見出し画像

『冬春夏秋』③夏

第一話

第二話


 携帯電話の発する音が、僕の好きではない音になった。
 
 GWを明けて1週間後、僕は営業部に配属された。
 恐らくそれは、僕をあの町に落としていった張本人―奥村さんの一声により決まったようだった。そして、僕の働く会社では、配属先での研修なんてものは、冗談みたいな習慣として扱われるらしい。カタログの束がたくさんのラブレターのように、奥村さんの手でドサッと机に乗せられた。僕はそれをお腹に乗せながら抱え、与えられた営業車の助手席に座らせた。

 
「おい、行くぞ。」

 その声から一日の営業回りが始まる。
 といっても、新人の僕は奥村さんに言われるがままに営業車を走らせ、輸液セットやマスクを納品し、シリンジや注射針の注文を聞いて回るばかりだった。


 暦がお盆に近づくと、ネクタイは締めるが、上着は用無しだ。腕まくりをしたシャツの首元に、汗の雫が到達していく。その頃には、小さなクリニック何軒かが、僕の担当として社内システムに登録された。
 コンビニの駐車場で遅い昼飯を食べながら、夕方遅くまで続く納品書の整理を行う。ミックスサンドのうちの2つめに差し掛かったところで、携帯が鳴る。これだから僕はその音を好きにはなれない。ペットボトルのコーヒーで、卵サンドを流し込み、受話ボタンを押す。

「おい。緊急だ。いまからオペの器械、会社の倉庫まで取りに走って、持ってきてくれ。」

 ため息をつきたくなるが、僕が車を走らせる意味は、それを待つ人のためにある。これは奥村さんの受け売りだけど―。
 ペットボトルの蓋がきちんと締まっていることを確認し、ハンドルに手を乗せる。口内の奥に残るパンの小さな塊を、唾液だけでその先に送る。
 その日予定していた納品のルートなんて、あってないようなものだ。こうして僕は携帯の音に振り回され、その音は僕のペースを乱すものとして、身体にすり込まれつつあるのかもしれない。


 働いていると、夏という季節はこんなにも寝苦しいものか。
 仕事らしい仕事をしているのかはわからなかったが、僕の身体は火照っていく。それを生ぬるいベッドの上に乗せるのが嫌になる。短パンに半袖、最低限の服を着て、エアコンも稼働させている。僕一人のためにこの部屋で鎮座するベッドが、エアコンの恩恵に預かるのには時間がかかる。僕のベッドは一日のほとんどの時間を、高い温度の空気に暖められながら過ごしているため、当然の結果ではあった。しかし、理屈は分かっていても、そこに乗りたくないという感覚は発生するらしい。

 枕元で聞く声は、電子的に変換されて届いていたが、僕はそれでも救われた。

「あ、あの―和人さん、もうそろそろ眠くなってきました?お盆休み、会えるの楽しみにしてますね。」

 あずさはここ最近、僕を下の名前で呼ぶようになった。あの町で夜を過ごした少しあとから、それは始まったような気がする。正確にいつからということは覚えていないが、あずさが意識的にそうしているという事に、僕は気づいていた。

「ねえ、和人さん、聞いてますか?」

「あ、ごめん。暑くて寝付きが悪い割には、あずさと話してると、眠くなっちゃってさ。」

 自分の声が、遠くに反響して少しだけ返ってくる。あずさの秘密の部屋―いや、ただの寝室か―を僕が見て以来、通話しながらでもあずさは絵を描くようになった。一日にさほど長い時間は描かないのだが、「描きたい物があるから、少しでも手を動かしたいの」と言っていた。僕はそれについて、止めようとは思わない。

 ただ、そうしている時のあずさは、言葉と言葉の合間が非常に長くなる。僕がこうして半分寝ながら返事の声を待っていると、なおさらだ。

 電波によって繋がれてはいるが、僕とあずさの関係について、象徴的な言葉が届けられない時間が流れる。絵の具のチューブを小さな机に置く音や、立ちっぱなしの足元を踏み換える音ばかりが届く。 
 僕はそれを聞きながら目を閉じ、アパートの小さな部屋の一角で、あずさがキャンバスの前に立つ姿を頭に浮かべる。僕の想像には色が無く、静かだった。寝付けない夜には、それも悪くは無い心地だったように思う。


 携帯は震えながらも人を呼ぶ。
 ぶぶっと小さく振動したそれは、メッセージが届いたことを伝えていた。小さな机の上にでも置いているのだろう。スピーカー越しに届くその音は、僕を呼んではいない。やはり、僕はその音が好きではない。

「あずさ、携帯鳴ったよ。もしかして、またあの人からじゃない?」

「ん。いいんです。私は今、和人さんとお話してるんですから。」

 あずさの声は相変わらず、携帯と同じ距離を保って発せられているようだ。絵筆を握ったままのあずさの手を想像する。

「僕は、眠いばかりで、何も話せていないよ。暑くなった足の位置を変える音ばかり聞いても、楽しくはないでしょ?それより、会社の人からの連絡なら、必要なことかもしれないし、見ればいいと思う。僕は、もう寝るから。」

「和人さん。私は和人さんとお話ししてるって言ってるんです。でも和人さんが寝るのなら、それでいいですよ。私はもう少し描いてから寝るので、眠いのならそのまま寝てください。」

「んん。おやすみ。」

「おやすみなさい。」

 一人用のベッドで寝返りを打っても、僕の身体に溜まった熱の逃げ場として、面積が足りていないように感じた。
 早々に目だけは閉じたので、いつの間にか眠りに入っていた。その後、あずさがいつ何を手に取った音がしたのか、翌朝には覚えていない。それはその時の僕にとって、少しばかりの救いだったのかもしれない。


 ◆


 新入社員1年目の盆休みは、社内カレンダー通りに与えられた。
 休み前の退勤時に、仕事用の携帯を奥村さんにひったくられた。代わりに出てくれるらしい。僕にできるのは丁寧に頭を下げることくらいだった。

「緊急でオペが入っても、お前はどの手術器械を持って走ればいいか分からんだろ。それに、なあ、彼女のとこに行かないとなあ!」

 奥村さんの言いつけに、僕はありがたく従うことにした。
 

 蝉の鳴き声が増えていく月日に乗って、あずさの住む町に向けて何度かハンドルを握った。
 あずさの住む町まで、2時間の道のりは僕にとって苦ではない。到着後にあずさと過ごす時間を想像しながら運転すると、不思議と肩は凝らなかった。あるいは、ただ、普通車を選んで購入したことが幸いしたのかもしれない。中古であれど、整備さえしていれば、搭載されているエンジンの排気量は嘘をつかない。
 
 
 これで何回会っただとか、数えることはしなかった。時間は滑らかに流れており、僕はあずさと会い、そこであずさの傾きを知ることが必要だった。そのために僕はあずさの住む町に通い、何度かのデートをした。しかし、僕やあずさを呼ぶ携帯の音のために、夜をあずさの隣で過ごすことはなかった。少なくとも、今日までは。

 
「ああ、2週間ぶりですね。和人さん、ねえ、和人さん。」

 2回繰り返そうが、僕は一人しか居ない。

「んん。2週間ぶり。でも、昼まで寝てしまって、遅くなっちゃった。ごめん。」

「いいんですよ。やっと、今回は泊まれるって言ってましたもんね。部屋、入りましょう。」

 夕方になっても鳴く蝉の声に負けて、あずさのアパートに逃げ込んだ。その音は僕を封じ込め、外に出る気力もわかない。あるいは、ただ僕が蝉のせいにしたかっただけなのかもしれないが。
 あずさの部屋の、緑の絨毯が取り払われたスペースで、横に座るあずさといくらかの事務的な会話をした。疲れていた僕は、冷たい床に背中を合わせ、天井を見ながらその会話のために声を発した。
 

 夜と呼ばれる時間になろうが、声をあげるいくらかの蝉たちには関係ないらしい。エアコンを適切な時間数稼働させれば、うちわなんて必要ない。

 あずさの作ったカレーを食べて、僕はまたそのまま背を床につけた。ふくらはぎがフローリングに触れると冷たくて気持ちいい。数ヶ月前の卒論の時期は心血を注いだが、元々僕は勤勉な人間でないのかもしれない。そのまま動きたくなかった。
 絵の具が飛び散るのを防ぐためではないエプロンが役割を終えた。白いTシャツに紺色のハーフパンツを履いた先から伸びる素足が、僕の頭の横を通り過ぎる。僕はそれを目だけで追いそうになるが、天井を見つめるだけにしておいた。


「和人さん、右腕ばっかり日焼けしちゃってますね。なんか、おもしろいコントラストですね。」

あずさは、僕の腕を見ていたらしい。

「運転すると、こっちばっかり日焼けするなんて、初めて知ったよ。変な色だよな。あ、そういえば、あずさの次の絵は何を描いてるの?」

天井に向けて放った声は、別の言葉で僕の元に返ってくる。

「なにというのを、絵を見られる前に言うのもおかしいので、見ます?」

「んん。あずさが見ても良いというのならね。」

天井だけの画面に、あずさが細い鎖骨を連れて現れた。

「じゃ、いきましょ。はい、和人さん立って下さい。」


 あずさ専用の空間には、常にエアコンの電源が入れてあるようだ。そこにある画材やキャンバス、それと自身の絵を思ってのことだろう。


 やはり、今は夏だ。

 ―夏の並木道。
 小さなキャンバスの中には、青々とした木々が描かれている。天から指す光の中で、それらは盛るように育ったのだろう。緑の奥のしっかりとした幹には、たくさんの蝉がしがみついていても、なんら不思議はないことだと思える。
 浴びせるように降り注ぐ日光を吸収した地面は、むせ返るような熱気を下から上に運ぼうと団結している。空気中の温度のうねりが、動いているかのように見える。やはり、これはあずさ見る小さな世界の動きを描いた絵だ。

 だが、少しだけ、違う。
 
 猫だ。
 ひりつくように熱い地面の上に、猫は落ち着いてなど座らない。なぜ、そこに猫がいる。

「ねえ、あずさ。この子は、どうしてここにいるの?」

「なぜって。私が、猫を描きたかったからですよ?」

 違う。
 あずさの絵の中に、異物は存在しなかった。あずさが見る小さな世界では、自然の法則が無視されるような感覚はあるが、この猫は違う。
 明らかに、あずさの意思によって、書き加えられている。あずさは、滑らかに続く時間の中の小さな景色を見る。その景色の中で見えたその傾きに、あとから手が加えられているようにしか思えない。

「それを絵に描き加える理由が、僕には分からない。」

「理由というほど、細かい説明は私の言葉ではできません。私の意思で、少しでも動かしたくて、少しだけ、ほんの少しだけ。でも理由なんてそれだけなんです。」

「んん。」

 僕には次の言葉が見つからない。
 その猫が異物のように見えたからだ。僕は夏の並木道に、その猫がいることを受け入れがたく感じているのは間違いなかった。

 締め切られた窓で、その外で鳴く虫の声はボリュームを下げていた。次の言葉を思案するだけで、声が作れない僕と、それを見て「すん」と鼻だけで呼吸するあずさ。小さな部屋で、音が少なくなっていく。
 

 音の無い時間が、音のある時間へ繋がっていく。それは夏の並木道の絵に座る猫のように、突然に現れることもあり、また僕の好きではない音で繋がれることもある。そして、その音は僕を呼ぶ音ではない。

「あずさ。携帯。鳴ってるよ?」

「え、あ。たぶん、白玉さんだと思います。ちょっと出てきますね。」

休み前に電話をひったくる人間と、休み中に電話をかけてくる人間。仕事の先輩には、少なくとも2種類の人間がいることを知った。
 僕らはそれぞれ、別の会社で別の人物と働いている。僕の先輩は奥村さんで、あずさの先輩は白玉さんだ。理屈は分かっているのだが、僕の足は動いていない。今僕を呼んでいない音の方に向けられない。

 その場に留まることを決めた僕の足先は、エアコンの影響か、温度を失い始めているらしい。僕はその足先の存在を感知しようと、神経を足先に集中させても、その温度を把握できない。あるいは、それを感知する方法に僕が知らなかっただけなのかもしれない。
 

 リビングからの声が届かなくなったのを確認してから、僕の足は音を小さくして動き始める。また音の無い時間が、音のある時間に繋がっていく。

「和人さん、ごめんなさい。大した用事じゃ無かったみたい。」

「んん。いいよ。」

それ以上の文字数を使って、あずさにかける言葉が思いつかなかった。
 大きく息を吸い込むと、先程食べたカレーの匂いが、まだリビングにあることに気づく。それはまだ仕舞われていない鍋から香っていたのか、僕の腹の底に沈む香辛料から香るものだったのか、呼吸を終えた後からでは分からない。

「ほんとに、和人さんの思ってるようなことは、白玉さんに対してないですよ。この前言ったように白玉さんはお世話になってる会社の先輩です。その言葉のとおりなんです。携帯だって、ほら、白玉さんから来るメッセージも全部見て良いです。何も、何も隠してないし、私は和人さんを見てます。」
 
 あずさは何度その名前を呼んだのだろう。僕に対して、その名前を持つ人に対して。

 あずさの手に握りしめられた電子記録を僕は見ようとは思わない。 
 僕が見ようとも思わないデータを手にしたまま、少し低い目線を送ってくる。僕は口の奥に残るカレーの匂いに、そのあずさの匂いを上書きしようと思った。
 
 あずさも、同じものを食べたばかりだったので、僕らはそれを混ぜ合わせるばかりだった。同じ色を長い時間混ぜ続けても、そこに変化は生まれないのかもしれない。それでも、僕はそれを試してみたくなる時があるみたいだ。
 僕は絵に関しては、詳しくない。あずさの絵に関しても、さほど詳しくなかったのかもしれない。
 混ぜても変わらぬ色に、時間をかけて、様々な色を加えていったが、元々持つ色の特性は既に曖昧になっていた。それは先程食べたカレーのせいかもしれない。あるいは。


 僕がその行為に要した時間で、あずさは背中を痛めたと思う。僕は自分の膝が痛いことに、翌朝起きてから気がついた。

 実家にも帰らなければならなかったので、気づけば24時間を経過しないままに、僕はその部屋を出た。アクセルを踏む足と、シートに預けた腰が痛んだ。

 丸一日熱された一人暮らしのアパートに戻ると、その暑さのせいで、僕は膝か腰か、食べ過ぎたカレーのせいでお腹が痛いのか、自分のどこが痛いのかさえ分からなくなっていた。





(つづく)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。