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6回目のお産で考えさせられた「産みの苦しみ」を押しつける自己満足的な立ち会い出産

まもなく妊娠9か月。予定日まで2か月を切った。
ハイリスクということで初めて大学病院でのお産を勧められたわけだが、予想以上に妊娠の経過は順調で、毎月2-3回の宿泊を伴う地方出張や書籍の執筆、事務所の仕事、家のこと、たまにだけど子どものアイスホッケーの練習で極寒のスケートリンクに2時間など、
なかなかハードな日々を送っていて心身ともにストレスフルであるにもかかわらず検診で異常が見られることは皆無で、むしろ何かに引っかかってドクターストップがかかってくれたらいいのに・・・なんて思うものの一向に検診結果はすこぶる良好、
そんな日々だ。

孤独な検診とモヤモヤな妊娠ライフ

これまでの5回の出産、2人目以降は家族の立ち会いのもとでとても温かいお産ができた。(一人目の時は妊娠の進行が全く分からず、そして驚異的に早くて夫が間に合わず、私がこんなに苦しんだのに分かってもらえなかった、という悔しさもあり、二人目は自宅出産まで経験した)

出産という命がけの行為を目の当たりにした夫は、「子どもを産む女性は偉大だ」と感動してくれた。
世間では男性の育休義務化なんていう運動も起こっていたりするが、夫が妻の苦労を分かち合うことはなかなか意味があることだと思う。
今思うと、私が家族の立ち会い出産を強く希望していたのはまさに「喜びの分かち合い」よりもむしろこの「苦しみの分かち合い」をしたかったことが大きいのかもしれない。

でも今通っている大学病院は子どもはおろか、パートナーの検診同席も認められていない。
いつも一人で病院へ行く。待っている間はひたすらPC仕事をする。
冒頭に書いたように全く異常はないから苦労の分かち合いも何もないのだけれども、
お腹がせり出し、足が浮腫んでくる、身体の中で一つの命がどんどん大きくなり、脳や心臓機能を日々発達させながら人の形として進化しているその過程がどれだけ神秘的で、そして負担の大きなものかを一番身近な存在である夫と共有したいのにそれが叶わない、そんなもどかしさがある。

そして6人目という子どもを産もうとしている中で、子どもたちがそれぞれ心身豊かに成長できる環境を作るためには自分は妊娠ごときで休むわけになんていかない、
ギリギリの気持ちで私は頑張っているのに、その覚悟を分かってもらえているのだろうか、
そんなモヤモヤも手伝って、大学病院の孤独で機械的な診察がむなしく思えてしまったのかもしれない。

いよいよ出産というゴールが見えてきて、気持ちを打ち明けてみた

そんなモヤモヤを一人抱えていたからか、仕事で元気に駆け回っても家で、特に夫の前では口数がどんどん減っていった。
ちょうど夫の会社と自分の社労士事務所のオフィスを分けようということにもなっていたので仕事の話を家ですることも少なくなっていた。
ドライな検診でお腹の赤ちゃんの新たな話題も報告も特になく、仕事の話をする機会も減り、家事育児分担も共有のカレンダーに入力しておけば特に話し合いもせずに暗黙の了解で滞りなく進む、
落ち着いていると言えば落ち着いている、
でも出産直前で家族はどんどん盛り上がっていくはずなのに何となく味気ない日々がとても淋しく感じられて改めて気持ちを告げてみた。

夫から出たのは私にとって、意外な言葉だった。

心配してないわけない。むしろ誰よりも心配していると思う。
どれだけ仕事を抱えているか、どれだけの緊張感の中で仕事をしているかも分かっている。
だからこそ安易に「休みなよ」「早く寝なよ」ということが言えなかった。仕事の面ではどうしてあげることもできないし、だから見ている方も結構辛いんだよ。と。

そして翌日、何も言っていないのに大学病院の近くにある新しくできたとてもきれいな産院に31週過ぎてからでも転院・出産ができるかを問い合わせてくれていた。

きれいで温かみのある産院で告げられたこと

週数もかなりギリギリなのでできる限り早く来てください、ということで2日後の週末にその産院へ行ってみた。
ホテルのような病室、エステにキッズルームまで完備されている。
入院する個室にあるパウダーテーブルは、化粧をするというより、ここでノートPCを開いて仕事をするのにピッタリじゃないか、と思わせる、まさに私仕様の部屋だった。

ただ、Dr.に告げられたのは、
「高齢・多産・妊娠高血圧症、この3つのどれか一つでも該当する場合、当院では計画出産か無痛分娩でしか産むことができません」という言葉だった。

・・・ああ、想定外。

私にはもう一つのこだわりがあった。それは「自然分娩」で産みたいということ。
自然なお産の素晴らしさをこれまでに肌で感じてきて、陣痛促進剤で赤ちゃんの意思とは無関係に生み出すなんてあり得ないと思い込んでいた。
さらにお産という人生最大級のイベントには、命を削るような痛みを乗り越えてこそ、その喜びを味わえるものだと思い込んでいた。

子どもたちに対しては、普段わりと穏やかな母が(仕事が忙しいので専業主婦のお母さんよりもガミガミ怒る回数が少ないだけだと思うけど)動物のような叫び声を上げて出産する様子を見せることで、「ママは命がけで自分を産んでくれたんだ」と心から感動してくれる(であろう)ことに大きな意味を感じていた。

それがすべて叶わないことに戸惑いがあった。

一方で、今までの産院でも今通院している大学病院でも聞く機会がなかったDr.の話は、私の思い込みにちょっとした刺激をくれるものであった。

子どもがいて、仕事をしているならなおさら出産時期が分かってちゃんと準備できる計画出産はそんなに悪いものではないのでは?

陣痛は尋常ではなく身体に力が入るから血圧を急上昇させたり産後に温存しておくべき体力を大きく消耗させることでもある。高齢出産の人にとって無痛分娩は出産・産後の安定的な生活のことを考えたらメリットもある。

今まで何もなかったかもしれないけれども、あなたの身体は第一子出産から15年、全く同じような健康体であり続けることはない。やっぱり高齢・多産というリスクは医師から見てもリスクが大きい。

今さらながら自分の置かれた状況を理解し、出産を舐めていたなと思った。

そして、大学病院ではなぜそのようなリスクに対する説明がなかったのかと言えば、それこそ何があっても対応できる盤石な体制があり、高齢だろうと自然分娩で問題ありませんよ、という安全面ではまさに最高峰レベルなのだということも分かった。
大学病院、機械的とか非難して本当にごめんなさい。


冷静な意見を聞きながら、自分なりのこだわりって、今の状況を総合的に考えたらそんなに大したことではないのかもしれない、
そんな風にも思えた。

恩着せがましい感謝の押しつけよりも大切なこと

たしかにこれまで家族で出産に臨んでこれたことはとても幸せなことであったし、絆も強まったと思う。上の子たちが母に対する思いやりの気持ちが強いのもこの影響はあるのかもしれない。
でも、新しい家族を迎え入れる形は出産に立ち会うことだけがマストな訳ではなくて、むしろそこから長い年月をかけて丁寧に関係性を築いていくことの方がずっと大切なことなのでは?とも思うことができた。
特に今回、妊娠というナーバスな時期に家庭内お妊婦様と化した私は気持ちを丁寧に伝えるということをまったくせずに「なぜこんなに身近にいるくせに分かってくれないの」とばかり思っていた。
自分自身、気持ちの整理がついておらず、うまく伝えられないもどかしさもあったのだけれども、だとしたらそんなモヤモヤした気持ちをまるごと伝えて一緒に考えてもらっても良かったのかもしれない。
身体を張って動物の本能丸出しで絶叫するまでして伝えなければならないことではない。

もちろん自然な形で、そして本当に幸せに感じられるお産についてじっくり考えた上でその通りになったらそれはベストだけれど、
出産をイベント化し、神聖化し、そして絆作りのツールにしてしまうのはとてももったいないこと。

産後の大変さも痛いほど分かるだけに出産に対するネガティブな気持ちばかりが先走っていたけれども、
ようやく、
本当にようやく出産と真正面から向き合えるようになった気がする。






















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