

これ、自分が傷つけている加害者になっているかどうかは判断できません。ただ今から自分が話す事柄で、どう捉える人がいるか、を考えることは必要です。例え、周囲で聞いている人に対してもどのようにして聞こえているか、捉えられるかを考えておかねばならないと考えます。

私の日頃の性格がお調子者であるため、無意識に口走っていないか後々後悔する場面に出くわします。時にはテンションに任せて口走ってしまうこともあります。場を繋ごうと必死すぎて発する言葉があります。この言葉自体が加害者になる要素を含んでいないか、自分自身は立ち止まり、周囲を見て考え直す必要があると考えます。

またある友人から「公共交通機関があるから都道府県を跨いで移動が生じる、止めるべきだ」と意見されました。(わたしが運輸系で働いているためですね)移動自体を止めるので有れば感染拡大を防ぐ上で適切な意見ではあるように思われます。車での移動はもちろんこれを適用した場合でも移動可能となるのですが。ただその友人は必要に迫られて移動している人や公共交通機関がないと生活できないということに遭遇したことがないのだと感じました。また背景の労働者のことも考慮せねばならず、現在悔しくも、廃業や倒産、破産に追い込まれている方々のことを現在及び未来の軸で発言には気をつけるべきだと感じました。

自分が加害者にならないために取り組むこと
『さまざまな立場に立ち物事をみる』そのためにさまざまな立場を知る。複数の視点から一つの物事を見る。自分んの立場や権利ばかりを主張しない。
直接人と会うことは難しい今、さまざまな立場の人のことを考えて可能な限り寄り添ってみようと思います。
情報を集め、発言をしないのではなく、発言を熟考した上で行う。こんな時だからこそわたしの「人柄」が見られている場面のように感じました。

今日はこれでおしまい。

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