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あなたの夢はなんですか?

タイトルにあるような問いを、「将来の夢」の4文字を、小学校入学から高校卒業までの12年の間に何度見たことか分からない。

進級のタイミングで書く自己紹介カード。
卒業のタイミングで書く文集。
進路を考える授業のワークシート。

きっと多くの人が、学校教育の様々な場面で「将来の夢」を問われてきたことだろう。

僕もご多分に漏れず、様々なところで「将来の夢」を尋ねられていたのだが、自信を持って自分の夢を語っていたのは、せいぜい小学校中学年までの数年間だ。

その頃の「将来の夢」は、警察官だった。職業に対して抱いていたイメージは、町の事件を次々と解決する正義のヒーロー。正義感が強く、平和主義的な自分には合っていると、幼いながらに思っていたのだろう。そんなヒーローが学校にやって来る交通安全教室の日は、まるで推しのライブに参戦するファンのように、心がときめいたものだ。

小学6年生になると、本格的に進路を考える授業が始まった。

働くとはどういうことなのか。
将来なりたいものは何か。
その夢を実現するためには、何をすべきなのか。

インターネットや書籍で調べ、紙にまとめていく。警察官になる方法を調べるうちに、なぜか本当になりたいものが警察官ではないような気がしてきた。理由ははっきりと分からないが、イメージに憧れていたのだと気づいたからだと思う。現実世界で働くリアルな警察官の姿、夢を実現するまでの過程を学ぶ中で、自分が警察官の仕事にそこまで興味を持っていない(警察官という存在が格好いいと思っていただけだった)ことを思い知らされたのだ。そうして、これまでの将来の夢は徐々に色を失っていた。

こういう時に「将来の夢」を尋ねられるのは苦痛でしかない。「夢は無くなったので、今なりたいものはありません」なんて本心を言えれば楽なのだろうが、何となくそれは許されないような(何か答えなければいけないような)空気感が学校にはある。小学校卒業までは、冷めきった夢ともつかぬ夢を、紙に書き、口に出した。

中学校に入って「将来の夢」ができた。が、長くは続かず、次に抱いた夢も、またしばらくして夢ではなくなった。

「将来の夢」を持てない自分は、なりたいものが決まっている周りと比べて、ダメなやつなんだ。自己嫌悪と自己否定に陥る中で、将来について考えることも、それを口に出すことも怖くなっていった。

将来に不安を抱えた僕に転機が訪れたのは、高校2年の夏。「無償の学習塾」というところで子供に勉強を教える「学習支援ボランティア」を始めたことだ。もともと教えることが好きだったのもあり、思いつきで参加を決意したのだった。

この場所に集うのは、塾に行く余裕がない学校帰りの子供達。そして、子供達のサポートをしたい・教えることが好き・暇な時間を有意義に過ごしたいといった様々な想いを持ったボランティアの大人。

学校とも普通の塾とも違うこの場所は、子供と大人の交流が自然と生まれ、大人どうしが盛んにコミュニケーションを取り合う、温かく優しい空間だった。

当時高2だった僕は、子供でありながら、ボランティアの講師を務めるという、少し変わった立ち位置にいた。その微妙な立ち位置にいたからこそ、この場所は子供にとっても、大人にとっても居心地の良い場所だと、感じたのだった。そして、こんな場所を作りたい、と心から思うようになった。


今の将来の夢は「いろんな世代が集まって、学び合える場所をつくること」だ。あの塾のような子供も大人も集まれる場所を、自分と同じような想いを持つ人と共に創ってみたい、そう思っている。具体的な計画は、全然立てていない。でも、あの場所で感じ取ったものを再現してみたい気持ちはあるし、家庭や学校や職場ではない空間に「居場所」を求めている人は少なくないとだろう。

かつての自分は、「将来の夢」を聞かれたら、何かしらの職業を答えねばならないと思い込んでいた。でも、必ずしもそうではなく、やりたいこと(want to do)でもいいし、こうありたいという姿(want to be)でもいいのである。ここに気づけたのは大きい。

モヤモヤしたものを抱えながら、将来の夢を書いていたあの頃とは違う。

自信を持って、改めて言いたい。

世代に関係なく人が集まり、学び合える場所をつくる。

これが、僕の夢だ。

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