見出し画像

働く価値たる幻想性

私には毎日の違和感があります。
私は平日に労働しております。時に会社におもむき、日々会社に向き合って何らかの資料やコードに向き合う日々です。

私が契約している会社には服装に関するルールがあります。私はこれについておかしいと感じています。私は技術者で、他社と交渉したり商品を売る役割の営業ではありません。
もちろん身なりを汚くしてよいというわけではないですし、個性を出しまくるべきだというわけでもないです。ではどういう服装にNGが出たか。チェック柄でした。
・・・たかだかチェック柄で、です。他社の人間が見る可能性があり、NGだと。

服装というのは恐ろしいものです。
確かに他人が服装に対してどのような判断を下しているのか、あまりはっきりしない。例えばチェック柄の人間が一人いて、それで、あ、この会社はだめな会社だと判断する人がいないとは言い切れません。その人が触れている文化の違いもあるでしょう。乱暴なサービスが行われて、取引が不利になるかもしれないと考えるかもしれない。


ここで一つ、私たちが読んでいる佐々木隆治さんの『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 (角川選書)』に、目を引く表現があったのを思い出しました。「第一七章 労働力の価値または価値の労賃への転化」の部分。「労働の価値」という表現について分析している箇所です。

それ(労働の価値)は一つの想像的な表現であって、たとえば土地の価値というようなものである。とはいえ、このような想像的な表現は生産関係そのものから生じる。それらは、本質的な諸関係の現象形態についてのカテゴリーである。

丸かっこ内筆者、pp.367,368(kindle)

なにか一つの事実かのように扱われがちですが、ここには「労働の価値は現象形態だ」と書いてあります。このあとで、それは「幻想」だという表現もありました。こうした労働の価値に対する理解はよく考えてみればそれもそうかと納得できると思います。
労働には価値があるとされなければ私たちは働きもしないでしょう。しかしなぜ価値があるか。当然商品が作られるから、生産されるからです。これを「現象」や「幻想」の二文字で説明するのが新鮮でした。生産という動きによって生まれる「労働の価値」という現象。なるほどしっくりきます。

現象だからこそ、はっきりした因果関係はそこにない。あるのは相関関係だったり、なにか似ていたり、不利益があったら怖いからなどといった感情的な理解に基づいてルールが定められていく場合もある。


しかしなぜこんなにも不安定なのだろうか。どうしてこんなにもゆらゆらと揺らめく事柄に、働くということを委ねているのだろうか。

ちょっとバカバカしいかもしれないが、私の理解で資本や労働者の関係について描いてみた。

資本や労働の流れ

図を描いてみてわかったのは、結局こうした流れを資本は作り出せるし、それ以外の何かが流れを作り出せていないから、私たちは資本主義体制にあり続けているのだろうということだった。
もっと言ってしまえば、剰余価値があるから客は商品を魅力に感じるのだということだ。剰余価値がなければ客は商品をそこまで魅力には思わない。もちろんその剰余価値に対して支払われる金の多くは資本家に流れてゆく。ゆえに格差は広がる。とはいえ、そうしたことも含めて資本は変化を、流れていくことを人々に強制する。

たゆたう現象の流れの中で幻想を観続けさせられる運命の我々は、時に騙し騙され、時に誠実に、商品を作り続ける必要があります。
剰余価値などとマルクスは言いますが、本当にそんなものは存在するのでしょうか。商品は労働者の血と汗にまみれていると書くことは簡単ですが、私たち労働者はそんなにも真面目に働いているでしょうか。
真面目に働いていなくても、ちゃんと血と汗にまみれた商品は日々作られ続けているといえばそうです。機能する商品がつくられなければ労働者もまた淘汰されていくのはマルクスも書いていましたね。

逆に考えれば、そんなに真面目に働かなくても、一日八時間、日々それなりに働いていれば、剰余価値はきちんと商品に加えられて、購買に耐えうるものができる。それぐらい現代社会のシステムがしっかりしているという意味でもあるのでしょう。
そうなると、どこまで私たちは仕事をサボれるのかという議論になってくる。・・・言い方が悪ければ変えてもいい。どこまで私たちは効率的に働き、残りの時間を「余暇」に当てることができるのか、とも。(括弧書きに注意せよ)

半分ぐらいの冗談はこれぐらいにしておきましょう。

ともかく、今回マルクスの解説書を読むことで、より一層マルクスがわかりました。マルクス以前はこうした労働者の搾取に着目する人がいなかったし、福祉国家への道筋もつけられなかった。マルクスが労働者を救ったとも言えるし、この資本主義 対 共産主義の対立構造もより鮮明に作ってしまった。そういうまとめ方ができるかと思いました。

最後に映画を紹介させてください。

ポール・ロズディの『新世界』というドキュメンタリーです。

オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公が行った1914年6月23日~30日までのボスニア・ヘルツェゴビナへの旅程を辿った旅映画です。
現実のフェルディナント大公は28日にサラエボで暗殺されているのですが、その後の旅程も映画では丁寧に追ってゆきます。中央ヨーロッパに興味がある人におすすめの作品。

この中には宗教にまつわる人が出てきます。ムスリム。ユダヤ教徒。マルクスの家系もユダヤ教徒だったのですが、父親がプロテスタントに改宗したことを思い出しました。改宗することでビジネス的にうまくいくことが多かったそうで、よくあることだったと伝記はいいます。熱血漢のカール・マルクスは自身が生まれた直後あたりに行われたであろう父親ハインリヒ・マルクスの改宗に怒ったそうですが。。。
とにかく中央ヨーロッパは文化的に非常に豊かで多様なことが、この映画からも非常に伝わってきました。

また読書会で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?