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あっちゃんと、家族と、距離のとり方と関係性の結び直し

家族との距離のとり方

あっちゃんは近頃また幻聴で寝れなくなっているらしい。「悪魔が2年後に死ぬと言っている」、「昭和に戻れと言っている」(どういう意味だろう…)と、1日中母に訴え、返事を求めるようで、「ずっと付き合っていると疲れるし落ち込むので、少し距離をとる時間も大切にしています」と先日届いた手紙に書いてあった。

毎日一緒にいて、全部面倒を見て、出口がないやりとりが続いたら、そりゃあ滅入っちゃうなと思う。母はそういう役割を、あっちゃんが小さい頃からずっと一人で担ってきたのだ。

家から逃げる

私はというと、早々に家から逃げ出した。私が兄と暮らしていたのは16歳の頃まで。高校を中退して家を出たのには色々な理由があるけれど、兄がいる家での暮らしに我慢できなかったから、というのが今思うと大きな理由だったのかもしれない。当時、家の中はあっちゃんの癇癪と叫び声とでカオスだった。部屋に勝手に入ってきて物を触る、壊すなどもいつものことで、家は自分にとって落ち着かない、ストレスフルな場所でしかなかった。なるべく家にいたくなかった。

高校を中退する頃、私はとにかく「自立したい」と思っていた。自分でお金を稼いで、自分で暮らしを築きたい。自分だけの空間、時間が欲しい。その思いだけで家を出て、一人暮らしを始めた。初めての一人暮らしに選んだのは練馬区のアパートで、縁もゆかりもない場所だったけれど、誰にも邪魔されない空間があればそれでよかった。家でろくに手伝いもしてなかったので、料理や掃除は大変だったはずだけれど、当時は自由が嬉しかった。

自立といっても、コンビニでのバイト経験しかない16歳が働ける場所は少なく、家を出てすぐは、父親の経営する小さな事務所で働かせてもらっていた。一人暮らしするアパートから電車に乗って、父親の事務所に出勤する。上司として父親に会う。当時はその関係が心地よかった。お父さんとは呼ばずに、みんなの真似をしてニックネームで「バンさん」と呼んだ。

思春期以降、家ではほとんど話さなくなっていた父に、営業のノウハウを教えてもらったり、Macの使い方を習ったり、感じの悪いお得意さんの文句を言ったり、仕事後に焼き鳥屋に行ったり。上司であり、仕事仲間のバンさんとは、たくさん話をするようになった。あっちゃんの様子は、父親や母親を通して聞いていた。

この前Zoomで話した時、埃だらけのダースベーダーの被り物を被って登場したおちゃめな父。

あっちゃんに障害があることがわかるまで

話は戻り、家族全員で団地暮らしをていた頃。兄に障害があるのがわかったのは、本人が中学3年の頃だった。それまではクラスに一人や二人はいる変わった子、という感じで家族も考えていて、浮いてはいたけど、なんとか学校生活を送っていた。

あっちゃんは学校では一言も声を発さなかった。音読の時間に声を出すまで立ってろと言われ、最後まで声を発っさなかった兄は、先生にビンタされて、顔を腫らして帰ってきたこともあった。その後、先生は謝りに家に来た。当時は、障害やさまざまな特性についての理解が、今より圧倒的に少なかった。なんとか「普通」になるようにと、先生もあの手この手で対応していたようだ。

学校の授業には全然ついていけないし、体力もなく身体も弱かったので、このまま一般の高校に進学するには無理があるんじゃないかと思った母親が、地域の児童相談所に行った。そこで知能検査を受けた結果、軽度知的障害であると診断される。養護学校(当時)へ行くという選択肢が出てきた。

以前、私が「きょうだいじ」をテーマにしたトークに登壇した時に、プレゼン資料を父親につくってもらった。顎外れ防止バンドをしてウロウロするあっちゃん。

「障害者」であることと家族はどう向き合ったか

兄に障害があるとわかった時のことは、あまり詳しく覚えていないけど、家族はそれぞれ複雑な気持ちを抱えていた。特に父親は、あっちゃんが「障害者」であるということを受け入れたくなかったように見えた。「自分も若い頃は変わり者で、人と話せなかったし、普通の生活を送れてなかった」「大人になればなんとかなるもんだ」と言い、養護学校なんて行く必要ないと思っていたようだ。

私も兄が「障害者」と呼ばれることには、違和感があった。当時は障害について知識もなく、漠然とネガティブな印象しかなかった。同時に、障害者と一括りにされることへの抵抗もあり、あっちゃんはあっちゃんなのだ、という気持ちがあった。兄のことをどう説明していいかわからず、友達にはなかなか言えないでいた。

父と私がどう受け止めていいか分からず、気持ちの整理ができない中、あっちゃんにどんな場所が合うのか、真剣に考えて、色々調べて動いていたのは母親だけだった。そして、兄は中学卒業後、養護学校に行くようになる。その後のことは、また改めて。

距離のとり方と関係性の結び直し

話は変わって、noteにあっちゃんのことを書こうと思ったのは、ブログにしてひらくことで家族の距離感が少し変わると思ったから。家族の問題を家族だけのこととして考えると、堂々巡りの思考ループに陥って行き詰まり、なかなか動いていかない気がしている。

この前母が久しぶりに旅行に行きたいと言ったので、「いいね、ゆっくりしなよ」と言うと、あっちゃんを見ないといけないから日帰りで、と言う。1日くらい母親がいなくてもなんとかなるし、面倒をみてくれるサービスなんていくらでもあるのに。「でも、人がこわくて誰も受け入れられないから、難しいよ」と、一点張り(実際、統合失調症になってからは家族以外の人と会えなくなり、部屋に引きこもっている)。

これまでそうやって、そういうもんだと決めつけて、誰にも頼らず、一人で背負ってきたのだ。母は偉いし、早々逃げ出した自分にとやかく言う資格は全くないけれど、あっちゃんにとっても、母にとっても、違う関係の可能性があってもいいと思う。

自分が実家を出てから家族と程よく向き合えたように、仕事場で会うことで父といい関係になったように、距離感が変わることで関係性を結び直すことはできるのだと思う。そのやり方を、こうしてブログに書きながら、探っていきたい。


おまけ

こちらも父親につくってもらったトークのプレゼン資料、「きょうだいじ可南子の人生」。父に依頼したのは、自分が関わっている仕事のことを知ってもらいたかったのと、トークは聴きに来ないだろうから、資料作りを通して考えていることを共有したかったから。

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