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時間切れ!倫理 133 平田篤胤

 古代の日本の思想家日本人の考え方を明らかにするのが国学の中身でした。契沖も賀茂真淵、本居宣長も、万葉集や古事記源氏物語のという文学の研究、そこから古代日本の思想を明らかにしようとしたのですが、平田篤胤(1776~1843)は、宗教の方に関心が行きます。仏教や儒教に影響される前の、日本の神道を復活させようとします。これを復古神道といいます。復古神道を体系化し、古代の神道の再生を目指しました。
 前にもいいましたが平安時代くらいから神道と仏教は融合します。神仏習合です。当時の日本人にとっては神道の神様も仏教の仏様もごちゃごちゃになっていました。だからお寺で神様を祀ったり、 神社で仏様を祀ってあったりしました。平田篤胤はそれをダメだと考えます。仏教は外来のものですからね。
 この前の連休最後の日に、和歌山県の道成寺というお寺に行ってきました。そしたら驚いたことにまだ神仏習合が残っていました。本尊が千手観音菩薩なのですが、その仏像の前に銅鏡が置いてあった。銅鏡は神道の道具ですね。その銅鏡の両脇には御幣がある。宝物殿に入って昼食の説明を聞いていたら、このお寺では礼拝する時に柏手を打ちますということでした。三拍してお辞儀をするのだと。柏手を打つのは神道の作法ですよね。これを道成寺では今でもやっている。皆さん一緒にやりましょうということで、私もやりましたけれどもね。
 平田篤胤にいわせればこんなのは大間違い。銅鏡と御幣の後ろに千手観音像が祀ってあるなどとんでもないわけです。
 彼の考えは日本本来の宗教である神道を取り戻そうというものなので、これがやがて極端な日本中心主義に傾いていきました。神道を追求していくと、どこかでやはり天皇という存在につきあたる。だから、天皇崇拝も彼の思想にはありました。
 幕末にペリーがやってきて開国して以来、西洋の文物が日本に入ってきます。これに対して攘夷思想が広がる中で、極端なナショナリズムであり天皇中心主義である平田篤胤の復古神道も大きな影響力を持ちました。島崎藤村が自分の実家をモデルにして描いた『夜明け前』を読むと、地方の庄屋階層にまで復古神道が広まっている様子がわかります。
 明治時代になって明治政府が神仏分離令を出した背景には、復古神道の影響があります。明治以降の日本の宗教政策にも影響を与えたものだといえます。

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