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倒立を試みたあとの宇宙 -2-

前回、下のエッセイを書いた。

要約すると、こんな内容だ。

僕は、何かを思いついた時、メモをしないと気が済まない。自分の内側にあって、目に見えないもののうち、「残しておきたい」「消えるともったいない」「後でじっくり考えたい」と感じたものをピックアップして、目に見えるカタチで残していく。過去のメモを振り返っていると、タイトルの言葉である「倒立を試みたあとの宇宙」と書いてあるのを見つけた。書いた日付は、2024年1月26日。時刻はちょうど11時。なぜ、こんなメモを自分は残したのか。悔しながら全く覚えていないのだ。そこで、この言葉の意味を解釈してみることに決めた。

倒立を試みたあとの宇宙 -1-(かなりあ)

倒立を試みたあとの宇宙

自分で書いておきながら自分で書いたとは思えない言葉を、まるで国語の時間、誰かの書いた詩や俳句を批評するように、分析してみることにする。


言葉の意味を推察する

冒頭のパートを整理しよう。

倒立は、地面に手をついて、体を地面と垂直になるように支える行為だ。足が上に来て、頭が下に来るから、普通に立っている時と比べると体のパーツが逆の位置になる。小学校の体育の「マット運動」授業でやった記憶があるが、一度もできた試しがない。天井に向けてピンと脚を伸ばす友達を見て、なんであんなに綺麗な倒立ができるのだろう、とよく思ったものだ。

それを「試みた」というあるから、「倒立をやってみようとした」ということだろう。「~あとの宇宙」まで含めると、このメモ全体の解釈は、いくつか考えられる。

1つは「倒立をやった結果、失敗して頭を打った」こと。漫画やアニメで、頭をぶつけた時に星が飛び散る描写を見かけるが、それを宇宙に例えたのかもしれない。倒立をやってみたところ失敗。地面に頭を打ちつけた様子を「倒立~宇宙」と表現したというわけだ。

だが、実際には倒立をしていないし、「倒立をしよう」と思った記憶もない。だから、実体験を綴った文章ではない。

あの日の自分と向き合う

とすれば、「倒立~宇宙」は何かのアイデアだろうか。

僕は時々短めの小説を書いたり、俳句を作ったりするので、執筆のネタかもしれない。しかし、いつもそれをまとめる用のノートやドキュメントに直接書き込んでいることを考えると、可能性は低い。第一、執筆の内容だったら、きっと覚えているはずだ。

となると、恐らく、その時にふと湧きあがった物の見方や考えをまとめたものなのだろう。ふと思いついた思想・思考を「倒立を試みたあとの宇宙」というフレーズに託した、という寸法だ。ここからは推測になるが、あの日の僕はこんなことを考えていた。


倒立をしてみると、上下が反転した世界が現れる。まっすぐ立ってみる世界も、逆立ちをしてみる世界も全く同じ世界のはずなのに、別の空間に急に飛ばされたような不思議な感覚に陥る。倒立をした時に目に映る世界は、宇宙のようなミステリアスと非日常感を包含している。「宇宙」はやや誇張表現ではあるが、いつもと違う感覚を例えている。

それは、たまには普段と違う見方をしてみることが大切という気づきである。同じものも別の角度から見つめると、別のものに見える。倒立をするだけで宇宙が広がるように、一つの物事は見方によって別物に見える。ここで大事なことは2つあって、1つは、世界が違うように「見える」ということだ。宇宙が誕生するのではなく、宇宙があると錯覚するのだ。そこに広がる宇宙は、私たちの産物に過ぎない。

2つ目は、周りの人も「倒立をすると世界の見え方が変わる」ことだ。自分以外の他者も、倒立をすると宇宙を見る。

こう考えると、意見に相違が生まれるのはごく自然な気がする。私たちは、それぞれがそれぞれの見方で世界を捉えているからだ。意見の相違が「見方の問題」だと分かると、意見そのものに優越はないことも思えてくる。どう世界を切り取るかに意識が向くと、意見の相違から生じる対立を乗り越えるきっかけが生まれるかもしれない。


解釈を終えて

あの時の自分が何を思っていたのか。メモを通して、過去の自分と対話をした。出した答えが、過去の自分が本当に考えていたことかどうかは知る由もない。だが、その言葉を解釈したのは、紛れもなくこの「僕」であり、自分の思考の一部なのだ。

時々、自分の「言葉」を振り返ってみるは、案外面白いかもしれない。

そんな気づきを持って、たまたま見つけた意味不明なメモを解き明かす、終わりのない旅を一度終わることにする。

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