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『冬春夏秋』②春

前のお話


 僕は、会社の先輩に落とされた。
 それは一瞬のことだった。僕はそれを、悪い冗談だと思っていて、現実になるとは想像もしていなかった。


 僕が4月から就職した医療機器の販売会社では、ローテンション研修という名の、見定めのようなものが行われていた。
 それは、四角い部屋とビジネスホテルを往復するだけの、マナー研修から始まった。続いて、仕入と売上の数字、見たことも無いUIの社内システムとにらめっこする事務。一日中立ちっぱなし、歩きっぱなしの物流センターの品出し、僕の立つ場所は目まぐるしく変わった。立ち仕事で疲労した後の、総務部の小間使いみたいな期間が少しの癒やしだった。
 
 4月の終わりに待ち受けていたのは、助手席で肩を硬くし身体を揺られるばかりの、営業部の役職者との同行だった。
 
 全ての研修が終わる日、GW前の金曜午後。
 ハンドルを握る営業課長が「世話になった隣県の医師の所に行く」と前を向いたまま呟き、僕はその一言によって2時間も眠気と闘う羽目になった。現実と夢の狭間で、見慣れた景色の輪郭が見え始めた頃、先輩の声で目が覚めた。

「なあ、お前、ここの大学出たんだろ?今日は直帰扱いにしてやるから、仕事終わったら知り合いにでも会いに行くか?どうせ明日から連休だ。俺も直帰するから、気にするな。」

 ハンドルを握る先輩のゴツい手からは、体育会系の匂いがぷんぷんしたが、最低限の情報は仕入れられていた。同行する新入社員の履歴書には、目を通しているらしい。

「それは、だめですって。一応、知り合いはこの町にいますけど…僕、まだ研修期間ですし、そんなことできませんよ。」

「はっは。真面目だなあ。でも、想像はしてたってことだろ、それで十分だ。俺が就職した頃なんて、営業の自由さにワクワクして仕方なかったぞ。それとも、こっちに女でもいるのか?」

 図星をつかれた僕は、先輩に嘘をつくわけにもいかず、すぐに言葉を返せない。スーツの膝の上の折り目を、指でなぞりながら少しの思案をしていた。それを見逃さないから、この人は若くして課長なのだろう。

「おい。お前、絶対この町に女居るだろ。」

「…はい。すいません。」

「はっは。謝るこたねえよ。女の一人も落とせねえで、営業にはなれねえからな。お前もその味を、少しは知ってるって事だ。どうせ今日は遅い。ほら、携帯出せ。彼女に連絡でもするか?はっはっは。」

 それに対してイエスの返事をしたつもりは無かった。
 数分後、小さなクリニックの駐車場で、エンジンを止めた先輩に見張られながら、短いメッセージを送った。そのついでのように先輩は、僕の連絡先を登録した。配属先は決まっていなかったが、特に断る理由が見当たらなかったので、僕はそれに従った。

 もちろん、勤務時間中であろう相手からの返事はすぐに来るはずも無く、先輩に「つまんね」と笑われた。診察室で行われる、クリニックの院長と先輩の商談は、ドアのすぐ前に立っている僕を置きものにして、瞬く間に終わった。2時間の道のりはこれのためにあったらしいが、僕にはよく理解できなかった。
 それを終え、暗がりの中で助手席に向かって歩きながら、僕のポケットは何度か震えていた。


 先輩に落とされた。それは一瞬のことだった。
 通っていた大学近くのコンビニで「順番にトイレに行こう」と言われ、それにイエスの返事をした僕は、一つの鞄と一緒に取り残された。
 してやられた―と思ったが、トイレの中でこっそり開いた携帯にはメッセージが届いていた。コンビニの透明なガラスの前に立ち、僕はそれを思い出しながら、自分の頬が勝手に緩んでいることに気づいた。
 その直後に届いた別のメッセージには“連休明けには彼女の土産話、楽しみにしてるからな。”とあった。僕は苦笑いして、礼を入れる旨を丁寧に文章にして送信するしかなかった。

 
 
 僕の頬が自然に緩んだ方のメッセージに、何度か目をやりながら僕は立っていた。
 日中の春の陽気は、スーツの上着を邪険に扱わせたが、夜になるとそれを使う必要性が出てきた。一人暮らしをしながら通ったコンビニの色は、僕が働く街にあるのと同じ色だった。その色には関係なく、僕がここを通り過ぎた過去の時間と、今僕が立っているこの時間は確かに繋がっている。

 懐かしい匂いを引き連れた足音がするのを、この町の匂いの中で想像した。目の前に現れた赤いヘアゴムと黒髪は、僕の初めて知る香りを纏ってやってきた。

「ねえ、ほんとにいたんですね。それもたった鞄一つで。馬鹿みたいですよ。宇治本さん。」

 目の前に立つスーツ姿のあずさからは、慣れない化粧の匂いがした。あずさに直接会って声を聞いたのも久しぶりだった。

「んん。本当に僕はこの町にいる。僕は嘘をついていなかったということが、これで証明できた。」

「あはは。やっぱり馬鹿みたいですよ。久しぶりに会った最初の会話で、証明がどうだとか、もう数学ばかりしてるんじゃないんですから。」

 少しだけ上気したあずさの声は、多少急いで歩を進めた証だろうと想像した。その理由はどうであれ、あずさが僕のメッセージに答えてくれたことが今ある事実だ。
 あずさも働いた疲れがあるのだろうが、初めての匂いを漂わせながら頬に笑みを作り、小さな背中だけで僕を引いていった。そのあずさの背中を追って、近くのファミレスに入った。


 今更ながら気づいたのだけれど、あずさと二人だけで食事をするのは初めての事だった。

 あずさは、春の陽気を過ごすための白い長袖のブラウスで、羽織の薄紫のカーディガンと仕事用の黒いバッグを隣の席に小さく重ねて置いている。それよりも、黒い膝丈のスカートの方が、僕の頭の隅にはあったのだけれど、それは机の下にあって僕の目には映らない。ただ、それを毎日見ている他人が、あずさの周りにはいるはずだ。
 その姿を真正面で捉えながら、カツとじ定食を食べた。僕のこの着慣れていないスーツ姿が、あずさの目にはどう映っているのか、そんな事が気になった。

「3ヶ月ぶり―ぐらいですかね。ずいぶん、時間が空きましたね。」

「そう言われると、そうだね。いや、もちろん気づいてはいたんだけれど、僕は目まぐるしく変わる景色に追いつけてなくて。時間が続いているという事実は分かってるのに、なんだが繋がってる時間が、ぎゅっとされてるみたいだ。」

 あの冬の時間のあと、僕とあずさは、頻繁に会うようになどならなかった。
 あずさが、そこで絵を描くのを止めた日の中で、僕らは二人の時間を始めた。しかし、会う場所を失った僕らは、それぞれ別の3ヶ月を過ごした。
 僕は2月半ばまで卒業論文の追い込み、その後の2週間で種々の片付けにバタバタしながら、絡め取られるように引っ越した。3月、あずさは就職する予定の会社に呼ばれ、事前研修という名のアルバイトにかり出された。

 4月、僕は桜が舞うことも知らずに研修をこなしていた。その頃あずさは、就職した会社について、個人名を用いた会話をするようになっていた。その名前について僕は、わざわざ覚えてはいないが、同じ大学の先輩がいたらしく、それは働き始めたあずさにとって少しの安心材料になったようだ。
 いくらかの文字と音声だけのやりとりで、僕はそれを知っていた。それらの文字と音声は細切れに僕に届くものではあったが、僕とあずさは滑らかな時間の上に立っている。僕らの立つ世界では、時間は途切れていないのだ。

 
 いくつかの事務的な会話と、栄養を摂取するためだけの食事を済ませた僕は、あずさに言われるがまま、新しい下着と靴下の入ったビニール袋を片手に、数分ほど歩いた。


 あずさの暮らす部屋に入るのも、初めてのことだった。
 散らばる画材用具と沢山の絵の中に立っていた姿からは、想像もつかないような部屋だった。数ヶ月前のあずさは、雑多なものに混じって立っていた。雑多な物の多くは、あずさ以外の人間が配置していたものらしい。この部屋には、あずさとあずさに関する事物がとてもシンプルに存在している。

 中央にある膝ほどの高さの丸テーブル。その天板の縁は角が取れていない。 
 その手前に、あずさの手が指し示す通りに座る。フローリングに広く敷かれた深緑の絨毯は柔らかく、長時間揺られた僕を受け止めてくれた。深夜だから、と小さな音量でつけられたテレビでは、行楽地の宣伝のようなニュースばかりが流れる。知らない人がたくさん動いている。

 特にかしこまる必要もあるまいと、あぐらをかいていると、革靴に包まれていた自分の足と黒い靴下について、申し訳ない気持ちになった。思わず深く足を引き込む。
 それとは対照的に、知らない香りを漂わせたあずさのストッキング越しの足が、白いスリッパと一緒に近づいてくる。
 ことん、という音で、氷が一つだけ入った麦茶が置かれる。

 何らかの台詞は、あずさの口からすぐに出て来ず、ふう、と息を吐きながら、あずさも僕の膝の横に腰を下ろす。赤いヘアゴムをちょこんと目の前のテーブルの端に乗せ、一日じゅう縛られていたであろう髪を手ぐしでほどく。頭を傾けながら揺らすその頬に、あずさは毎日筆を乗せているのだろう。

「おつかれさまでした。あずさも、疲れてるんだね。」

「も、っていう宇治本さんこそ、顔が疲れてますよ?」

「そうだね。ぎゅっとなった時間は、僕を疲れさせるらしい。いつも電話を切ってるような時間に、僕はぱたんと寝ちゃってる。まだ本格的な仕事は始まってもいないのに、これだからね。ちまちまとした数学ばかりやって、運動不足だったから尚更だ。あずさは、ちゃんと眠れてる?」

 あずさの声を何度か聞いていると、硬くなっていた肩が緩む。ここのところ、午後10時には眠くなる。申し訳ないので、電話を切るようにしていたが、何度かあずさの音を耳に入れながら、夢に入ったこともあった。

「私は、必要なだけは寝てますよ。宇治本さんが1時間くらいいびきをかき続けたときは、どうしようかとそのまま聞いてましたけどね。」

「そんなもの聞いてないですぐ寝たら良いのに、って僕は前にも言った気がするな。」

「いいんです。私はそれまで、宇治本さんに散々見られてるんですよ?それも無言で。これは仕返しです。有無は言わせません。」

会話する時間の流れに合わせて、あずさのブラウスの皺が形を変える。その皺は、あずさの持つ曲面の性質に従って動く。しかしそれだけでは、その下の膨らみが持つ細かな特徴について、僕は正確に把握することができない。

「僕のいびきを聞きながら、あずさは何をしているの?」

「それは秘密です。一気に全部言っちゃったら、おもしろくないでしょう?って、宇治本さんの口癖でしたもん。」

そんなことを言うのだから、あずさは僕に見られていただけではないのだろう。絵を描いた後のあずさは、僕のことを少しは気にしてくれていたのかもしれない。

 僕は初めて足を踏みいれた、このあずさの空間のことが気になっていた。開かれていない扉が一つある。それはリビングの先に、小さな部屋が存在することを現している。

「じゃあさ、あの部屋は秘密の部屋なの?」

「え?別に秘密なんかじゃないですよ。というか、宇治本さんはあそこで寝てください。ただの寝室―と私の小さなアトリエです。」

あずさの言い方からすると、僕は一人で寝る前提らしかった。そうではない場合について、それはあずさから言うべきではないことかもしれないが。それよりも。

「もしかして―絵、描いてるの?」

「はい。秘密にしても意味ないので言っちゃいますけど、宇治本さんのいびきを聞きながら、描いたりしてたんですよ。ふふ。」

 そうまでして描くのだから、絵を描くという行為は、あずさにとって必要なことなのだろうと、簡単に推測できた。社会人になったあずさは何を描いているのだろう。それが次に浮かぶ単純な疑問だ。

「見ても、いいかな?」

「私がだめって言ったことありました?」

 あずさは疲れていて重いはずの腰をすっと上げた。あずさの絵を久しぶりに見る僕の腰も、少しだけ軽くなる。
 もちろん、僕の誕生日にあずさからプレゼントされた絵は大事に飾っていた。ただ、あの頃の僕が通っていた部屋で、あずさの前の小さなキャンバスの景色は移り変わっていた。それに慣れていた僕は、あずさの次の絵を、自然と欲していたのかもしれない。
 そんな僕を、あずさは導いてくれる。

「どうぞ。宇治本さんが開けていいですよ。秘密の部屋―ですもんね。」 
 
 僕は慣れないドアを開ける。彼女の指で灯りがともる。
 一人用のベッド上の布は、きれいに整えてあるようだった。枕やシーツに入った皺と、それが作る小さな影は、あずさがいつもそこで横たわっていることを僕に伝えている。

 その横にあるのはまた別の、あずさの小さな空間らしい。
 ベッドの頭側に、パレットを乗せると天板が埋まってしまうくらい小さな机がそこにあった。その下には、いくつかの筆が筒に入れて立ててある。その穂先には、あずさが使う色の名残と、それを塗り替えた色が混在していた。その横に立てかけられた折りたたみのパレットの中には、あずさの知る色が所狭しと並んでいるのだろう。
 そして、小さなキャンバスが、あずさの腕をいつも同じ位置に運ばせるよう、そこに立っている。


 春だ。僕たちは、春の時間の上にいる。

 ―春の並木道。
 しかし、僕が知っているピンク色の花がそこには無い。彼女の絵において、季節の事物は重要な役割を担っていた気がする。しかし、その道の周りに並んでいる木々は、僕の知らない種類なのかもしれない。したがって、それらが花を咲かせる季節を、僕は簡単に想像することができない。

「春、だよね。」

「はい、春です。そうなんです。花はなくても春なんです。でも、宇治本さんは、すぐにその季節がわかるんですね。すごいなあ。」

 季節外れの絵をあずさが描くことも、それは当然にあった。コンクールに応募するときなどは、否が応でも季節を先取りして絵を描かなければならない。しかし、理由があるとき以外のあずさの絵は、その時点での季節を書くことが必然的に多くなっていることを僕は覚えていた。

「僕は、僕の経験から春と言っただけだよ。」

「いいんです。たぶん、それは宇治本さんが私の絵をたくさん見たから分かることです。」

 しかし、この絵には花が存在していないだけではない。
 人物や動物がそこにいないのは当然であるかのように静かで、他にも音を作るべき現象が無いようだった。春の暖かな風も、おそらくそこには吹いていないはずだ。
 しかしながら、あずさが描く絵の中で、春の並木道の時間が止まっていないと感じるのは、変わらない。木々と道が、そこに確かに存在していて、太陽の下にただある。空気もあるのだが、風は無い。絵の中の事物がそこに存在していることに問題は無いのだが、言い得ぬ不安定さを感じる。
 四角いキャンバスに描かれた春はバランス感覚を失っているような。もしかすると、四角く区切られた枠の中で、どちらかに傾いているような、不安定さだ。
 その傾きには二種類の方向がある。良い方と、そうでは無い方―

「ねえ、あずさ。もしかして―さみしかったの?」

 着慣れないスーツ姿の僕の横に立つ、あずさの衣擦れの音がしない。
 
「…わないでください。それは、言わないでくださいよ。なんですぐ分かっちゃうんですか?…私、我慢してたのに。」

 花の無い春の並木道の中に、あずさのそれはあったのかもしれない。描出されたそれは、あずさが小さな世界を覗き込んだときに感じた“傾き”のようなものだったのだろうか。

「ごめん。理由は分からないけど、あずさの絵を見て、そう感じたんだと思う。それなのに、あずさだけが寂しいって感じてるような聞き方をしてしまった。だから、ごめんね。たぶん、僕も寂しかった。あずさのこの絵を見たから分かったんだ。僕も、寂しかった。」
 
 静かな音を立てて、あずさのお尻がベッドの上に大きな皺を作った。あずさの瞳の中で動く時間も、低い位置に沈み込んだ。静かな音に導かれるように方向を変えた僕の身体を登って、あずさの視線だけがこちらに届く。
 その瞳は、また僕を揺らしている。

「ごめんなさい。私、がんばらなきゃいけないのに、こんな絵描いても、宇治本さんは喜ばないって分かってたのに。ごめんなさい。でもでも、嬉しかったんです。仕事が終わって、携帯を開いたら、いるよって、この町にいるよって、そんなの嬉しいに決まってるじゃないですか。また宇治本さんに絵を見てもらえるんだ、って思っちゃいました。でもでも、私、こんな寂しい絵を描いちゃって、さっき家に帰ってきた時、この絵を隠しておこうかって、少し悩んじゃいました。宇治本さんに見せるのが、少しだけ怖かったんです。」

「大丈夫だよ。僕はあずさの絵を見て、あずさの見るものを知りたいんだ。それに、この絵にはあずさが見た小さな時間の”傾き“みたいなものを感じる。あずさの絵を見たから、僕の中のそれにも気づいた。だから、見れて良かったんだ。あずさの描いた春の並木道を。この小さな、あずさのアトリエで見れてよかったんだよ。」

 あずさが見る景色と、僕が見る景色は、それはおそらく別のものだ。しかし僕らは、それぞれの景色の“傾き”を見ることに意味があったのかもしれない。
 滑らかに繋がっている時間の中で、小さく、近くに寄ってみればその傾きが見える。

 あずさの瞳の中で、僕は揺れながら少しずつ傾いていく。やがて、その小さな瞳の面積に入りきらないほど、大きくなっていった。

「今日は、驚かせてごめんね。」

「私が、だめって言ったこと、ありました?」

 僕とあずさの影は、そのまま大きく傾き、シーツに深く沈み込んだ。
 

 僕とあずさは元の形を維持することが困難になる。滑らかに続く時間に従って、増えながら形を変えるこのシーツの皺のように。

 

 僕にとって、その皺より複雑な形をした夏が来る。
 




(つづく)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。