見出し画像

『半分』

 アパートのベランダに大きな4段のだるま落としを置いていても、誰も盗んだりはしない。また、ゴムと金属の塊で出来ただるま落としを使って遊ぼうと思う人なんて居ないだろう。それは妻のためのだるま落としだ。

 実際の所を言えば、ベランダ以外に冬用タイヤの適切な保管場所が見つからないだけだ。
 駐車場2台分は家賃に加えて三千円を払うだけで確保できるのだが、冬用タイヤの置き場所はベランダにした。もちろん必要な金額を払っておけば、保管してくれるような店もある。しかしタイヤというものはいい金額がするもので、更にお金を払って他人に預けるという感覚になれない、と妻は言う。したがって、誰も使わないだるま落としとして、シートをかけて半年間ベランダで眠らせるのが適切だと僕は考えた。


“来週から西高東低の気圧配置となり、山間部では朝夕の時間帯は凍結に注意して下さい。また、日中も雪がちらつく日が増えるでしょう”

 毎年変わらないくせに、その言葉は僕をわくわくさせる。僕は雪が好きだ。

 わくわくする冬を迎えるため、僕は重い腰を上げて重いタイヤを運ばなければならない。晴れている週末のうちに運び終え、ガソリンスタンドで交換してもらう。
 使わない工具箱に乗せていた滑り止め付のゴム手袋を装着する。その手首の部分をきゅっと引っ張り、指の谷間までしっかりと密着させる。ベランダに続く大きな窓を開ける。パジャマ姿のままで。

 半年間着続けたタイヤのシートを脱がせる。4本の眠れるタイヤが目を覚ます。

 1番上のタイヤから始める。4分の1。もちろん僕の体力は満タンだ。
 デスクに両手を乗せるため働いていた上腕二頭筋を叩き起こす。「んぐ」と喉の奥に力を入れながら、タイヤを宙に浮かせた状態を維持する。両腕と指の第一、第二関節に負荷を感じたまま、僕の足は妻の尻を乗り越える。こたつが熱いのか、妻は膝から下だけをこたつ布団に差し込んでいる。
 玄関にある妻の靴の上に一度下ろし、一休みしてもバレないが、万が一を考えて靴の隙間に見えるスペースを一時休憩地点とする。
 ドアを開け、広い空間に出たならば、あとは肩に担いで身体全体を使って運ぶ。3階分の階段をすいすいと下り、駐車場の車まで30mほど歩く。やはり、1本目は余裕だ。車のトランクにタイヤを放り込み、息も上がらないまま軽やかに戻る。

 さて、2本目のタイヤだ。4分の2。多少は消耗している。
 部屋の中で宙に浮かせながら、また妻の尻を超える。タイヤや足、全てが妻に触れないようにしなければならない。
 玄関に到達しても、妻の靴の上に置いてはならない。見事に避けなければならない。玄関で思うことは、妻はタコなのか?足が8本もあるのか?という疑問だ。僕は屋外に出るためのサンダルに2本の足を差し入れる。
 タイヤを肩に担ぎ上げるために、短い時間の中で瞬発力を持って上肢の筋肉と腰を使う。これが後々に響くのは分かっている。しかし、アパートの階段下から車への道のりを行くには、これが最善だ。車に履かれたタイヤは、地べたを転がり回るのだが、運ぶ際には地面に触れさせたくない。少しでも長く役割を全うするために、正しい役割の時にダメージを負うべきだ。

 さあ、3本目だ。4分の3。これで半分を超えた。
 車のタイヤが4本で良かったと心底思う。車のタイヤには水曜日が無いのだ。うんざりするような、水曜日の朝一の感覚を味わうことは無い。半分を超えるという感覚が僕の疲れた筋肉には良い作用を与える。
「ねえ、まだ?」
「待て。今やってる。」
「窓、寒いんだけど。」
知っている。寒いのであれば、こたつから飛び出してそこで寝るのはやめろ。肩まで入れ。こたつに人間の首が付いた新しい生物みたいになっていてくれ。
 うんざりしながら、玄関で一休みしようと腕の力を抜いたら、ぶおん、とタイヤが狭い空間で跳ねた。慌てて次の動きが始まらないように押さえつける。こんなものでヒールが折れてみろ、僕の心もたぶん折れることになる。
 折れそうな心で、車のトランクにタイヤを放り投げる頃には、息が上がっていた。でも半分は超えたのだ、半分は超えたのだ、と自分に言い聞かせながら部屋に戻る。

 よし、4本目だ。4分の4。ここまで来たら僕の勝ちだ。
「うおおお」と声を出して気合いを入れるが、僕の手で必死に握りしめるタイヤは妻の尻のスレスレを行く。上腕二頭筋が唸りを上げている。妻の所有する車のタイヤの重さを調べたことなどないし、調べる気にもならない。重さを表す数字を具体的に知ったところで、僕にできることは変わらない。妻の尻を通り越したので、もう重さについて考えることはやめにした。
 何度か妻の上を通り越し、妻がタコではないことを確認していたので、3本目の帰りに玄関の靴たちを何足か靴箱にぶち込んでおいた。小さな玄関が少し広く思えた。
 外に出て肩に乗せ、地面を見つめながらタイヤを運び、トランクに乗せる。腰を逆に曲げると、空はまだ雪を落としてきそうにはなかったが、これで妻の冬支度の一つが完了するのだ。あがった呼吸のままでトランクを閉めた。


 ところで、ベランダにはもう一つの4段だるまが置いてある。
 僕の車のタイヤだ。ポケットの中に突っ込んでおいた妻の車のキーを、自分の車のキーと入れ替える。ベランダに出る。

 僕は、ひょいと2本のタイヤを持ち上げる。
 軽自動車用だ。タイヤは軽い。妻のを含めると、8分の6だ。半分を超えている。車のタイヤに水曜日が無くて良かった。

そして、今日は土曜日だ。まだ日曜日がある。半分を超えていない。
 
 
 

(おしまい)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。