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国際日本学部の特色のある授業紹介〜日本文化学科の授業:日本語表現法-社会・文化をクリティカルに見つめ表現する-

澤口哲弥

1.はじめに

 情報があふれる今日、ことばをめぐる状況は大きく変化しました。新聞を読む若者はほぼいなくなり、テレビや雑誌などの大きなメディアに触れる機会も減っています。一方、ネットで好きな情報を閲覧することが可能となり、時には小さなメディアとしてSNSに自分の考えも発信することもできるようになりました。
 
 たしかに、これはある意味便利な時代への転換だと思います。しかし、そこに落とし穴はないでしょうか。
 
 たとえば、あなたが何かの課題に取り組んでいるとしましょう。そんなとき、明快な答えをネットが教えてくれることがあります。「おお、助かった」と喜んでそれを取り入れ何かを書いたとします。しかし、よく考えてください。それはあなたの表現でしょうか。
 
 同じことは、日本中の多くの人が同じ目的で調べています。そして同じ情報を見て、自分の表現に反映させています。ネットのブログや記事を見ると、誰が発信元かわからない内容が掲載され、それが引用され、さらに孫引きされ、結果として似たような記事がいくつもあるという現象が見られます。情報の絶対量が多くなっているのに、実はその質は画一的であり、豊かなように見えて貧相なのです。
 
 貧相と言えば、マニュアル化されたことばの氾濫もそれに一役買っています。ファストフード店の接客マニュアルのことば、政治家の国会答弁、セミナーの講師のトークなど。もちろんなかにはアドリブを使いこなす老練な表現者も存在しますが、相手が誰であろうと同じような表現、ことばが軽く地に着かない表現は多く存在します。表現しているが表現ではない単なることばの羅列です。
 
 しかしその一方で、何気ない一言がとても重みがある場合もあります。詩人や俳優ではなくとも、その人が紡ぐその人だけのことばはときに聞き手、読み手を深く感動させます。
 
 私は、ドキュメンタリー映画を見ることが好きです。その理由は、そこで発せられる話者のことばが、どのような哲学者のことばよりも心にしみることがあるからです。港湾労働者、和菓子作りの職人、戦場を撮り続けた写真家など。そういった人たちが語る一言ひと言が、その人自身からその人だけのことばで発せられるからでしょう。
 
 人と同じような表現をすることは、情報化の時代、容易くなりました。しかし、だからこそ、自分にしかできない表現の存在価値は日常の生活でも高まっているのではないでしょうか。そして、あわせてどうそれを効果的に伝えるかという聞き手、読み手を意識したノウハウも身につけておくべき時代になっていると考えます。
 
 もう一つ、意識していたいことがあります。それは、すべての表現はフィクションであるということを前提に、表現を「読む」ことです。
 
 社会はフィクションにあふれています。極端なことを言えば、中立を標榜するテレビのニュースも多くの情報から切り取り、編集したものである以上、ある意味でフィクションです。私たちの社会も、かつて、多くのフィクションを見せられ、鵜呑みにすることでとんでもない間違いを引き起こすこしたこともありました。それは今もあります。
 
 スポーツの世界的な大会を「感動」という物語に仕立てるメディアの姿勢はあいかわらずですし、ファッションの流行を創り出す目的で企業は熱心にコマーシャル活動を続けています。些細な談話から、広告、テレビのニュースまで、フィクションは、あたかもまっとうな表現として人の前に現れます。高校生が国語科で学んでいる評論も、その意味ではフィクションであるというのが私の立場です。であるがゆえに、表現されたことばの背景やときには「闇」にも鋭く目を向けることが重要になります。
 
 このような問題意識からつくっている授業、それが「日本語表現法」です。

2.クリティカルをキーワードに表現を磨く

 では、このような時代に必要なことばの力、センスは何でしょうか。その答えは「クリティカルに読み、書く」ことだと考えます。
 
 一般的に「クリティカル」は批判的とも訳されますが、ここでは「慎重に多角的にそして戦略的に」と定義しておきましょう。
 
 このようなことばの力、センス、言い換えればリテラシーが豊かだと世の中の情報を慎重に読み解くことができますし、世の中に対して効果的にことばを投げかけることができます。
 
 身近な例で考えてみましょう。
 
 最近は街のさまざまな場所や電車の中でも見かける小さな見張り用のカメラですが、その数は世界的に急増しているようです。もはやどこでもいつでも一歩外へ出れば撮られていると言っても過言ではありません。
 
 さて、あなたが、多数の個人情報を得るというやや怪しい目的で街に大幅にカメラの数を増やすことを画策しているミスターXだとします。その場合、その設置を住民に説明するときあなたはどんな名称を使いますか。「防犯カメラ」ですか。「監視カメラ」ですか。それとも「隠し撮りカメラ」ですか。同じものでも名称によって見た人に与える印象は違いますね。おそらく、ミスターXは、そこになんとなく正義がありそうで、かつ最も警戒されない呼び方として「防犯カメラ」を選択するのではないでしょうか。
 
 このような術策、言わば巧妙なことばの選択・運用については、よほど慎重に向き合わないと「まあ、いいんじゃないの」と見過ごしてしまいがちです。しかし、そこには人を感化するレトリックが潜んでいるときもあります。
 
 考えすぎという見方もあるでしょう。しかし、こういった目の前のことばの選択や表現への違和感は、ときに重要な問題を発見し、議論をして考える出発点になることがあります。また、そのような戦略的知識があると、表現者として効果的なものを創り出すこともできます。立ち止まって考えること、それがクリティカルであるということです。

3.日本語表現法で何をするのか

 2023年度の授業では、このような問題意識から、ことばの魅力と怖さについて知ることから学びを始めました。また、単なることばの羅列と表現との違い、表現の裏側を読む技術と活かす技術、意味が発生するメカニズムなどの理論的背景を学びつつ、具体的な創作を重ねました。就職活動の面接シートを戦略的に書く、写真にキャプションを付ける、違和感から始まるコラムを書く、意見広告(ポスター)をつくる、新聞に投書する、社会文化論評を書く、川柳を作るなどの活動です。つくった作品は学習者間で相互評価し、よりよいものに仕立てるとともに、評価するための技法、観点を身につけることもあわせて目指しました。
 
 自分の足もとから問題を見いだし、多角的な検討を経て自分のことばで表現へと仕上げること、また、それが効果的に聞き手、読み手に伝わるものにすること、この二つが学習を貫く大きなテーマでした。そして小テーマとして、「その表現は誰から誰に対して何を目的になされたものか」、「その表現の背景に何があるのか」、「そのことばの選択や表現方法は本当に有効なのか」などを14回の授業を通して問い続けました。こういう意味では、名前は「日本語表現法」ですが、授業としては、問題発見の技術とその言語化の技法をリテラシー論の見地から学ぶという意味合いが強かったかもしれません。
 
 最後の授業では、それまでの学びを活かし、大学生川柳大会を企画しました。そこでチャンピオンに選ばれた作品は「昼食後 教授が唱える 阿弥陀仏」。受講者二十数名中、最も支持を集めたこの川柳、ぴりりとした批判性も効いていて、私も好きな作品でした。

4.新聞投書

 最後に、活動の事例として新聞投書への取り組みを紹介します。
 
 活動では、「足もとから問題を探して問題を提起し、読み手を意識しながら自分のことばで400字程度の文章にする」という課題を設定しました。誰かがどこかで言っている手垢のついたテーマではなく、なるべく自分自身の気づきを起点に書くことを目指しました。また、新聞読者層という読者の想定、新聞というメディアの立ち位置の考慮といった戦略的な要素も加味しました。学生間で相互評価を繰り返し、納得のいく原稿に仕上げて投稿しました。その結果、3人の投稿が毎日新聞社の朝刊「みんなの広場」に掲載されました。
 
 世の中ではSNS上に匿名のコメントが多数掲載されますが、投書ではどの立場から誰が書いたのかを明確にする必要があります。これは、表現としては大切な要素です。
 
 3人の投書を毎日新聞社の承諾のもと以下に掲載します。日本文化学科の学生の問題意識、声としてお読みいただければと思います。


【資料】毎日新聞 東京朝刊 「みんなの広場」掲載

若者の投票率が低い要因=大学生・木村夢美・19 (神奈川県)    

2023.8.24 

 若者の投票率が低いことについて「政治的関心が薄れているからだ」と言われる。だが、他にも要因はあるのではないか。議会開催中に居眠りしたり、スマホを見たり、落書きしていたり。そのようなニュースが流れると、税金が無駄になっていると感じる。
 昨年7月の安倍晋三元首相の銃撃事件後、宗教団体にかかわりのある議員が大勢いることが明らかになった。「政教分離とは何か」と考えさせられるできごとだった。最近では自民党女性局員がフランス研修中にエッフェル塔前でポーズをとる写真がSNSに投稿され、批判を呼んだ。
 私だけでなく、国会議員に不信感を抱いている人は多いのではないか。それが政治離れにつながっていると考える。
 「投票に行きましょう」という前に、議員の心構えを見直した方がいい。もちろん見直すべき議員は一部であろうが、国民の信頼と期待によって選ばれたのだから、一人一人が責任感をしっかり持つべきだ。 

タトゥーの受容は重要だ=大学生・道吉悠・20 (神奈川県)

2023.8.26 

 「多様性」や「自己表現」が重視される世の中で、規制が厳しいと声があがる「タトゥー」について、どう思うか。現在、外国人のみならず、日本人にも若い世代を筆頭におしゃれとして「タトゥー」を入れる人が増えている。
 だが、いまだにプールや温泉では「タトゥー・入れ墨の入っている方お断り」の注意書きがある。確かにタトゥーや入れ墨に対する反社会的な印象は根強くあるが、スポーツ選手などを見ればわかるように海外でタトゥーは受容されている。
 年々外国人観光客が増えているにもかかわらず、タトゥーによる規制でせっかくの日本の素晴らしい文化を感じられない可能性もある。あるアンケートでは、タトゥーに関しては若い世代ほど寛容で、年齢が上がるにつれて批判的な考えを持つ人が多いという。
 抵抗がある人は多いだろうが、私は海外の人に日本をより楽しんでもらうために、おしゃれとしての文化の受容は、重要ではないかと考えている。 

高いヒールを履く意味=大学生・笠原玲杏・19 (神奈川県)    

2023.8.28

 OLと聞いて、思い浮かぶ女性像はどのような姿をしているか。多くの人は、ヒールの音をコツコツ鳴らしながら働く姿を想像するのではないだろうか。しかし、私は思う。「ヒールを履いて働くことに意味はあるのだろうか」と。
 昨年、結婚式場で一日だけアルバイトをすることになった。それまで私は、ヒールを履いて働くことに一種の憧れがあった。だからパンツスーツで、5センチヒールのパンプスを履いた。最初はとてもワクワクした。
 しかし、時間がたつにつれて不快な気分が募ってきた。自分の体重に圧迫されて、爪先や土踏まずが痛み出したのだ。加えて、ふくらはぎやももにもずっと力が入った状態が続いた。1日働いただけで、疲れ切ってしまった。
 男性の中には、「女性はヒールを履いて働いてほしい」というような願望がある人もいるようだが、実態を知ってほしい。女性の社会進出も増加していることは好ましいし、心強いが、より働きやすい環境と周囲の意識が整っていくことを期待したい。 


5.さいごに

 今回は、数ある日本文化学科の授業の中のほんの一例として「日本語表現法」の授業を紹介しました。
 
 ことば、文学などの日本文化をさまざまな角度から捉え直す学びが日本文化学科にはあります。この文章を読んでいる人が、進学を控えている高校生であるならば、勉強の合間にちょっとだけ大学のシラバスを検索して、授業に思いをはせてみてはいかがでしょうか。高校までの学びの枠組みとは違った魅力に出会えるかもしれません。 

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