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『趣味』

 初めて僕の部屋にやって来た彼女が、

「私、チェスやってみたい」

と言うので、僕は自室の収納の奥からチェス盤を引っ張り出した。
 チェスの駒に触れるのは久しぶりで、僕は駒の動かし方を思い出しながら彼女にチェスのルールを伝えた。

 2ヶ月もしないうちに、彼女は僕と楽しくチェスをするようになった。恋人とチェスをするのも悪くはない。
 僕といい勝負をするようになった頃、彼女が言った。

「私、囲碁やってみたい」

 僕は実家のじいちゃんから碁盤を借りて来た。彼女はたくさんの碁石の中から一つを手にとり、

「わ。ほんとに石なんだ。それに、裏っ返しても白は白のままで、黒は黒のままなのね」

と言った。そりゃ囲碁はオセロとは違う競技だから当たり前だ。ただ、臆面もなく素直に感じたままを言う彼女を、僕は嫌いじゃないなと思った。
 囲碁は大学生の時にやって以来だったので、僕は定石集の本をひっぱり出して、彼女と一つ一つ勉強し直した。
 3ヶ月もすると、碁盤の上にぱちんぱちんと指先で碁石を打つ彼女の指は、なかなか様になっていた。


 彼女の指先は盤上のみに留まらない。
 
「私、ギター弾いてみたい」

元々彼女はピアノを弾いていたので、楽器に興味が行くのは当然なのかもしれない。
 親父から譲り受けたギターが三本ほどあったので、僕は弦を張り直したフォークギターを彼女に手渡した。

 チューニングやコードを習得するための時間はかからなかったし、ギター入門期に引っかかりやすい6本の弦を人差し指で押さえるコード──Fの壁もすぐに超えてしまった。
 半年もしないうちに、彼女はギターを抱えて軽い弾き語りを僕に披露してくれた。彼女と一緒にカラオケに行った記憶が当分なかったので、こういう形で彼女の歌声を聴くのも悪くないなと思った。

「私、将棋してみたい」

僕が小学生の頃から使っている将棋セットを広げて、3ヶ月ほどが過ぎた。
 彼女は嬉しそうに僕の顔を見つめて、パチン!と桂馬の駒を打ちこむ。

「王手!!」

いやはや、もう僕は将棋で彼女には敵わない。

 そろそろ次の提案が始まる頃だと察知した僕は、自分から聞いてみることにした。

「次は花札でもやってみる? それとも手品にでも挑戦してみるかい?」

「んー、じゃあ手品にする! それにしても、あなたって多趣味だよね。一つ覚えてもずっと何か次があるから、私は退屈しないよ」

「どうだろう。僕はチェスや囲碁やギターを知ってるという事実があるだけだよ。知ってるか知らないかなら、知ってる。それだけのことだ。でも、上手くはない。事実、全部君に追いつかれちゃったじゃないか」

「でも、次があるでしょ?」

「まあ、あるけど。君のピアノには敵わないよ。ただ単に知ってて出来るってのと、君みたいに賞をいくつか貰ってるのとは違う」

彼女の家のピアノの側には、いくつかのトロフィーとメダルの類が飾ってある。それらは元々、彼女の部屋の収納にしまってあったが、「君の大切なものだから、きちんと飾ろう」と僕が提案して並べられていた。

 あさっての方を一瞥し、彼女はまたすぐにこちらへ向き直って口を開く。

「ピアノで賞を取るのは何百人とか何千人に一人だったりするけど、囲碁と将棋とチェスとギターと将棋と……全部を知っててそれなりに出来る人も、そう沢山はいないんじゃないかな」

「どうだろう。例えば、知ってる人と知らない人がちょうど半分だったとすると、二分の一をずっと掛けてくわけだ。そしたら、32分の1の人は、囲碁と将棋とチェスとギターと将棋を知っていて、人並みにできることになる」

 趣味なんてものを数値を用いて比べるべきでないことは分かっている。それに彼女の場合、数百分の一や数千分の一を何回も経験しているのだ。僕なんかとは到底比較にならない。
 だけど、深く考えなくとも計算可能な事柄であれば、僕の脳は勝手に数値を導き出してしまう。僕の趣味が、一つや二つ増えようが減ろうが、彼女の前では大して意味を成さない。

「んー。じゃあさ、あなたは私のこと好き?」

「んん。どちらかと言えば好きだ」

「そう。私はそれでいいよ。私もどちらかと言えば、あなたの事が好きだから」

なんの取り柄もない僕のことを、「どちらかと言えば好き」と言ってくれる人は、何万人に一人でもいるだろうか。あるいは──
 気づいたら僕の脳は確率を算出するのをやめてしまっていた。

 僕は小学生の頃に使っていた将棋盤を取り出すため、収納の方へ向かう。

 僕の部屋にはまだ彼女の知らないものがある。彼女がこの部屋にいない時、僕がキーボードを弾く練習をしていることも、彼女はまだ知らない。



(おしまい)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。